君がいる奇跡

トウリン

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保護者面談

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 ひびきの伯母の遠山凪とおやま なぎは、響とは姿も中身もまったく似ていなかった。四十路一歩手前らしいが、独身で、いかにもやり手のキャリアウーマンという風情だ。

笹本凌ささもと りょうです」
 そう名乗った凌を、彼女は遠慮なしにジロジロと見つめてくる。
「凪さん……」
 あまりに不躾な伯母に響が頬を赤くしながら咎めるような目を向けたが、凪はお構いなしだ。
 鋭い視線での無言の検分は、気が弱い男なら怖気づいてしまうだろう。きっと、職場でも部下を指導する時にはこんな目をしているに違いない。
 凌も黙ってその眼差しを受け止める。

 そうやって、たっぷり五分は経っただろうか。

 不意に、凪がにっこりと笑顔になった。そうするとやっぱりどこか響に似ていて、二人の血のつながりを感じさせる。
「腰抜けではなさそうねぇ」
 その口調は、もしも凌がほんの一瞬でも目を逸らしていたら、即座に玄関から蹴り出されていたに違いないと確信させるものだった。

「二十歳越えてるんだよね、よし、じゃあ呑もうか。響、お中元でもらった芋焼酎があるから、何かおつまみ作ってよ」
「凪さんったら、こんな時間からお酒? 先に夕飯作るから」
「こんな時間って言ったって、もう四時過ぎてるじゃない」
「お酒には、早いと思うんだけど……」
「食前酒よ。ね、笹本君もいいでしょ?」
「俺は――」
 別にどちらでもいい、と言おうとしたところを、ひったくるようにして凪が補う。
「ほら、彼だって飲みたいってさ」
「リョウさんは、全然、そんなこと言ってません」
 呆れたように響が返すが、多分最初から半ば以上諦めていたのだろう。ため息をつきつつキッチンに向かう。

「あの子、真面目だからねぇ。融通効かないから、あなたも苦労するでしょ?」
 確かに見た目とは違って響は意外に頑固だが、キッチンの方からチクチクと視線を感じて、凌は無難な返事に留めておく。
「まあ……そうでもないです」
 彼の心の裏を読んだのかどうなのか、凪がフフッと忍び笑いを漏らした。

 リビングに溢れているのは、寛いでいて温かな空気だ。
 多分、響がこの家で暮らしていた頃は、凪との間でずっとこんなやり取りが繰り返されていたのだろう。凌はそんなふうに思う。

 伯母に見守られ、過去を乗り越えて屈託なく成長した響。
 リビングの中を見回すと、所々に凪らしからぬ装飾が見られる。柔らかな桜色のカーテンだとか、テレビの脇に置かれたウサギの人形が付いた時計だとか。

 そういった物が、実用一辺倒の、ともすれば無味乾燥な空間になり兼ねない凪の部屋を和らげる、アクセントになっていた。それは、かつて響がここで暮らしていたという名残なのだろう。
 この家の中は、絶えず笑いと幸せに満ちていたに違いなかった。何の影もなく笑う少女の響を想い、その頃の彼女を見ることは叶わないのだと思って、凌の胸がチリリと焼ける。
 だが、過去を惜しんでも仕方がない。彼女の全てを手に入れるのは、不可能なのだから。

 胸の中のその感覚を振り払うように、凌は小さく息をついた。
 いつからこんなに欲が深くなったのだろうと、彼自身呆れてしまう。

 響はひとしきりキッチンで動いていたが、やがてリビングへ戻ってくると小鉢を二人の前に置く。鶏肉を湯がいたものに鷹の爪が散らしてあって、香りからすると、ポン酢が掛けられているようだ。
「他にも作るから、お酒だけっていうのはダメだからね?」
 凌よりも凪に目を向け、響が念押しをする。
「判ってるわよ。あんたは、もう、ホント小姑なんだから」
「健康診断で肝臓の数値が高いとか言われたのは、この春の事でしょう? お酒を呑むなとは言わないから、せめてちゃんと食べて呑んでください」

 四十歳目前の伯母と、二十歳そこそこの姪と。
 どちらが年長者なのか判らないようなやり取りだ。だが、凪も響も、互いに対する愛情はその眼差しに溢れんばかりだった。
 ここ最近の響の張りつめた雰囲気が、凪の前では随分と緩んでいる。
 寛いだ彼女を見るのは随分久し振りな気がした。自分ではそうさせられなかったことが、凌には少し悔しい。凪と比べたら響と重ねてきた年月の長さが全然違うのだと判っていても、やはり、彼女を安らげさせるのは自分でありたかった。

「まったく、あの子は世話焼きだからねぇ」
 またキッチンに引っこんでいった響に、グラスに焼酎を注ぎながら凪がこっそりとぼやく。その声で、凌は我に返った。
「響の母親はあいつに似ているんですか?」
「え? ええ……そうね、そっくりよ、何もかも。私と四つ違いだったけど、私よりもしっかりしてたわ。世話好きでね、私は部屋を散らかし放題だったから、しょっちゅう怒られてたのよ。時々、ドキッとすることもあるくらい、よく似てる」
 そう言った凪の目には、懐かしさや無くなった妹を忍ぶ以外に、何か苦みを含んだようなものが走る。それはほんの一瞬閃いただけで消え失せたので、凌には正体を掴むことができなかった。

 ――何だったのだろう。

 微かに眉を潜めた凌には気付いていない様子で、凪はまたすぐに笑顔を取り戻し、続ける。
「私は仕事第一でね、響を引き取ったはいいけど、家の中の事は全部あの子がやってしまって。母親っていうより、父親代わりになっちゃったわよ」
「ここに来た日は、ちょっと愕然としました。洗ってない洗濯物は籠から溢れてたし、ごみ袋は三つも溜め込んでたし」
 苦笑する凪に、戻ってきた響が次の料理を出しながら口を挟む。
「だって、時間がなかったのよ。ごみはあんまり早く出すと怒られるしね……って、これ、ポテトサラダ? ジャガイモ残ってたっけ? 確か芽が生えたから全部捨てちゃった記憶が……」
「サツマイモのサラダだよ。ていうか、材料あんまりないよ? ちゃんと食べてるの?」
「まあ、外食メインでね」
「外食って……まさか、居酒屋でお酒八割、おつまみ二割じゃないよね?」
 睨み付けた響に、凪が空笑いを返す。
「大丈夫、お酒六割、おつまみ四割くらいだから」
「全ッ然、大丈夫じゃありません! もう、とにかく食べて」
 響は頬を膨らませて踵を返し、また何某かを作るべく、キッチンに戻って行った。どうやら、これを機会に伯母に栄養を付けさせることを決意したらしい。

「材料がない」と唇を尖らせながらもその後も彼女はせっせと料理を運び、テーブルの上はほぼ埋め尽くされる。
「あんたもそろそろ座ったら? ダイエットしたとか言ってたけど、ちょっと痩せすぎじゃない? あんたこそちゃんと食べなさいよ。あ、焼酎も呑む?」
「呑みません。まだ未成年なんだから」
「たった一年だけじゃない」
「一年『も』です」
 そう言いながらも響は椅子を引き、テーブルに着いた。気分がリラックスしている所為だろうか、彼女の箸はここ数日見たことがなかったほどにスイスイと動く。久し振りに見る響の食欲に、凌の不安も薄らいだ。
 揃って料理に舌鼓を打つ二人に、凪も黙ってグラスを傾けている。

「凪さん、ご飯」
「ああ、うん、食べるわよ」
 そう言いながらも、彼女の口に運ばれるのは酒ばかりだ。
「もう……」
 ぼやいた響はまたキッチンに行って皿を持ってくると、てきぱきと料理を取り分けていく。配分良く選び終えると、それを凪の前に置いた。
「まったく、変わらないわねぇ。あなたと二人きりでも、こんな感じなの?」
 不意に水を向けられ、凌はチラリと響を見やった。そして、今度もまた、曖昧に答える。
「ええ、まあ……」
「やっぱりねぇ……で、笹本さん、あなたはどのくらいこの子との事を考えているわけ?」
「凪さん!?」
 突然の展開に、響が箸を取り落す。裏返った彼女の抗議の声は、キレイに無視された。凪は真っ直ぐに凌を見据えたまま、繰り返す。

「もう二十三で、この子の家に入り浸ってる訳でしょう?」
「凪さんってば!」
「適当に構っておしまいにするつもりなら、今すぐ帰ってもらえるかな」
 凌の考えは決まっている。響といることしか考えられないから、未来についても考え始めたのだ。彼は箸を置いて、姿勢を正した。
「俺は――」
「凪さん」
 だが、凌の言葉を遮る、三度目の響の声。それは低くジワリと沁み渡る。

「わたしとリョウさんのことは、わたしたちで決めます」
 何か言いかけてやめる、凪。彼女が引き下がるとは思えなかったが、響の方も、一歩も譲る気配がない。
 母子にも近い間柄の二人の間に割り込むこともできず、凌は凪が何か言うのを待った。

 やがて、彼女は両手を上げる――「降参」というふうに。
「ごめん、悪かった」
 あっさりと追及をやめた凪が、凌には意外だった。てっきり、もっと強硬に突っ込んでくるだろうと思っていたのだ。彼なら響に関することで譲歩などしない。

「凪さんは過保護なんです……リョウさんみたい」
「あはは。あなたもそうなんだ?」
 そう訊かれても、凌には頷けない。言葉に詰まる彼は無視して、凪は響に笑いかけた。
「じゃあ、口出ししない代わりに、パスタ食べたいな。作ってよ。ほら、キノコとバターのアレ」
 響はジッと伯母を見つめて、そして小さく息をつく。
「わかりました。ちょっと待っててください」
 そう言って席を立つと、響はまたキッチンに向かった。もう少し食べてからにして欲しいと思いながら、凌は彼女の背中を目で追ってしまう。が、ひそめた凪の声ですぐに引き戻された。

「ねえ」
 明らかに響には聞かれたくなさそうな囁き声だ。凪は小さな紙片を彼の手の中に押し込んでくる。
「これ、私の番号。今度電話して。響がいないところで話をしたいから」
「え?」
 唐突な申し出に、凌は戸惑い咄嗟に反応を示せなかった。
「あの子には聞かれたくないのよ」
 それまでの軽い口調を払拭した真剣な眼差しで、凪は言う。

 『否』という返事は、凌の中には存在しなかった。
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