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猛犬注意

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 昼休み、小鳥が餌をつつくように持参の弁当を食べる雛姫ひなきの向かいでパン三つを平らげて、賢人けんとはそそくさと席を立った。
「さて、じゃ、オレ、今日は帰るわ」
 パンの袋を丸めながらそう言った彼に、弾かれたように雛姫が顔を上げる。
「え」
 まるで賢人を引き留めるかのようなその反応に、彼はまじまじと雛姫を見つめた。
「え?」
 朝は何か言いたそうにしていた彼女だったが、結局それ以降いつもと何ら変わりなく、ほとんど賢人の方も見ずに弁当をつついていたのだ。なのにその「え」は、どうして出てきたのだろう。

「えっと……オレにいて欲しい、とか?」
 まさかね、と思いつつ、ヘラッと笑いながらそう言うと、雛姫は反射のようにフルフルッとかぶりを振った。振った後で、今度は、「あ」という顔をしている。
(これは、いったいどう受け取ったらいいんだ?)
 単に、当然いると思っていた者がいなくなるから意外に思っただけの「え」なのか、それとも、賢人に行って欲しくないのにの「え」なのか。

(まあ、前の方だよな、きっと)
 雛姫が彼にいて欲しいと思っているなど、希望的観測が過ぎるだろう。多分、彼女も声を出してしまってから、しまったと思ったはずだ。
 よし、彼女の為にもここは、軽く流しておいてやろう。
 そう決めて、賢人は冗談混じりに軽口を返す。
「今日はちょっと用があるんだ。でも、明日は土曜だろ? 何なら一日付き合ってやるからさ」

 多分に賢人自身の願望を含んだ台詞だったが、当然、それはスルーされる。
 やっぱりな、と内心諦念のため息をこぼしつつ、賢人はヒラヒラと片手を振った。
「じゃあな」
 二人の席を離れようとしたとき、意を決して、という風情の声が追いかけてくる。

「あの!」
 その声に引っ張られるようにして振り返ると、半腰になった雛姫が声のままの表情で賢人を見つめていた。
 もしも「一緒にいて欲しいな」などと言われた日には全てを放り投げてでもここに残るが、万が一にも雛姫がそんなことを言いはしないだろうことは重々承知だ。では一体何をと賢人は小首をかしげて続きを待つが、雛姫は結局視線を下げ、椅子に腰を戻す。

「……何でも、ない。ごめんなさい、引き留めて」
 明らかに何でもなさそうではないのはイヤというほど伝わってきたものの、雛姫がもう一度口を開く気配はなさそうだった。
 まあ、きっと、昨日の見舞いの礼でも言いたかったのだろう。
「……じゃあ、また来週」
 賢人はそう告げて、自分の席に戻ると鞄を手に取った。教室を出る時にもう一度雛姫たちの方を振り返ると、二人が何やら言葉を交わしているのが見えたが、賢人がいなくなると雛姫が話し始めるのはいつものことだ。

(なんかちょっと違ってたって思ったのは、気のせいか)
 少しばかりがっかりしながら廊下を歩いたが、立ち直りの速さは自信がある。玄関を出て自転車にまたがる頃には、もう、これからやろうとしていることに頭が向いていた。

 自転車をこぎ出す前に、賢人は制服ポケットを探って優人ゆうとから渡されたメモを取り出す。

 さて、高校と自宅と、どちらがいいか。

(確実なのは学校で待ち伏せだよな)
 賢人は胸の中でつぶやき、決める。

 彼の『用』は、くだんの男、金谷浩史かねや ひろしに会いに行くことだった。
 正直、優人に調査を頼んだ時には会いに行くことまでは決まっていなかったが、プリントアウトされて渡された過去の発言を目にして何が何でも会ってやるという気持ちになった。

 もちろん、顔を合わせてすぐさま殴る気はない。
 往々にして、ネットでの発言は誇張されているものだ。見栄を張りたくて言ったこともあるだろう。あのふざけた内容は、そういったものかもしれない。

(まあ、それでも一発くらいは殴ってもいいかな)

 ナビアプリで道を探しながらの行程で、一時間半ほどかけて賢人は目的の場所に辿り着いた。下校時間にはまだ早く、校門は静まり返っている。賢人の学校と同じようなカリキュラムなら、あと一時間かそこらで授業は終わるはずだ。

 賢人は路地裏に自転車を置き、自分は電信柱に寄り掛かる。金谷浩史とやらが部活をしていなければいいけどなと思いながら、のんびりと待った。

 やがて、彼の予想通りのタイミングでぞろぞろと生徒が姿を現し始める。
 それなりの数の生徒たちを見送った頃、賢人は求める相手を集団の中に見出した。

「あいつ、か」
 金谷浩史という男は、背丈は賢人よりも頭半分ほど低そうだ。顔は確かに悪くない。まあ、モテそうな甘い面構えをしている。友人と思しき二人の男子学生と笑い合いながら、金谷は彼を観察する賢人の前を通り過ぎていった。
 しばらくその後を追った後、賢人は彼に声をかける。

「金谷浩史クン?」
「あ?」
 優人の情報に間違いはなかったようで、賢人の呼びかけに金谷がいぶかしげな顔で振り返った。振り返った先にいるのが見知らぬ相手であったことに、彼は更に疑わしげな顔になる。
「……あんた、誰?」
「舘賢人。ちょっと時間いい?」
 ニッコリ笑ってそう言うと、相手は見るからに嫌そうな顔になった。
「はあ?」
 なんで俺がと言わんばかりの彼の肩に手を置いて、賢人は耳元で囁く。

「梁川雛姫って、覚えているか? あるいは、木下美紗、とか」

 その名を耳にした瞬間、金谷はビクリと肩を強張らせた。
「彼女たちがあんたを取り合ったんだって? スゴイ、モテモテだね。でも、オレが知ってる話とは、ちょっと違うんだよなぁ。で、そっちの二人は中学からのオトモダチ? そのこと、知ってる? 皆に訊いて回った方が、早いかな?」

 金谷はバッと賢人から離れると、上っ面の笑みを友人二人に向けた。
「ごめん、ちょっと用ができたから、先行っててくれる?」
「ああ。じゃあな」
 多少妙に思ったようだが、友人たちは更に突っ込んで訊いてくることもなく去って行った。

 彼らが充分に離れたあたりで、金谷が賢人に不審そうな顔を向ける。
「で、何なの? どっちかの彼氏?」
「ん? ああ、いや、友達なんだけどね」
「どっちの? ああ、美紗の方じゃないか。あんな気の強い女、ついてけねぇだろ」
 鼻で嗤うその様が、この上なく不快だ。賢人は意識して身体の力を抜きながら、サラリと問いを返す。
「あれ? でも、あんたの方から彼女に告ったんじゃなかったっけ?」
「まあね」
 金谷は肩をすくめて肯定した。そして、続ける。
「でも、狙いは最初から雛姫ちゃんの方だったけど」

 ヘラヘラしながら気軽に彼女の名前を口にした金谷に、賢人の眉がピクリと痙攣する。が、そ知らぬ顔をして相槌を打った。
「へぇ」
 金谷は賢人の顔を窺い、そこに特に怒りやら何やらがないことを確かめたうえで続ける。
「もう三年も経ってるんだし、時効だろ? ま、ちょっと盛り過ぎたっていうか、作ったところもあるけどさ。まあほら、美紗も美人だけど、雛姫ちゃんには敵わないだろ?」
「まあね」
 笑顔で同意した賢人に気を許したのか、金谷の舌が更に軽くなる。
「あの頃、登下校の時に雛姫ちゃん見かけてさ。一目惚れだったんだよね。最初っから突撃しても引かれるかな、とか思ってさ。まずは美紗の方からいってみたってわけ。ほら、何だっけ? 将を射んとする者はまず馬を射よってやつ?」

 雛姫の友人だという者に対してこの発言、舌だけでなく頭も相当軽いらしい。引きつる頬を何とかなだめて、賢人はうなずいてみせる。
「そりゃ、うまいやり方だ」
「だろ? 雛姫ちゃんもいっつも滅茶苦茶可愛く俺に笑いかけてくれたりしたし、絶対イケると思ったんだよなぁ。でも、美紗に別れるって言ったらキレられてさ。あとはもうドロヌマ。サイアクだったよ」

 そこで、賢人の中で何かがブツリと音を立てて千切れた。

「最悪なのはお前だよ、このクソ野郎」
「え?」
 突然低くなった賢人の声に、金谷は目をしばたたかせた。そんな彼の胸倉を掴んで引き寄せる。
「たいした勘違い野郎だな。雛姫は別に『お前に』笑いかけてたんじゃねぇだろ」

 こんな奴のせいで、雛姫は笑顔を隠してしまったのか。

 奥歯を噛み締める賢人に、苦しげな顔で金谷が言う。
「でも、あんなふうに笑ってきたら、普通、俺に気があると思うだろ?」
「ねぇよ」
 一言で切り捨て、賢人は次の瞬間彼を殴りつけた。

「な!?」
 痛みよりも驚いた、という顔で地面に転がっているところを引っ張り上げる。

「さっきのは、雛姫の分」
 告げて、もう一発。

「これは、てめぇのせいで未だに雛姫に笑いかけてもらえてないオレの分だ」

 三度胸倉を掴み上げて額を寄せた賢人に、金谷はヒッと息を呑む。渾身の一撃という訳ではないから、骨が折れるまではいっていないはずだ。まあ、一週間くらいはご自慢の顔が腫れるかもしれないが。
「いいか、オトナに言いつけたければそうしろよ。オレは舘賢人だ。何なら、住所と高校も教えてやろうか?」
 ニッコリ笑ってそう訊ねると、金谷は勢いよくかぶりを振った。
「そうか。まあ、本当なら、千発くらいかましてやりたいところなんだけどな。あんたがやらかしてくれなかったら雛姫とは逢えてなかったわけだし。それに免じて残りの九九八発は勘弁してやるよ」
 そう告げて、賢人は金谷を突き放した。

「あんたのホラをご友人に暴露して恥をかかせるのはなしにしてやるけどな、二度と同じことするんじゃねぇぞ?」
 冷やかな眼差しを投げ付ければ、金谷は壊れた首振り人形並みに何度もうなずいた。
 最後にもう一度一瞥し、賢人は踵を返す。隠してあった自転車にまたがり、帰路に就いた。

 道すがら、賢人は金谷から聞いた話を反芻する。

 判ってはいたが、どこをどう切っても、雛姫に落ち度は欠片もない。そしてそれは、木下美紗も同様だ。つまり、二人が仲違いを続ける理由もないということになる。
 雛姫は何も悪くなかったと納得させられれば、彼女はかつての彼女に戻れるのだろうか。
 だが、きっと、賢人が言葉を尽くしてお前は悪くないと言っても、効果はないのだろう。

(木下美紗と仲直りできれば、いいのか?)

 そんな単純なものではないのかもしれない。けれど、彼女と話をすることが、唯一の解決策のように思われる。

 それにはどうしたらいいのか。
 昨日の雛姫の様子では、なかなか難しそうだ。
 春日に仲立ちしてもらうか。
 でも、雛姫にその気がないのなら、果たして話し合いが成り立つのかどうなのか。

「ああ、くそ。脳が軋む」
 やっぱり、考えるだけというのは性に合わない。
 だが、そうやって考えを巡らせているうちにいつの間にか家に辿り着けていたようだ。

 取り敢えず、帰ったらすぐに寝ようなどと思っていた賢人は、家の前に人影があることに気づいて思わずブレーキをかけた。

 影は、二つ。

 あれは――
「雛姫、と、春日?」

 一瞬、早引けしたことと明日から二日間逢えないことからの雛姫不足が見せる幻かと思った。が、そんなわけがない。

 ペダルをフル回転させて急ぎ、二人の前で急ブレーキをかけた。

 間近で雛姫を見て、ふと違和感を覚える。その正体には、すぐに気づいた。

 雛姫の、前髪だ。
 鼻の頭まで被さっていたそれが、眉の下で切りそろえられている。
 そうして、露わになった驚くほどに長くて濃い睫毛に縁どられた大きな目が、今、賢人に向けられていた。

「どうしたんだ?」
 髪のこととここにいること、二重の意味ででそう訊ねた賢人に、春日が答えようと口を開く。が、彼女の袖を引いて雛姫がそれを遮った。春日は雛姫を見つめ、そして小さく頷く。

 雛姫は一度顎を引き、そしてそれを上げた。これ以上はないというほど真っ直ぐに、賢人と目と目を合わせてくる。

 小さな唇が、微かに震えた。

 そして、澄んだよく透る声で。

「急に来たりして、ごめんなさい。でも、お話、したいの」

 彼女は、そう言った。
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