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第一章:壊れた世界の始まり
絶望
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一週間前の今日は、いつもと変わらない火曜日だった。
いつものように、朝起きて、学校に行って退屈な授業に欠伸を噛み殺し、学校帰りには友達とちょっと寄り道をして。
何の変哲もない日々。
まるきり同じとは言わないけれど、一週間同じ日を繰り返したんだよと誰かに言われても、ああそうかもしれないと思ってしまえるほど、代り映えのしない、平凡極まりない日々。
昨日と同じように今日が来て、今日と同じように明日が来る。
そう、信じていた――違う、それは当たり前過ぎて信じる必要すらないことだった。
ひと月後の試験が嫌だな、とか、今度の休みは何をしようかな、とか、そろそろ進路も気になるな、とか。
何の疑いもなく、今の日々が続くものだと考えていた。
けれど、それから三日で、何もかもがガラリと変わってしまった。
――いや、変わったのではない。壊れた、壊れたのだ。
世界が、壊れてしまった。
扉一枚隔てた向こうで、ガタン、と大きな音がして、明日菜は身をすくめる。両手で耳を覆って、クローゼットの中でできる限り小さくなった。
呼吸する音すら立てられない。
ほんの少しでも彼女の存在をこの部屋の外にいるモノに悟られたら、どうなるか。
想像したくなかった。
想像、できなかった。
自分がどうなるかが恐ろしいだけでなく、それを為すのが何モノなのか、何者だったのかを目の当たりにするのが、怖かった。
また、ドン、という音。壁が揺れる。
獣のような唸り声。それは、餌を求めてうろつく獣だ。
いったい、何が起きたのだろう。
考えてみても判らない――解からない。
何が起きたのか、何がこの事態を招いたのか。
明日菜には理解できなかった。
判っているのは、ただ、ほんの数日前には当然のものとして享受していた平凡で平和で幸せな日々はもう二度と戻ってこないのだということ、ただそれだけ。
そのかけがえのない日々と共にかつて明日菜のことを守り、育み、慈しんでくれた者たちは消え去り、後には壊れた世界と狂った獣が残された。
また、ドン、という大きな音。
今度はこの部屋のドアが揺れた。
たまたま、ドアにぶつかっただけなのかもしれない。あるいは、ここにいる明日菜の気配に気づいたのかもしれない。
彼女は息をひそめてクローゼットの羽板の隙間からドアを凝視する。
鍵をかけた自室の扉の前には、ベッドと学習机とタンスを引きずってきて置いてあった。床にはひどい傷が付いてしまったけれど、それを叱る人は、もういない。その事実が、明日菜の胸を締め付ける。
世界には、どれほどの『ヒト』が残っているのだろう。
いずれ、誰かが助けに来てくれるのだろうか。
そう思いながらも、明日菜はそれを望んでいるのかどうなのか、自分でもよく判らなかった。
(わからないことが、増えるばっかり)
声に出さずに明日菜は呟いた。その口元に、自嘲の笑いが浮かぶ。
唯一はっきりしているのは、この4LDKのマンションの中にいるのは、明日菜と、時折吠え、時折家の中を破壊している、『何か』だけ。
逸早く異変に気付いた母が身を挺して守ってくれなかったら、明日菜は今頃どうなっていただろう。
母がそうなったように、喉を喰い破られダイニングの床の上で冷たくなっていたに違いない。
けれど。
(その方が、良かったのかもしれない)
明日菜は胸の中で呟いた。
そうなっていれば、こんな怖い思いをしなくて済んだ。
母と一緒にあの日のうちにさっさと喰い殺されていれば、いつそうなるのだろうと怯えなくて済んだ。
(どうせ、もう世界は終わりなんだし)
生きていたって仕方がない。
母が死ぬ前の日に、唯一放送を続けていた国営放送はまるでホラー映画のようなことを垂れ流していた。
世界中で始まった、ヒトの狂暴化。
ただ、暴れるだけではない。
ヒトがヒトを喰い殺し始めたのだ――ある日、突然。
それは本当にある日突然で、世界各地でほぼ同時に始まり、爆発的に拡散した。あまりに急激で、原因を究明する暇など全くなかった。
テレビで緊急放送が流れたのは、六日前。この時はまだ、いったい何が起こっているのかさっぱり要領を得なかった。
ただ、異常事態が起きている、家から出るな、その一点張りで。
四日前に戒厳令が発せられ、そして三日前に、父が狂った。
直前まで、父は普通にしゃべっていた。居間で、明日菜の隣に座り、テーブルをはさんで向かいに座る母に向かって、これからどうなるのだろうと不安そうに言い、何か食料を探して来ようと言った。
「近くのスーパーなら――」
突然ぶつりと声が切れて明日菜が横に目をやると、父はまるでスウィッチが切れたロボットのように固まっていた。
「お父さん?」
その異様な様子に恐る恐る声をかけた明日菜を、ギギ、と軋む音が聞こえそうなほどぎこちない仕草で首を回した父が見返してきた。
「……お父さん?」
もう一度、声をかけた。
刹那、父が口を開いた。違う、歯を剥き出した。
化け物。
顔の作りは同じなのに、それはもう父とは別の『何か』だった。
明日菜に掴みかかった父に母が飛びつき、今しも彼女の顔に喰らい付こうとしていた夫を引き剥がした。
「行きなさい! 明日菜!」
そう叫んだ母の喉に父の歯が食い込んだ。床にへたり込んだ明日菜の目の前で。
「ぎゃぁああ、が、ご、ゴボッ」
母の悲鳴は、あっという間に溺れる人の喘ぎになった。
ヒク付く妻を夫が貪り喰っている間に、明日菜は自分の部屋へと転がり込んだのだ。母を、見捨てて。
それから、三日。
明日菜には間食の習慣がないから、この部屋には飲み物も食べ物もない。
彼女は、もう三日、何も飲み食いしていなかった。
このまま、ジワジワと飢え死にするのか。
それとも、彼女がここにいることに気付いた父に喰い殺されるのか。
「……お父さんになら、いいかなぁ」
声に出して呟いた途端、明日菜の中で何かが崩れ落ちる。
一たび抑えていたものが外れてしまえば、もう後はなし崩しだった。
彼女はこらえきれずにしゃくり上げる。
「ッヒ……」
カラカラに乾いた身体では、涙も出ない。けれど、嗚咽は漏れた。
泣いたら存在を気取られてしまう。それは解かっているけれど、止まらない。
「お母さん、お父さん、もうやだよぉ」
かすれた声で、もう存在しない優しい二人に訴えかける。応える声を、優しい手を、切望しながら。
それがどのくらいの大きさの声だったのか、明日菜は意識していなかった。きっと、それほど大きなものではなかったはず。
けれど。
彼女の部屋の外でガサガサと動き回っていた音が、ピタリと止まる。
一瞬の間。
そして。
ドン、と扉に何かがぶち当たった。扉だけでなく、部屋中が揺れたほどの勢いで。
二度、三度――何度も、何度も。
そのたびに、蝶番が軋みを上げる。
しょせん、このマンションは一般家庭の為の住宅だ。そんなふうに体当たりされて耐えられるようなものではない。
次第に蝶番は歪み、ドアの前に置いた家具が揺れ始めた。
そして生まれた、わずかな隙間。そこから突き込まれた腕が空を掻く。
がっしりした腕は、見慣れたもののはずだった。明日菜が小さい頃は、何度となく彼女を抱き上げてくれた腕。
その腕が今は赤茶色に汚れ、指の爪はいくつかはがれてしまっている。それががむしゃらに宙を掻く。なりふり構わず餌を求める、まさに、餓えた獣そのものだった。
腕から、更に肩が入り込む。
ベッドがズズッと動いた。
片方の脚。
バリケードがさらに押し遣られる。
グイ、と頭が捻じ込まれ、部屋の中を見渡す。
見える姿にはどこもかしこも、腕と同じ赤茶色の何かがこびりついている。特に、口周りから胸元には、べったりと。
血走った目が広くはない部屋をぐるりと見渡す。すんすんと、犬が空気を嗅ぐように、鼻を鳴らす。
その目が、クローゼットに縮こまる明日菜を見る。羽板があるのに、「見られた」と思った。
ツッと糸を引いて床に滴る涎。
父は、かつて父だったものは、その時確かに笑ったのだ――獲物を見つけ、舌なめずりをするハイエナのように。
父の姿の、父ではないもの。
明日菜の中にこみ上げてきたのは恐怖ではなく絶望だった。
「いや、いやぁあああ!」
喉の奥から悲鳴が迸る。
こんな世界は有り得なかった。有ってはならなかった。
変わり果てた父に目を据えたまま、頭を抱え込み、渾身の力で否定する。
けれど、そうしたところで何も変わらなかった。壊れた世界は壊れたままで、どんなに明日菜が拒んでも、元の姿を取り戻しはしない。
叫ぶ明日菜に獣の目が光り、部屋の中へ入ろうといっそう狂おしく身体をくねらせる。半身が入ってしまえば、後はさほど妨げるものはなかった。
ギギ、と役立たずのバリケードを押しのけて獣は無事侵入を果たす。
一歩一歩を踏み締めるようにして近付いてくるその姿を、明日菜は呆然と見つめることしかできなかった。
クローゼットの前に立ったソレは、手を振り上げ、羽板に叩き付ける。
バリッと激しい音を立てて、彼女に羽板の残骸が降り注ぐ。バラバラと、絶え間ない雨のように。
明日菜の姿が、ソレの目に晒される。
大きな手が伸ばされ、明日菜の頭を掴んだ。まるで、撫でようとしているかのように。
(ああ、もう、いいや)
声にならずに呟き、彼女は目を閉じる。
近付いてくる生臭い息。
目を閉じて、引き裂かれるのを待つ。
全てが終わろうとしていることに、心のどこかでホッとしながら。
が。
次の瞬間。
永遠の安寧を待つ明日菜を貫いたのは、肌を食い破られる痛みではなく、鼓膜に突き刺さったガラスが砕け散る鋭い音だった。
いつものように、朝起きて、学校に行って退屈な授業に欠伸を噛み殺し、学校帰りには友達とちょっと寄り道をして。
何の変哲もない日々。
まるきり同じとは言わないけれど、一週間同じ日を繰り返したんだよと誰かに言われても、ああそうかもしれないと思ってしまえるほど、代り映えのしない、平凡極まりない日々。
昨日と同じように今日が来て、今日と同じように明日が来る。
そう、信じていた――違う、それは当たり前過ぎて信じる必要すらないことだった。
ひと月後の試験が嫌だな、とか、今度の休みは何をしようかな、とか、そろそろ進路も気になるな、とか。
何の疑いもなく、今の日々が続くものだと考えていた。
けれど、それから三日で、何もかもがガラリと変わってしまった。
――いや、変わったのではない。壊れた、壊れたのだ。
世界が、壊れてしまった。
扉一枚隔てた向こうで、ガタン、と大きな音がして、明日菜は身をすくめる。両手で耳を覆って、クローゼットの中でできる限り小さくなった。
呼吸する音すら立てられない。
ほんの少しでも彼女の存在をこの部屋の外にいるモノに悟られたら、どうなるか。
想像したくなかった。
想像、できなかった。
自分がどうなるかが恐ろしいだけでなく、それを為すのが何モノなのか、何者だったのかを目の当たりにするのが、怖かった。
また、ドン、という音。壁が揺れる。
獣のような唸り声。それは、餌を求めてうろつく獣だ。
いったい、何が起きたのだろう。
考えてみても判らない――解からない。
何が起きたのか、何がこの事態を招いたのか。
明日菜には理解できなかった。
判っているのは、ただ、ほんの数日前には当然のものとして享受していた平凡で平和で幸せな日々はもう二度と戻ってこないのだということ、ただそれだけ。
そのかけがえのない日々と共にかつて明日菜のことを守り、育み、慈しんでくれた者たちは消え去り、後には壊れた世界と狂った獣が残された。
また、ドン、という大きな音。
今度はこの部屋のドアが揺れた。
たまたま、ドアにぶつかっただけなのかもしれない。あるいは、ここにいる明日菜の気配に気づいたのかもしれない。
彼女は息をひそめてクローゼットの羽板の隙間からドアを凝視する。
鍵をかけた自室の扉の前には、ベッドと学習机とタンスを引きずってきて置いてあった。床にはひどい傷が付いてしまったけれど、それを叱る人は、もういない。その事実が、明日菜の胸を締め付ける。
世界には、どれほどの『ヒト』が残っているのだろう。
いずれ、誰かが助けに来てくれるのだろうか。
そう思いながらも、明日菜はそれを望んでいるのかどうなのか、自分でもよく判らなかった。
(わからないことが、増えるばっかり)
声に出さずに明日菜は呟いた。その口元に、自嘲の笑いが浮かぶ。
唯一はっきりしているのは、この4LDKのマンションの中にいるのは、明日菜と、時折吠え、時折家の中を破壊している、『何か』だけ。
逸早く異変に気付いた母が身を挺して守ってくれなかったら、明日菜は今頃どうなっていただろう。
母がそうなったように、喉を喰い破られダイニングの床の上で冷たくなっていたに違いない。
けれど。
(その方が、良かったのかもしれない)
明日菜は胸の中で呟いた。
そうなっていれば、こんな怖い思いをしなくて済んだ。
母と一緒にあの日のうちにさっさと喰い殺されていれば、いつそうなるのだろうと怯えなくて済んだ。
(どうせ、もう世界は終わりなんだし)
生きていたって仕方がない。
母が死ぬ前の日に、唯一放送を続けていた国営放送はまるでホラー映画のようなことを垂れ流していた。
世界中で始まった、ヒトの狂暴化。
ただ、暴れるだけではない。
ヒトがヒトを喰い殺し始めたのだ――ある日、突然。
それは本当にある日突然で、世界各地でほぼ同時に始まり、爆発的に拡散した。あまりに急激で、原因を究明する暇など全くなかった。
テレビで緊急放送が流れたのは、六日前。この時はまだ、いったい何が起こっているのかさっぱり要領を得なかった。
ただ、異常事態が起きている、家から出るな、その一点張りで。
四日前に戒厳令が発せられ、そして三日前に、父が狂った。
直前まで、父は普通にしゃべっていた。居間で、明日菜の隣に座り、テーブルをはさんで向かいに座る母に向かって、これからどうなるのだろうと不安そうに言い、何か食料を探して来ようと言った。
「近くのスーパーなら――」
突然ぶつりと声が切れて明日菜が横に目をやると、父はまるでスウィッチが切れたロボットのように固まっていた。
「お父さん?」
その異様な様子に恐る恐る声をかけた明日菜を、ギギ、と軋む音が聞こえそうなほどぎこちない仕草で首を回した父が見返してきた。
「……お父さん?」
もう一度、声をかけた。
刹那、父が口を開いた。違う、歯を剥き出した。
化け物。
顔の作りは同じなのに、それはもう父とは別の『何か』だった。
明日菜に掴みかかった父に母が飛びつき、今しも彼女の顔に喰らい付こうとしていた夫を引き剥がした。
「行きなさい! 明日菜!」
そう叫んだ母の喉に父の歯が食い込んだ。床にへたり込んだ明日菜の目の前で。
「ぎゃぁああ、が、ご、ゴボッ」
母の悲鳴は、あっという間に溺れる人の喘ぎになった。
ヒク付く妻を夫が貪り喰っている間に、明日菜は自分の部屋へと転がり込んだのだ。母を、見捨てて。
それから、三日。
明日菜には間食の習慣がないから、この部屋には飲み物も食べ物もない。
彼女は、もう三日、何も飲み食いしていなかった。
このまま、ジワジワと飢え死にするのか。
それとも、彼女がここにいることに気付いた父に喰い殺されるのか。
「……お父さんになら、いいかなぁ」
声に出して呟いた途端、明日菜の中で何かが崩れ落ちる。
一たび抑えていたものが外れてしまえば、もう後はなし崩しだった。
彼女はこらえきれずにしゃくり上げる。
「ッヒ……」
カラカラに乾いた身体では、涙も出ない。けれど、嗚咽は漏れた。
泣いたら存在を気取られてしまう。それは解かっているけれど、止まらない。
「お母さん、お父さん、もうやだよぉ」
かすれた声で、もう存在しない優しい二人に訴えかける。応える声を、優しい手を、切望しながら。
それがどのくらいの大きさの声だったのか、明日菜は意識していなかった。きっと、それほど大きなものではなかったはず。
けれど。
彼女の部屋の外でガサガサと動き回っていた音が、ピタリと止まる。
一瞬の間。
そして。
ドン、と扉に何かがぶち当たった。扉だけでなく、部屋中が揺れたほどの勢いで。
二度、三度――何度も、何度も。
そのたびに、蝶番が軋みを上げる。
しょせん、このマンションは一般家庭の為の住宅だ。そんなふうに体当たりされて耐えられるようなものではない。
次第に蝶番は歪み、ドアの前に置いた家具が揺れ始めた。
そして生まれた、わずかな隙間。そこから突き込まれた腕が空を掻く。
がっしりした腕は、見慣れたもののはずだった。明日菜が小さい頃は、何度となく彼女を抱き上げてくれた腕。
その腕が今は赤茶色に汚れ、指の爪はいくつかはがれてしまっている。それががむしゃらに宙を掻く。なりふり構わず餌を求める、まさに、餓えた獣そのものだった。
腕から、更に肩が入り込む。
ベッドがズズッと動いた。
片方の脚。
バリケードがさらに押し遣られる。
グイ、と頭が捻じ込まれ、部屋の中を見渡す。
見える姿にはどこもかしこも、腕と同じ赤茶色の何かがこびりついている。特に、口周りから胸元には、べったりと。
血走った目が広くはない部屋をぐるりと見渡す。すんすんと、犬が空気を嗅ぐように、鼻を鳴らす。
その目が、クローゼットに縮こまる明日菜を見る。羽板があるのに、「見られた」と思った。
ツッと糸を引いて床に滴る涎。
父は、かつて父だったものは、その時確かに笑ったのだ――獲物を見つけ、舌なめずりをするハイエナのように。
父の姿の、父ではないもの。
明日菜の中にこみ上げてきたのは恐怖ではなく絶望だった。
「いや、いやぁあああ!」
喉の奥から悲鳴が迸る。
こんな世界は有り得なかった。有ってはならなかった。
変わり果てた父に目を据えたまま、頭を抱え込み、渾身の力で否定する。
けれど、そうしたところで何も変わらなかった。壊れた世界は壊れたままで、どんなに明日菜が拒んでも、元の姿を取り戻しはしない。
叫ぶ明日菜に獣の目が光り、部屋の中へ入ろうといっそう狂おしく身体をくねらせる。半身が入ってしまえば、後はさほど妨げるものはなかった。
ギギ、と役立たずのバリケードを押しのけて獣は無事侵入を果たす。
一歩一歩を踏み締めるようにして近付いてくるその姿を、明日菜は呆然と見つめることしかできなかった。
クローゼットの前に立ったソレは、手を振り上げ、羽板に叩き付ける。
バリッと激しい音を立てて、彼女に羽板の残骸が降り注ぐ。バラバラと、絶え間ない雨のように。
明日菜の姿が、ソレの目に晒される。
大きな手が伸ばされ、明日菜の頭を掴んだ。まるで、撫でようとしているかのように。
(ああ、もう、いいや)
声にならずに呟き、彼女は目を閉じる。
近付いてくる生臭い息。
目を閉じて、引き裂かれるのを待つ。
全てが終わろうとしていることに、心のどこかでホッとしながら。
が。
次の瞬間。
永遠の安寧を待つ明日菜を貫いたのは、肌を食い破られる痛みではなく、鼓膜に突き刺さったガラスが砕け散る鋭い音だった。
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