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 ホームルームが終わるとすぐに、葉月は茉奈の姿を探す。
 教室で、葉月はベランダ側の後ろから二番目、彼女は廊下側の一番前だ。

(また隣になったらいいのになぁ)
 しみじみとそう思うけれども、身長がネックになっているから、多分実現は不可能だ。

 葉月は茉奈を視界に入れながら適当に鞄の中に荷物を突っ込み、彼女の下に急いだ。油断をすると茉奈はすぐになんやかんやと用を押し付けられてしまうから、早く捕まえないといけない。

「茉奈!」
 机三列分ほど後方から名前を呼ぶと、彼女はピクンと肩を跳ねさせた。
 小さな深呼吸でもしたかのようなほんのちょっとの間があってから、茉奈は振り返る。

「大石くん」
 ふわりとした笑顔に、葉月の胸の中に火がともる。ニヤけそうになるのをこらえてしかめ面になった。
「葉月、だろ」
 彼の訂正に、茉奈がクッと顎を引く。
「葉月、くん」
 ようやく彼の耳に届くかどうかという小さな声に、葉月はそれでよしとばかりに頷いた。

 付き合い始めて二週間、苗字ではなく名前で呼び合うになってからもそれだけ経っているというのに、茉奈はまだ慣れていないらしい。他の女の子たちの方が、よほど砕けているんじゃないかと思う。
 ――それが、葉月には少しばかり不満だ。

(まあ、そのうち平気になるよね)
 それ以外はうまくいっているし、と気持ちを切り替えながら、茉奈の前に回る。

「帰ろ。今日も茉奈んち行っていい?」
「え、あ、うん……いいよ」
 茉奈はいつものように少しうつむいて、頷いた。
(またほっぺ紅くしてる。可愛いなぁ)
 今でも紅い顔が、無理やり目を合わせようとするともっと紅くなる。そうなった時の困ったような顔も葉月は大好きだった。
 ついついニヤついてしまう顔はそのままに、葉月は彼女に手を差し出す。
「早く行こ」
 茉奈はちょっとの間彼の手を見つめ、まるで熱湯にでも触れようとしているかのようにおずおずと手を上げる。葉月は彼の方からそれを取り、指を絡めるようにして握って歩き出した。

 茉奈の家は学校から結構近くて、ゆっくり歩いて三十分ほどのところにある。葉月の方は自転車通学で、空いている方の手でバランスを取りながら自転車を押していく。
 茉奈とは歩幅が全然違うから、葉月の方が合わせないといけない。口を動かすのは専ら彼の方――たいていはクラスの誰それがどうのという話――で、彼女は相槌を打つくらいだ。
 茉奈を自転車の後ろに乗せたら速いのだろうけれど、葉月はこうやって彼女と手をつないでゆっくり歩くのが好きだった。

 そんなふうにのんびりまったりしているうちに、彼女の家に着く。

「じゃあ、ちょっと待ってて」
 ニコッと笑ってそう言って、葉月を居間に残して茉奈は着替えに行く。
 最初は自分だけ着替えるのは――と渋っていたけれど、色んな彼女を見たいから、と葉月がねだったのだ。

 ほんの五分ほどで、茉奈が下りてくる。彼女はストンとした淡いピンクのワンピースになっていた。三つ編みは、そのままだ。
「それも可愛い。制服も似合うけど、やっぱり茉奈はそういう色の方が似合うね」
「……ありがとう。えっと、何飲む? 麦茶でいい? ちょっと甘くするんだよね?」
 葉月は思ったままを口にしただけなのに、茉奈はそわそわと目を逸らしてキッチンの方へ行ってしまう。こんな反応もいつものことだ。

 茉奈を追いかけ、キッチンの入り口でグラスを取って、お茶を注いでと動く彼女の姿を楽しむ。
(十年後とかにも見てたいよなぁ)
 そんな気の早いことを考えていたら、クルリと茉奈が振り返った。
「お待ちどおさま」
「ありがとう」
 お茶とお菓子が載ったトレイを茉奈から受け取り、彼女の後について部屋に行く。

 茉奈の部屋は、いかにも『茉奈の部屋』という感じだった。
 ちゃんと片付いていて、でも、どこか柔らかい雰囲気で――とても、居心地が良い。

 葉月は部屋の真ん中に敷かれたラグの上にトレイを置いて、ベッドに寄り掛かる形で腰を下ろした。
 茉奈はと言えば、彼の向かいに座ろうと膝を折りかけている。そんな彼女に、葉月は無言で自分の前を叩いてから両腕を広げた。
 茉奈は一瞬怯んだ様子で顎を引き、おずおずと葉月の下へやってくる。
 背中を向けて脚の間に座った彼女を、葉月は自分の胸の中に引き寄せた。

「髪、解いていい?」
「う、ん……」
 前を向いたまま頷いた茉奈の耳は、真っ赤だ。
(なんか、齧りたくなるんだよなぁ)
 そんな不穏なことを考えながら、許しを得た葉月は茉奈の三つ編みから黒ゴムを抜いて、まだ編まれた形を保っている髪に指を通す。
「茉奈の髪、すごい猫っ毛だよね」
 細くて柔らかくてちょっと癖があるから、少し乱暴だとすぐに絡まってしまう。
 何度か手ですいて綺麗に解いた後、また、葉月は茉奈に両腕を回した。
 ギュウと抱き締めると、小柄な彼女は葉月の中にすっぽりと納まる。

(あー、落ち着く)
 何だか、足りなかった自分の欠片を手に入れた気分だ。
 小さいころから姉や他の女の子たちにしょっちゅうハグされてきたけれど、それとは全然違う。
 柔らかな髪に頬を寄せて、葉月はホゥ、と小さく息をついた。

「あのさ、茉奈。今度の日曜日、どっか行かない?」
「どこか?」
「うん。茉奈はどこがいい?」
「え、わたし?」
 茉奈が振り返ろうとしたのが判ったから、葉月は少し腕の力を緩めて彼女を覗き込んだ。
「茉奈が行きたいところに行きたいよ」
 前髪が触れ合う距離で、目が合った。けれど、すぐに逸らされてしまう。
「わたしは……どこでも……大石――」
「葉月」
「――葉月くんの、好きなところで……」
 もごもごと、呼びにくそうに彼の名前を口にして、茉奈はそう言った。

 葉月は期待と違う答えに口を尖らせる。
「僕は茉奈が好きなことをもっと知りたいよ」
「わたしは、ホントに、何でもいいから」
 茉奈は、俯けていた顔を一層深く下げてしまう。

「もう」
 思わず不満が声になった。
 せっかく付き合っていても、嬉しいのは葉月ばかりのようだ。
 ほんの少し身体を強張らせた彼女の肩口に顔を埋め、この気持ちが届けとばかりに抱き潰す。
(もっと、茉奈のことを教えて欲しいのに)

 と、葉月のその心の声が伝わったかのように、茉奈が身じろぎをした。

「あの、おお――葉月、くん」
「何?」
 パッと顔を上げて彼女の言葉を待つ。

 けれど。

「葉月くんは、どうして――」
 そこで途切れたまま、続かない。

「やっぱり、何でもない」
 しばらく口ごもった末に葉月の腕の中で茉奈はまたうつむいて、そう言った。

(なんで、何も言ってくれないんだろう)

 こうやって抱き締めて、これ以上はないというほど近くにいるというのに、どうしてか、葉月は、全然茉奈と触れ合えていない気がしていた。
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