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来訪
追っ手、その一
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一方、康平とはぐれてしまった未明は。
慌てて彼の後を追おうとしたが、唐突にグイと腕を引かれて振り返った。
鼻先が触れそうなほど間近にあったのは黒衣の壁で、ツッと見上げた視界に入ってきた顔に目を見開く。
「アレイス・カーレン……」
信じられない思いで、その名を呟いた。
彼女の腕を掴んでいるのは、身体をすっぽりと包む黒尽くめの長衣に金髪碧瞳の優男だ。明らかに周囲から浮いている格好にも拘らず、誰一人気に留める者はいない。
歓迎の響きは欠片も含まぬ声で呼ばれた男はニッコリと優しげに微笑むと、有無を言わさず未明を引きずって歩き出す。
「ちょっと、放しなさいよ!」
言っても無駄だと解っていても、そう叫んだ。だが、男の足は止まらない。
周囲の注意を引く筈の少女の声とその内容に反応する者は誰もおらず、未明はズルズルと連れて行かれてしまう。その状況に誰も気付かないどころか、人の波は、無意識に二人をよけているようだった。
(これは……隠行の術……?)
眇めた未明の目には、二人を包む術の形式がぼんやりと映る。
『隠形の術』。
それは、かけられたものを意識して『見よう』と思わなければ見えなくする術だ。この術をかけられると、意図してそれを見ようと思わない限り『視界に入っていても見えていない』状態になる。
「ちょっと、放してよ!」
声を上げて足を踏ん張ってもウェイトの差は埋められず、未明には為すすべもない。
年端もいかない少女が怪しい身なりの男に引きずられているというのに、誰一人として、目を向ける者はいなかった。
「放して、放せ、放せったら!」
声を限りに騒ぎ立てても、通行人はどこ吹く風だ。
目を向けないどころか無意識のうちに未明たちを避けながら道を行く人々に、未明は歯噛みする。
(康平は、私を捜してくれるかしら?)
どうだろう。
彼が未明自身に興味関心を抱いているわけではないことは明らかだ。
けれど、彼女の護衛という依頼には、それなりに重きを置いてくれている――はず。
容赦のない力でメインの通りから狭い路地へと引っ張り込まれながら、未明は仕事に対する康平の忠誠心に一縷の望みをかけた。
男は、ささやかな未明の抵抗などものともせず、どんどん路地の奥へと進んでいく。そこは迷路のように入り組んでおり、一度入り込んでしまえば、康平に見つけてもらうのは不可能なように思われた。
未明は適当な頃合で、男に気付かれないように手にしていた紙袋を落としていく。
(気付くかな……お願いだから、気付いてよね)
紙袋は、わずか四つ。
あっという間に手札は尽きた。が、男の足は止まらない。
やがて袋小路に辿り着くと、男はようやく未明の腕を掴んでいた手を放した。
「痛いわね」
これ見よがしに掴まれていたところをさすり、彼女は顔をしかめる。と、男は肩を竦めて返す。
「それは申し訳ありません。見失っていた貴女に逢えて、つい、舞い上がってしまいました」
「私は、遭いたくなかったけどね」
そっぽを向いて、未明はそう答えた。だが、男はそんな彼女の胸倉を掴んで、華奢な身体を叩き付ける勢いで壁に押し付ける。
「私は、逢いたくて逢いたくて、気が狂いそうでした。残念ながら、今のお姿では役立たずですが」
「お生憎さま。まだ、当分はこの姿よ」
つま先が浮くほどに吊り上げられ、喉が詰まりそうになるが、未明は不敵な笑みを浮かべながらそう答える。
「その憎まれ口も、愛おしいですね……。貴女が私のものになる時が待ち遠しくてなりません」
そう囁きながら、彼は唇を寄せてくる。顔を背けようとしたら氷のような手で顎を押さえられた。鋭い爪が頬に食い込み、その痛みに、未明は奥歯を噛み締める。だが、決して、目は逸らさなかった。
「ああ、その眼」
かすれた呟きとともに冷たい唇が重ねられた時も、未明は瞬き一つせずに男を見据えていた。
ややして、身体を離した男が、うっとりと微笑む。
「ぞくぞくしますね、その眼差し。満月の夜に、その眼で見られながら貴女を奪いたいものです」
嗜虐的にそう囁いた男を、未明は冷笑を浮かべて嘲った。
「……コレは絶対に、あんたに渡さない。ええ、誰にも、絶対に。あんたにはこうやって触られているだけでも、虫唾が走るってものよ」
その言葉に、男の顔から柔和な表情が掻き消える。
次の瞬間、未明の背中は地面に叩きつけられていた。
「……っ!」
衝撃に、一瞬、未明の息が詰まる。
薄汚い路地に仰向けにされた彼女に男が馬乗りになった。
「今のうちに、貴女の力を封じておきますね。貴女は界渡りの術を用いた直後で、まだ回復していないでしょう? まだ、赤子のような力しか感じませんね。いつもならば、回復するまでは決して姿を見せてくださらないのに……今回はどうなさったんですか? まあ、私にとってはこの上ない幸運ですが」
「うるさいわね。少なくとも、あんたの為じゃないわよ」
そう、未明としても、あと数日は康平の住処に隠れているつもりだったのだ。あそこであれば、初日に康平が寝ている間に施した結界で護られていたから。あの部屋から出なければ、未明は自分の存在をこの世界の何ものからも隠しておくことができた。
それなのに。
(ああ、もう)
油断した自分が、腹立たしい。だが、普通であればついて来られないような界渡りだった筈なのに、この男はどんな手を使ったのか。
唇を噛み締める未明をどう受け取ったのか、男がほくそ笑む。
「貴女も、出逢ったのが『崇拝者』の彼ではなく私で、良かったと思いませんか? 今ここにいるのが彼だったら、すでに貴女の命は奪われ、封印が解かれていたことでしょう。ああ、そうそう、彼もここに来ているんですよ。何しろ、ずいぶん遠くの次元まで跳んでくださいましたから。貴女が開いた道を使うとしても、流石に、独りでは辿り着けなさそうだったので、彼と手を組んだのですよ。まあ、この世界に着くと同時にお別れしましたけれどもね。貴女が開いてくださった道を使った上に、二人で渡った所為か、私たちはそれほど消耗せずに済みました」
そう言いながら、彼は未明の両手首を一つにすると、片手で彼女の頭の上に押さえ込む。
大人と子ども、男と女の力の違いは明らかで、どんなにもがこうとも、びくともしない。
「何すんのよ!」
続けざまに未明が品のない罵倒を浴びせかけても、男は眉一つ動かさない。薄っすらと笑みを浮かべながら、彼女の襟元を握り締め、一気に腕を引く。
ビーッと音を立てて康平のTシャツの襟が破かれ、まだ全く膨らみのない彼女の胸元が露わにされた。
「この、変態!」
痛罵を浴びせる未明は完全に無視して男は自らの小指の先を噛み破ると、そこから滴り落ちる血で未明の肌に文様を刻み始める。そこから不可視の何かがジワリと這い出した。
それは、呪縛――まさに、未明の全てを雁字搦めにする呪力の蛇だ。
生温かな感触とは裏腹な冷たい力が、彼女の全身にまとわりつく。
(術が完成してしまう!)
術をかけられても解くことは可能であろうが、男の術が自らの身体に浸透していくことそのものがおぞましい。
「ちょ、っと、この、放せったら!」
精一杯もがいても、腹の上に乗られてはどうにもできない。
男の指先が、胸の真ん中からみぞおち、臍へと走る。
ひやりとしたそれが下腹を辿り、未明が身を震わせた時。
唐突に、男が飛びのいた。彼の身体があった空間を何かが飛び過ぎ、ガツッとかなり激しい音を立てて突き当たりの壁にぶち当たる。
未明と男は、ほぼ同時に、その物体が飛んできた方へと首を巡らせた。未明は、目にした姿に、その名を呟く。
「康平……」
二人の視線を受けた康平は、手の中のコンクリート塊を弄んでいる。
「そこの外人さん。あんたのお国じゃどうか知らねぇが、この国じゃそんな子どもにイタズラしたら、ブタ箱に入れられんだよ?」
そう言いながら、彼が二人の方へ足を進めてくる。口調は軽いが、両の眼は剣呑な光を含んで油断なく金髪の男に向けられていた。全身から、今にも男の首をねじ切りそうな空気を放っている。
「くっ……! せっかくの好機を……」
呟いた男の周りで、空気がざわりと蠢いた。長い金髪一本一本が意志を持ったかのようにうねる。
異様な空気に、康平の足が止まった。判然としないまでも何かが起きようとしていることは察したのか、眉をひそめて男を見る。
そうしている間にも、金髪の男を中心とした気の歪みは、奇妙な圧迫感を孕みながらみるみるうちに膨らんでいく。
(いけない)
密度を増す空気の中で、上体を起こした未明が鋭い声をあげた。
「! アレイス・カーレン! この世界に属さない力でこの世界の命を害することは、理を乱すわ! 『求道者』のあんたがそれを是とするの!?」
未明の糾弾に男は忌々しげに顔を歪めたが、それを境に異質な気配は速やかに収束していく。
「確かに、私が理を乱すことはできません。残念ですが、今は諦める他ないようですね……」
そう呟くと、一歩退き、指先を複雑に動かした。
「また、近いうちにお逢いしましょう」
そう、未明に笑いかけ――彼は、消えた。
「!? おい!?」
康平がきょろきょろと上下左右を見回すが、金髪の男の姿はまるで最初から存在していなかったかのように消え失せていた。
今の現象を映した筈の自分の目が信じられないのか、康平は未練がましく唯一の逃げ場である空を見上げる。しかし、ビルの壁には足がかりになりそうなものはなく、よじ登ることは到底不可能だ。
「訳が解らねぇ……」
ボソリとぼやき、康平はバリバリと頭を掻きむしる。そうしてはぁ、と大きく息をつくと、まだ地面に座り込んだままの未明に手を差し出した。それを借りて立ち上がった彼女に、バサリと自分のジャケットを被せる。
「まったく、何なんだ? ロリコンかよ?」
いかにもおぞまし気な口調に、未明は目をしばたたかせた。
康平の言葉が、あの男――アレイス・カーレンがしようとしていたことを指しているのだと察し、未明はこっそり苦笑する。確かにあの状況は、傍目には大の男が幼い少女を陵辱しようとしているようにしか見えなかっただろう。
「彼は――『悪い奴ら』の一人よ」
「へぇ、あれが、か」
康平の返事はそれだけだった。未明は首を傾げるようにして彼を見上げる。
「説明は、要らないの?」
「必要ねぇよ。依頼された期間はお前を守る。それだけだ」
裏を返せば、その期間を過ぎれば後は関係がないということだろうか。そんな未明の疑問は、続く彼の台詞で裏打ちされた。
「俺の依頼人は多かれ少なかれ『ワケあり』の奴らばっかなんだよ。いちいちオタクらの事情を聞いてちゃ仕事にならねぇよ。まあ、さすがに消え失せる人間は初めてだけどな」
康平にとって、『依頼人』とのつながりは『依頼』だけで充分で、それが切れれば、また『何の関係もない人間』に戻るのだ。
(その方がいいのね、きっと)
未明は内心で独り言ちた。
彼女の事情など聞いたところで、康平には何の益もない――むしろ、彼の心の安寧を打ち壊すことにしかならないだろう。
「おい、ボサッとしてんな」
すでに歩き出していた康平が、路地の角を曲がりかけたところで振り返った。
「こんなところさっさと出るぞ」
「あ、うん」
未明は頷き、さっさと背を向け行ってしまおうとする彼を小走りで追いかけた。
慌てて彼の後を追おうとしたが、唐突にグイと腕を引かれて振り返った。
鼻先が触れそうなほど間近にあったのは黒衣の壁で、ツッと見上げた視界に入ってきた顔に目を見開く。
「アレイス・カーレン……」
信じられない思いで、その名を呟いた。
彼女の腕を掴んでいるのは、身体をすっぽりと包む黒尽くめの長衣に金髪碧瞳の優男だ。明らかに周囲から浮いている格好にも拘らず、誰一人気に留める者はいない。
歓迎の響きは欠片も含まぬ声で呼ばれた男はニッコリと優しげに微笑むと、有無を言わさず未明を引きずって歩き出す。
「ちょっと、放しなさいよ!」
言っても無駄だと解っていても、そう叫んだ。だが、男の足は止まらない。
周囲の注意を引く筈の少女の声とその内容に反応する者は誰もおらず、未明はズルズルと連れて行かれてしまう。その状況に誰も気付かないどころか、人の波は、無意識に二人をよけているようだった。
(これは……隠行の術……?)
眇めた未明の目には、二人を包む術の形式がぼんやりと映る。
『隠形の術』。
それは、かけられたものを意識して『見よう』と思わなければ見えなくする術だ。この術をかけられると、意図してそれを見ようと思わない限り『視界に入っていても見えていない』状態になる。
「ちょっと、放してよ!」
声を上げて足を踏ん張ってもウェイトの差は埋められず、未明には為すすべもない。
年端もいかない少女が怪しい身なりの男に引きずられているというのに、誰一人として、目を向ける者はいなかった。
「放して、放せ、放せったら!」
声を限りに騒ぎ立てても、通行人はどこ吹く風だ。
目を向けないどころか無意識のうちに未明たちを避けながら道を行く人々に、未明は歯噛みする。
(康平は、私を捜してくれるかしら?)
どうだろう。
彼が未明自身に興味関心を抱いているわけではないことは明らかだ。
けれど、彼女の護衛という依頼には、それなりに重きを置いてくれている――はず。
容赦のない力でメインの通りから狭い路地へと引っ張り込まれながら、未明は仕事に対する康平の忠誠心に一縷の望みをかけた。
男は、ささやかな未明の抵抗などものともせず、どんどん路地の奥へと進んでいく。そこは迷路のように入り組んでおり、一度入り込んでしまえば、康平に見つけてもらうのは不可能なように思われた。
未明は適当な頃合で、男に気付かれないように手にしていた紙袋を落としていく。
(気付くかな……お願いだから、気付いてよね)
紙袋は、わずか四つ。
あっという間に手札は尽きた。が、男の足は止まらない。
やがて袋小路に辿り着くと、男はようやく未明の腕を掴んでいた手を放した。
「痛いわね」
これ見よがしに掴まれていたところをさすり、彼女は顔をしかめる。と、男は肩を竦めて返す。
「それは申し訳ありません。見失っていた貴女に逢えて、つい、舞い上がってしまいました」
「私は、遭いたくなかったけどね」
そっぽを向いて、未明はそう答えた。だが、男はそんな彼女の胸倉を掴んで、華奢な身体を叩き付ける勢いで壁に押し付ける。
「私は、逢いたくて逢いたくて、気が狂いそうでした。残念ながら、今のお姿では役立たずですが」
「お生憎さま。まだ、当分はこの姿よ」
つま先が浮くほどに吊り上げられ、喉が詰まりそうになるが、未明は不敵な笑みを浮かべながらそう答える。
「その憎まれ口も、愛おしいですね……。貴女が私のものになる時が待ち遠しくてなりません」
そう囁きながら、彼は唇を寄せてくる。顔を背けようとしたら氷のような手で顎を押さえられた。鋭い爪が頬に食い込み、その痛みに、未明は奥歯を噛み締める。だが、決して、目は逸らさなかった。
「ああ、その眼」
かすれた呟きとともに冷たい唇が重ねられた時も、未明は瞬き一つせずに男を見据えていた。
ややして、身体を離した男が、うっとりと微笑む。
「ぞくぞくしますね、その眼差し。満月の夜に、その眼で見られながら貴女を奪いたいものです」
嗜虐的にそう囁いた男を、未明は冷笑を浮かべて嘲った。
「……コレは絶対に、あんたに渡さない。ええ、誰にも、絶対に。あんたにはこうやって触られているだけでも、虫唾が走るってものよ」
その言葉に、男の顔から柔和な表情が掻き消える。
次の瞬間、未明の背中は地面に叩きつけられていた。
「……っ!」
衝撃に、一瞬、未明の息が詰まる。
薄汚い路地に仰向けにされた彼女に男が馬乗りになった。
「今のうちに、貴女の力を封じておきますね。貴女は界渡りの術を用いた直後で、まだ回復していないでしょう? まだ、赤子のような力しか感じませんね。いつもならば、回復するまでは決して姿を見せてくださらないのに……今回はどうなさったんですか? まあ、私にとってはこの上ない幸運ですが」
「うるさいわね。少なくとも、あんたの為じゃないわよ」
そう、未明としても、あと数日は康平の住処に隠れているつもりだったのだ。あそこであれば、初日に康平が寝ている間に施した結界で護られていたから。あの部屋から出なければ、未明は自分の存在をこの世界の何ものからも隠しておくことができた。
それなのに。
(ああ、もう)
油断した自分が、腹立たしい。だが、普通であればついて来られないような界渡りだった筈なのに、この男はどんな手を使ったのか。
唇を噛み締める未明をどう受け取ったのか、男がほくそ笑む。
「貴女も、出逢ったのが『崇拝者』の彼ではなく私で、良かったと思いませんか? 今ここにいるのが彼だったら、すでに貴女の命は奪われ、封印が解かれていたことでしょう。ああ、そうそう、彼もここに来ているんですよ。何しろ、ずいぶん遠くの次元まで跳んでくださいましたから。貴女が開いた道を使うとしても、流石に、独りでは辿り着けなさそうだったので、彼と手を組んだのですよ。まあ、この世界に着くと同時にお別れしましたけれどもね。貴女が開いてくださった道を使った上に、二人で渡った所為か、私たちはそれほど消耗せずに済みました」
そう言いながら、彼は未明の両手首を一つにすると、片手で彼女の頭の上に押さえ込む。
大人と子ども、男と女の力の違いは明らかで、どんなにもがこうとも、びくともしない。
「何すんのよ!」
続けざまに未明が品のない罵倒を浴びせかけても、男は眉一つ動かさない。薄っすらと笑みを浮かべながら、彼女の襟元を握り締め、一気に腕を引く。
ビーッと音を立てて康平のTシャツの襟が破かれ、まだ全く膨らみのない彼女の胸元が露わにされた。
「この、変態!」
痛罵を浴びせる未明は完全に無視して男は自らの小指の先を噛み破ると、そこから滴り落ちる血で未明の肌に文様を刻み始める。そこから不可視の何かがジワリと這い出した。
それは、呪縛――まさに、未明の全てを雁字搦めにする呪力の蛇だ。
生温かな感触とは裏腹な冷たい力が、彼女の全身にまとわりつく。
(術が完成してしまう!)
術をかけられても解くことは可能であろうが、男の術が自らの身体に浸透していくことそのものがおぞましい。
「ちょ、っと、この、放せったら!」
精一杯もがいても、腹の上に乗られてはどうにもできない。
男の指先が、胸の真ん中からみぞおち、臍へと走る。
ひやりとしたそれが下腹を辿り、未明が身を震わせた時。
唐突に、男が飛びのいた。彼の身体があった空間を何かが飛び過ぎ、ガツッとかなり激しい音を立てて突き当たりの壁にぶち当たる。
未明と男は、ほぼ同時に、その物体が飛んできた方へと首を巡らせた。未明は、目にした姿に、その名を呟く。
「康平……」
二人の視線を受けた康平は、手の中のコンクリート塊を弄んでいる。
「そこの外人さん。あんたのお国じゃどうか知らねぇが、この国じゃそんな子どもにイタズラしたら、ブタ箱に入れられんだよ?」
そう言いながら、彼が二人の方へ足を進めてくる。口調は軽いが、両の眼は剣呑な光を含んで油断なく金髪の男に向けられていた。全身から、今にも男の首をねじ切りそうな空気を放っている。
「くっ……! せっかくの好機を……」
呟いた男の周りで、空気がざわりと蠢いた。長い金髪一本一本が意志を持ったかのようにうねる。
異様な空気に、康平の足が止まった。判然としないまでも何かが起きようとしていることは察したのか、眉をひそめて男を見る。
そうしている間にも、金髪の男を中心とした気の歪みは、奇妙な圧迫感を孕みながらみるみるうちに膨らんでいく。
(いけない)
密度を増す空気の中で、上体を起こした未明が鋭い声をあげた。
「! アレイス・カーレン! この世界に属さない力でこの世界の命を害することは、理を乱すわ! 『求道者』のあんたがそれを是とするの!?」
未明の糾弾に男は忌々しげに顔を歪めたが、それを境に異質な気配は速やかに収束していく。
「確かに、私が理を乱すことはできません。残念ですが、今は諦める他ないようですね……」
そう呟くと、一歩退き、指先を複雑に動かした。
「また、近いうちにお逢いしましょう」
そう、未明に笑いかけ――彼は、消えた。
「!? おい!?」
康平がきょろきょろと上下左右を見回すが、金髪の男の姿はまるで最初から存在していなかったかのように消え失せていた。
今の現象を映した筈の自分の目が信じられないのか、康平は未練がましく唯一の逃げ場である空を見上げる。しかし、ビルの壁には足がかりになりそうなものはなく、よじ登ることは到底不可能だ。
「訳が解らねぇ……」
ボソリとぼやき、康平はバリバリと頭を掻きむしる。そうしてはぁ、と大きく息をつくと、まだ地面に座り込んだままの未明に手を差し出した。それを借りて立ち上がった彼女に、バサリと自分のジャケットを被せる。
「まったく、何なんだ? ロリコンかよ?」
いかにもおぞまし気な口調に、未明は目をしばたたかせた。
康平の言葉が、あの男――アレイス・カーレンがしようとしていたことを指しているのだと察し、未明はこっそり苦笑する。確かにあの状況は、傍目には大の男が幼い少女を陵辱しようとしているようにしか見えなかっただろう。
「彼は――『悪い奴ら』の一人よ」
「へぇ、あれが、か」
康平の返事はそれだけだった。未明は首を傾げるようにして彼を見上げる。
「説明は、要らないの?」
「必要ねぇよ。依頼された期間はお前を守る。それだけだ」
裏を返せば、その期間を過ぎれば後は関係がないということだろうか。そんな未明の疑問は、続く彼の台詞で裏打ちされた。
「俺の依頼人は多かれ少なかれ『ワケあり』の奴らばっかなんだよ。いちいちオタクらの事情を聞いてちゃ仕事にならねぇよ。まあ、さすがに消え失せる人間は初めてだけどな」
康平にとって、『依頼人』とのつながりは『依頼』だけで充分で、それが切れれば、また『何の関係もない人間』に戻るのだ。
(その方がいいのね、きっと)
未明は内心で独り言ちた。
彼女の事情など聞いたところで、康平には何の益もない――むしろ、彼の心の安寧を打ち壊すことにしかならないだろう。
「おい、ボサッとしてんな」
すでに歩き出していた康平が、路地の角を曲がりかけたところで振り返った。
「こんなところさっさと出るぞ」
「あ、うん」
未明は頷き、さっさと背を向け行ってしまおうとする彼を小走りで追いかけた。
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