君がいる奇跡

トウリン

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ナナ

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 外は八月の炎天下だが、空調も完備されている体育館ほどの広さのこの貸倉庫の中は、涼しいとさえ言えるほどの気温に保たれている。
 だが、りょうと彼の相手の周りをグルリと取り囲む観衆は、外気温とは異なる、異様な熱気を放っていた。
 今日の凌の相手は三人、武器は無しだ。ネット中継初試みだから、刃物は止めておくのだと、虎徹こてつは言っていた。

「おりゃぁッ」
 怒声と共に、男が殴り掛かってくる。
 威勢はイイが大振りなその攻撃は隙だらけで、凌は男の拳を軽く頭を下げてかわすと、そのまま彼の腹を下からえぐり込むように拳を突き上げた。
 ぐえ、だか、ぐふ、だか、奇妙な声を上げながら男が身体を折る。
 反吐を吐きかけられる前に男を突き放した凌だったが、体勢を整え終わる前に羽交い絞めにされた。
 正面から、彼めがけて拳が繰り出される。
 それは左頬にヒットし、直後口の中に溢れた鉄の味に、凌は苛立った。

 今日はひびきが夕方から空いている日で、逢う約束をしているのだ。
 顔などという目立つ場所に傷を作っていったら、また泣かれてしまう。
 虎徹は試合を長引かせろと言うが、知ったことか。これ以上傷を増やす前に、さっさとケリを着けなければ。

 凌は両足で地面を蹴り、彼の前で再び拳を振り上げた男の腹に左右揃えたその足を叩き込んだ。それは男のみぞおちに決まり、ぐるりと白目を剥いた彼は声もなくくずおれる。
 そのまま後ろに反り返ると、凌を羽交い絞めにしている男が、二人分の重さを支え損ねて真後ろに倒れ込んだ。少し遅れて、凌の頭の後ろでゴツッと鈍い音がする。それとともに、彼を拘束していた腕が緩む。

 立ち上がった凌の周りで、三人の男は地面に転がったままだ。
 彼らを睥睨へいげいする凌の隣にサッと『審判』が立ち、彼の腕を取って高く掲げる。
「終了! 勝者、リョウ!」
 途端に、怒号と歓声が周囲に響き渡った。
 凌の勝利で彼らが金を手に入れようが失おうが、それは彼の知ったことではない。
 凌は身を翻し、観客に混じってカメラを構えている虎徹こてつの元へ向かった。

「よ、イイ感じに撮れてるぜ? 見るか?」
「いらん。それより金をくれ」
「何だよ、つれないなぁ。まあ、いいや。やっぱネットでやると儲かるねぇ。ほらよ」
 肩を竦めて虎徹が放り投げてきたのは、分厚い封筒だった。明らかに普段の倍はありそうだったが、凌は中身を確かめることもせずそれをポケットにねじ込み、踵を返す。
「おいおい、帰っちまうのかよ。最近、マジで付き合い悪ぃな。どこにしけ込んでんだよ? せっかく金があるんだろ? 遊びに行こうぜ」
 そう言いながら肩を組んできた虎徹の腕を、凌は振り払う。
「用がある」
「ああ? お前にか?」
 虎徹の声にあからさまな驚きの響きがあるのも当然と言えば当然だ。今まで、凌に『私用』などというものがあったためしがないのだから。

 呆気に取られている虎徹を置き去りにして、凌は人の波の中を縫うようにして歩く。
 と、その人混みの中から、一組の腕がスルリと彼に絡み付いてきた。
「リョ、ウ!」
 声の主はしなやかな腕で彼を引き寄せる。
「ナナ……」
 名を呼ばれた彼女は、猫のように目を細めて笑う。ついでにゴロゴロと喉も鳴らしそうだ。
 眉根を寄せた凌の表情にはまったく気づいたふうもなく、ナナは自分の胸に彼の腕をこすりつけるようにして身を摺り寄せる。

「もう、何やってたのよ? アタシ、ずっと逢いたかったのに、全然音沙汰ないんだもん」
「ナナ、放せよ」
「あ、やだ、唇切れてる。痛そ」
 その台詞と共に彼の口元に伸ばされた彼女の指先を、凌は首を傾けて避けた。そして、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「ナナ、放せ」
「その傷、アタシが舐めてあげる」
 凌の言葉は彼女の耳から耳へと通り抜けているようだ。ことごとく流して、ナナは彼の腕に手をかけると爪先立って唇を寄せてくる。

「やめろ」
 彼女をグイと押しやって、凌はわずかに声を荒らげた。
「えぇ? 何か怒ってる? あ、欲求不満? そうなんでしょ。じゃあ、これからシよ? 久し振りだし、アタシ張り切っちゃう」
 眉間に皺を刻んだ凌も意に介さず、ナナは続ける。
 彼女は、いつもこうだ。人の話は聞かず、常に自分の欲求のままに突っ走る。
 凌はナナから一歩遠ざかりながら、告げた。

「お前とはもう寝ない」
「え?」
 きょとんとナナが彼を見上げてくる。その釣り上がり気味な大きな目をしっかりととらえて、もう一度宣告する。
「お前とはもう寝ない。他の奴を見つけろ」
 今度は彼の声も彼女の耳に到達したようだ。その目から呆気に取られたような色が消え、代わってギラギラと強い光を帯び始めた。

「何言ってんの? アタシはあんたをアイしてるんだから」
 そう言って、ナナは凌の腕にすがりつく。が、次の瞬間、パッと喜びの色を溢れさせて満面の笑みになった。
「あ、もしかしてコテツのこと? やきもちやいてんの? ダイジョウブ、それならリョウ一本に絞るから。ね?」
 ナナは全く悪びれた様子なく、首をかしげて上目づかいで凌を見上げてくる。
 彼女が虎徹どころか複数の男達と関係を持っていることは周知の事実だが、凌がそれを気にしたことはない。
 彼は深々と息をついてかぶりを振った。

「そういうことじゃない。ただ、俺はもうお前とは寝ない。それだけだ」
 淡々と告げる、凌。その瞬間、ナナが豹変する。
「何で!?」
 突然の金切り声に、騒がしかった周囲が一瞬にして静まり返った。
「ねえ、アタシの何が悪かった? 他の男を切れって言うなら、切るよ? リョウが一番だもん」
 今まで見せたことのないナナの必死な眼差しを、凌は見返す。自分の何がこれほどまでに彼女を引き寄せているのかは判らないが、どんなに乞われても、もう、彼女に触れることはできなかった。

 無言の凌の眼差しに、ナナが微かに目を見開く。彼女にいつもの強気で挑発的な色はなく、まるで途方に暮れた子どものような雰囲気になった。
 彼は黙ったままナナの手を外し、彼女に背を向けた。その背中に注がれる、突き刺さるような視線を感じながら。

 何だか、気が滅入る。
 ナナは自分の好きなように男達の間を渡り歩いているのだと思っていた。その中で、凌が若干上位にいるだけなのだろう、と。突き放したところで皮肉の一つも言われて終わるだけだろうと、軽く考えていたのだ。
 これほどまでに彼女を動揺させるとは、思っていなかった。
 だが、凌の中に、そう多くの人間を置いておくスペースはない。そこはもう響が占めており、ナナが足を差し入れる隙間も残っていなかった。
 時を置けば、彼女の執着も消え失せるに違いない。
 凌は頭を一つ振るってナナのことを追いやった。

 ひとまず一度家に帰り、シャワーを浴び、血飛沫ちしぶきが跳んだ服を着替える。
 鏡を覗くと唇の端の腫れは明らかだった。

 響はきっと気付く。
 頻繁に怪我をする凌を見て、最初のうちは彼女も悲しんでいた。が、最近はそれが怒りにとって代わるようになってきている。
 今日の怪我はどこからどう見てもケンカでできたものにしか見えなかった。流石に、転んだとかぶつけたとか、適当な言い逃れはできそうにないし、響もごまかされてくれないだろう。

 やれやれと小さな息をつきつつ、凌は家を出た。
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