暗黒神話

トウリン

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来訪

追っ手、その二

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「何――」
 するんだよ、そう続けようとして、康平こうへいは言葉を失う。なんとなれば、今二人がいたその場所を、一抱えもある火球が飛び過ぎて行ったからだ。それは隧道の壁にぶち当たり、そこをごっそりと抉り取って消え失せる。
 未明みあかを腕の中に包んで地面に転がったままの康平を、二発目の火球が襲った。
「くそッ」
 罵ると同時に彼女を小脇に抱えて横に跳ぶ。
 だが、三発目。それは康平が跳んだ先を狙うように向けられていた。

(避けられねぇ!)
 康平は全身で未明を覆い隠そうとしたが、その意に反し、彼女は康平の脇から片手を突き出してしまう。
「バカ!」
 思わず怒鳴った康平の耳に、未明の謳うような呟き声が届く。
 迫っていた火球は、未明の手のひらの先――二人まであと十センチ、というところで一瞬にして消え失せた。音も立てず、煙一つ残さずに。
「な……んだ……」
 安堵の息が康平の口から漏れてしまう。多分、この手のことに関しては、この少女はほぼ無敵なのだ。きっと、彼が庇う必要など、全くないに違いない。

 康平は腕を解き、未明を解放する。彼女は身体を起こすと、暗がりへと――火球が飛んできた方向へヒタと目を向けた。漆黒の闇の先を見据えたまま、凛とした声を放つ。
「出てきなさいよ」

 応えたのは、微かな衣擦れの音。
 そして。

「やはり、魔術では敵わないな」
 その言葉と共に暗闇の奥から姿を現したのは、黒尽くめの巨漢だった。
 身にまとうものはすっぽりと全身を包み込む漆黒のマントで、現代の日本人が着るようなものではない。その服装はいつぞやのアレイス・カーレンと似ているが、中身は明らかに別人だ。
 背丈は一八〇センチ強の康平よりも、かなり高く、恐らく、二メートルはあるだろう。体つきもがっしりとして、優男だったアレイスとは何もかも正反対だ。髪も目も黒く、肌の色も濃い。

「ちょっと、不意打ちなんて卑怯なんじゃないの? キンベル・ゲダス。……いつものことだけど」
「そうでもしないと、お前には到底勝てまいよ。自尊心よりも、勝利の方が大事だ」
 充分な距離を置いたまま、未明がキンベルと呼んだ男は立ち止まった。背丈は二倍、体重に至っては三倍以上はあろうかという相手に向かって、未明は昂然と顎を上げる。
「ここは何なのよ。元々あったの? それとも、あんたが何かしたの?」
「いや、俺は何もしていない。この世界は面白いな。全くといっていいほど魔術とは縁がないのに、こうやって我が神を垣間見ることができる場所は、幾つもある」
 そう言うと、キンベルは未明を通り越して亀裂の方へと陶然とした眼差しを投げた。どうやら、あの奥でのたうつモノを『神』と呼んでいるらしいが、康平には、とてもそうは思えない。何処からどう見ても、単なる『化け物』だろう。

 しばらくうっとりと眺めた後、キンベルは亀裂から未明へと視線を戻した。
「さて、俺も訊きたいな。何故、お前はここにいる? まあ、いつも雲隠れしてなかなか姿を見せないお前がこうやって俺の目の前に出てきてくれたのは、ありがたいことだがな」
「別に、あんたの為にこんなところまで来たわけじゃないわ」
「それでもいいさ。丁度いい。我が神の為に、その命を捧げさせてもらおう」
 言いざまにキンベルは背中に手を回すと、スラリと何かを抜き取った。

「ちょっと、待て。あんなもの持ってきてやがんのかよ」
 康平と未明の目の前で、キンベルは未明の身長ほどもある肉厚な両刃の剣をゆったりと構える。
「大体、殺す気満々ってのは何なんだよ。話が違うだろ? 後で説明してもらうからな」
「康平、私が……」
「いいから、隠れとけ」
 康平はキンベルに目を据えたまま未明にそう言いおくと、腰の後ろに挿しておいたコンバットナイフを鞘から取り出す。カーボンスティール製で、刃渡り二十センチ以上なのに重さは五百グラム無く、強度も優れている。相手は長物だが、懐に入り込んでしまいさえすれば、むしろこちらに有利だ。
 キンベルの長剣に比べれば玩具のように見える得物を持って近づく康平を、彼は大きな身体を揺するようにして嘲笑する。
「お前は何者だ? ミアカスールが人と共にいるなど、珍しいな。そんなもので向かってくるとは、いい度胸だ」
「刃物と何とかは使いようなんだよ。バカにしてると痛い目見るぜ?」

 康平は、ネコ科の猛獣のようなゆったりとした歩みで無造作にキンベルに近づいていく。しかし、その目は大男の全身を隈なく探っており、わずかな筋肉の動きも見落とすつもりはなかった。
 彼のその動きに、キンベルの目に緊張が走る。
「……少しは、できるようだな」
「判っていただけた?」
 軽口を返しながらも、両者の眼差しに油断はない。

 康平は、キンベルの剣の間合いの一歩手前を保つ程度の距離で、円を描くように動く。滑らかな足運びは、小さな音一つ立てない。

 両者ともに踏み込むタイミングを探る。

 先に動いたのは、互いの隙を窺うのに焦れたキンベルだった。空気を震わす気合と共に剣を振り上げて康平めがけて突進する。
「でやぁッ!」
 渾身の力で叩き付けられたその刃は、当たれば人の身体など真っ二つにできるだろう。だが、康平はナイフのバックでそれを受け、キンベルの力のままに流していく。多々良を踏んだキンベルだったが、力任せに振り下ろした剣をVの字を描くように下から上へと切り上げた。戻ってきた刃を、康平は上体を反らせてかわす。わずかに、康平の髪が削がれるが、それだけだ。

 キンベルの大剣の切っ先が天井を向く。
 それは、ほんの一瞬のことだった。

 だが、その一瞬で懐に入り込んだ康平がナイフを水平に薙ぐと、キンベルの長衣の胸元がぱくりと口を開ける。挨拶代わりにそれだけすると、康平は再びトトッと後ろへ下がる。
「貴様……!」
 キンベルは続けざまに康平に向けて剣を振り下ろす。
 子ども一人分ほどの重さはあるだろう大剣を、キンベルは上下左右に軽々と操った。が、康平は踊るような足取りで全て紙一重でかわしていく。

「おっさん、魔法は使わねぇの?」
 再び距離を取って、康平は茶化す。未明を見ていて、魔法を使うには『呪文』が必要なことは判っていた。多分、キンベルにはそれを口にするだけの余裕がないのだ。
 案の定、キンベルの顎がギリ、と音を立てる。

 大剣が唸りをあげて横薙ぎに振り抜かれる。康平はトン、とそれを一歩のバックステップでかわすと、その反動で前に跳ぶ。再びキンベルの懐に入り込むと、回し蹴りでわずかに前屈みになっている彼の側頭部を薙ぎ倒した。
 頭蓋骨への強打で脳を揺さぶられ巨体が思わず膝を突く。
「違う世界から来た人間と言っても、見てくれが同じなら急所も同じなんだな。どうした、平和ボケした世界の住人に油断したか?」
 未だ立ち上がれずにいるキンベルは、顔を伏せたまま、康平の揶揄にも応えない。膝を突いたまま意識を失ったのかと半歩近付いた康平は、ふと、彼から漏れ聞こえる微かな呟きに気付く。

 と、焦りを含んだ未明の警告が洞穴に響き渡る。
「いけない! 康平、下がって!」
 未明の声と同時にキンベルが顔を上げ、ニヤリと嗤った。そこにあるのは勝利の確信。
「喰らえ!」
 突き出した彼の片手から、至近距離で火球が放たれる。

「!」

 思わず意味もなく腕を上げ、顔を庇う康平。
 そんなことで、岩壁を抉るほどの代物を防げるわけもない。

 だが。

 身構えた康平を、熱も衝撃も襲うことはなかった。
 火球が彼に触れようとした寸前、彼の胸元が熱を帯び、瞬時に目の前に輝く壁が出現する。それは火球が衝突すると同時に一際強い光を放ち、両者が互いを吸収したように消え失せた。

「ミアカスールの護符か……」
 一瞬呆気に取られた康平だが、忌々しげなキンベルの毒づきに我に返る。
「よくよく、不意打ちの好きなおっさんだな」
 一種感心したような声で言う康平の前で、キンベルはゆっくりと立ち上がり、後ずさる。
「今回は準備不足だ。せっかくの機会は惜しいが、また出直させてもらう」
 そう言うと、以前の金髪の優男と同様に瞬時に姿を消した。

 静寂を取り戻した隧道の中、パタパタと未明が駆けてくる。
「康平! 大丈夫? 怪我はない?」
 彼の周りをグルリと回って上から下まで眺めつくす未明に、康平は苦笑する。
「そんなに見たって、かすり傷一つねぇよ。こいつ、すげえな」
 傷を作らずに済んだ理由の最も大きなものは、未明の護符だ。胸元から鎖を引っ張って取り出すと、もらった時には輝いていたそれが、うっすらと黒ずんでいた。
「もう一度、魔力を入れておかないと。家に帰ったら、渡してね。取り敢えずは、アレを何とかしないと」
 康平の無事を確認して安堵した未明は、彼にそう言っておいて、再び亀裂へと向かう。

 岩壁――亀裂に、今にも触れんばかりに近づく未明に、あんな禍々しい空気を放っている場所に近づいて、おかしくならないのだろうかと康平は不安になった。自分だったら、三メートル以内に近づいたら発狂しそうだ――その自信がある。
 だが、未明は指先が触れそうなほどに両手を前に突き出し、泰然と佇んでいる。
 何度かの深呼吸で大きく肩を動かしたが、ピタリと止まると彼女の柔らかな声が洞穴に響き始めた。

 何を言っているのかはさっぱり判らない。しかし、旋律はどこか懐かしいような感じがする、唄のような抑揚だ。
 それはキンベルとの戦いと、異形のものへのおぞましさでささくれ立った康平の心を鎮めていく。

 やがて未明の身体が光を帯び、徐々に強まっていく。洞穴の不自然な明るさが未明の放つ光に圧倒され始め、それと共に、まるで映像を巻き戻しているかのように亀裂が次第に修復されていく。
 亀裂がわずかな隙間を残すのみとなった時、そこから、濁った金色の虹彩に縦長をした漆黒の瞳孔を持ったものがぎょろりと覗いたが、未明が一際強い光を放った瞬間、全てが閉じた。

 未明の身体が放つ光が掻き消えると同時に、辺りは本来の闇に包まれる。
 と、トサリ、と、柔らかなものが落ちる音だけが康平の耳に届いた。

「……未明?」
 声を掛けても返事がない。
 康平はマグライトを再び取り出すと、未明が立っていた辺りを照らす。そこに姿はなく、少し下げたところ、地面の上に、彼女は崩れ落ちていた。

「未明!?」
 駆け寄って、頬に触れる。ライトに照らされた顔色は蒼褪めていたが、肌は温かく、首筋にはしっかりとした脈が感じられた。
 安堵の息を吐き、康平は空いている腕に彼女の身体を抱き上げる。それは、軽い――あまりに、軽かった。こんなちっぽけな存在に何もかもを背負わせるなど、どう考えても間違っている。何だか、腹が立つ。
 軽く揺すって未明の身体を腕の中に収め直すと小さな頭がくたりと肩にもたれてきて、微かな吐息が彼の頬をくすぐった。

 マグライトを肩の高さで固定したまま、周囲をグルリと照らしてみる。そこは、もう、ただの隧道の行き止まりだった――おぞましさも、不安も、掻き立てられることはない。
「まったく。わけの解らんことに足を突っ込んじまったな……」
 呟いて、踵を返した康平は闇の中を歩き出す。

 これまでの二十数年間で培ってきた常識を覆す敵に、正体不明の化け物。
 あの亀裂の奥に潜むものを目にした時、感じたのは本能に訴える、生理的なおぞましさだった。

 だが、それは、裏を返せば単なる感覚に過ぎない。

 康平は、もっと明確なおぞましさを知っている。それに比べれば、あんな根拠のないものなど、取るに足らない。
 彼にとって、あの化け物との遭遇は、この件から手を引くほどの衝撃とはなり得なかった。
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