マリーシアとギイ

トウリン

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肝試し

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ある夏の夜に


******


「ねえ、ギイ! これをやってみたいの!」
 ある日息を切らしたマリーシアが持ってきたものは、異国の風習について描かれている一冊の絵本だった。桜貝のような小さな爪のついた彼女の指は、真っ直ぐに何やらおどろおどろしさを醸し出している挿絵に向けられている。

「……肝試し……?」
「そう!」
 眉をひそめてその文字を読み上げたギーベルグラントに、マリーシアが力強く頷く。
「やってみたいなぁ……ダメ?」
 見上げてくる期待に満ち満ちた眼差しを受けながら、ギーベルグラントは思案する。
 挿絵は、暗い廃墟の中をおびえた表情で探索する子どもが描かれているものだ。それのどこがマリーシアの気を引いたのかは、さっぱり解からない。だが、滅多にない彼女からのおねだりは、可能な範囲で叶えてやりたいとは思う。
 マリーシアの望んでいることをするには、当然、この屋敷の敷地内から出る必要があった。ここにいる限り、彼女は完全に守られているのだが。
 ギーベルグラントにとっては、マリーシアの安全が絶対だ。意識を飛ばして、気配を探る。彼の力の余波を受けて、この辺りには魔物にしろ凶暴な獣にしろ、マリーシアに危険を及ぼしそうなものは存在しなかった。
 安全面では問題なく、そして、何より、自分に注がれる彼女の目。期待と希望が溢れたその目を、失望で曇らせたくはない。

 中空に目をやり、ギーベルグラントは心当たりを探ってみる。と、適度な『廃墟』が頭に浮かんだ。

 一心に見つめるマリーシアの眼差しを受けながら、彼は頷く。
「まあ、いいでしょう」
「ホント!?」
 その返事に、マリーシアの顔がぱあっと輝いた。全開の笑顔に、彼も口元をほころばせざるを得ない。
「ちょうどこの近くに、随分前に人が住まなくなった屋敷がありますから、そこにでも行ってみましょうか」
「うれしい! ありがとう、ギイ!」
 歓声を上げたマリーシアは、彼の腰にギュウッと抱きついてくる。その小さな金色の頭を撫でながら、彼女のその笑顔の為なら大抵の事なら許してしまう自分を、半ば呆れ、半ば満足しつつ受け入れるギーベルグラントだった。

   *

 古びた屋敷の前。
 二階建てでそこそこの広さがある。
 ギーベルグラントに手を取られたマリーシアは、目を輝かせてその洋館に見入っていた。
 この家は、もう百年以上、誰も住んでいない筈だ。しかし、家屋の造りはしっかりしているから、崩れ落ちたりする心配はない。
 不可視の触手を伸ばして庭も含む屋敷の隅々まで調べ尽くしたギーベルグラントは、ここが安全そのものであることを確信していた。
 そうでなければ、マリーシアをこの場に置いたりはしない。

「さて、行きましょうか」
 マリーシアの手をしっかりと握ったまま、ギーベルグラントは屋敷の中へ向かおうとした。

 が。

「待って、ギイ!」
 当のマリーシアから、そんな声がかかる。さては怖気づいたのかと見下ろせば、意欲満々に輝いている目と行き合った。
「一緒じゃ、ダメだよ」
「はい?」
 思わず眉をひそめてしまった彼に、マリーシアは真剣な眼差しで訴える。
「だって、ギイと一緒だと、何があっても大丈夫って思っちゃうから、絶対ドキドキできないもん」
「別に、それでいいでしょう? 安心ではないですか」
「ダメぇ! ドキドキしたいから、『肝試し』するの! ギイと一緒だったら、そんなの、ただの夜のお散歩になっちゃうよ」
 ね、お願い、と、その空色の瞳で訴えかけてくるマリーシアに、ギーベルグラントの心は揺れる。

 ここまで来ておいて「やっぱり中止」としたら、マリーシアが拗ねるのは、必至だ。

 応と言って、彼女を独りで行かせるのか。
 否と言って、向こう一か月間、彼女の脹れっ面を見ることを耐えるのか。

 しばしの葛藤を経て、ひたすら注がれる眼差しに屈服し、ギーベルグラントはついに頷いた。
「……判りました。独りでお行きなさい」
 その言葉に、マリーシアは、彼が手にするカンテラよりも輝かしい、夜闇も照らさんばかりの笑顔になる。
「ありがとう、ギイ!」
「では、このカンテラを持って、しっかり足元を見るんですよ? 周りの光景を見るのに夢中になって、下を見るのがおろそかになってはいけませんよ? 何かあれば、私の名前を呼んで。怖くなったら、すぐに呼んでくださいね? くれぐれも、危険なことをしてはいけませんよ? いいですか、絶対に、危険なことはしないように」
 カンテラを、と言いながら、なかなかそれを手放さないギーベルグラントに、マリーシアが少々口を尖らせる。

「もう、ギイったら。そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。あ……でも、わたしがこれを持ってっちゃったら、ギイが真っ暗だね。……どうしよう?」
 気遣わしげに眉をひそめたマリーシアに、ギーベルグラントはようやくカンテラを手渡しながら、答える。
「私なら暗くても大丈夫ですから。ほら、お持ちなさい」
「うん。じゃあ、ギイも怖くなったら、わたしを呼んでね? すぐに戻ってくるから」
 その目は、至って真剣だ。

 この自分が、暗闇の中で何を怖がることがあろうものか。

 ギーベルグラントは笑ってしまいそうになるのを堪えて、そっとマリーシアの頬に手を添える。
「私は大丈夫ですから。ほら、あんまりぐずぐずしていると、遅くなってしまいます。行ってらっしゃい」
 両肩に手を置いて、クルリと彼女を屋敷の方へと向かせる。
 マリーシアは肩越しにギーベルグラントを見上げると、コクリと一つ頷いた。
「わかった、行ってくる! あそこの、二階の一番端っこの部屋まで行ったら、戻ってくるからね」
 そう言うと、彼女は二階の右端の部屋を指差した。
 意を決して、という風情で歩き出したマリーシアは屋敷の扉の前で立ち止まると、最後にもう一度だけ振り返って、ギーベルグラントに向けて手を振ってくる。片手をあげてそれに応えると、遠目でも彼女が笑顔になったのが見て取れた。
 そうして、マリーシアは屋敷の中へと消えていく。

「さて、と。行くか」
 ほんの少しの間だけその場に佇んでから、ギーベルグラントは足音を殺して歩き出した。

   *

 暗い屋敷の中は静まり返っていて、手にしたカンテラの灯りが作る影が、時にハッとマリーシアの目を奪う。
 豪奢なギーベルグラントの邸宅に比べると随分とこじんまりとしているが、それでも普通の住居としては比較的大きい方なのだろう。他の家、というものをマリーシアは見たことがないが、少なくとも本で読む限り、五部屋以上の居室を持つ家は珍しい方なのだと思う。

 一つ一つの部屋を覗くうち、マリーシアは、不意に胸の中に湧いたもやっとするような奇妙な感覚に眉をひそめた。
 懐かしい、とまではいかない。けれども、なんとなく、自分はこんな感じの家の中を歩いたことがあるような気がする。

 ――だけど、いつ、どこで……?

 立ち止まって考える。
 素朴だけれども、しっかりした造りの、家。同じように二階建てで、こんなふうに、いくつかの部屋がある。
 けれども、どう記憶を振り絞ってもマリーシアがよその家に入ったことなどなく、きっと、どこか絵本ででも見たのだろう、と自分を納得させた。

 マリーシアは、順々に部屋の扉を開けていく。

 置き去りの家具にはどれも白い布が被されていて、なんだかどれも寂しそうだった。
「置いてかれるのは、さびしいよね」
 マリーシアはソファの一つに触れながら、誰に言うともなく、呟く。

 そう、置いていかれるのはさびしくて、置いていくのは、つらいのだ。

 マリーシアはずっとギーベルグラントと一緒で、置いていかれたことも置いていったこともないというのに、何故かそんな考えが頭の中をよぎってしまう。
 せっかく楽しいことをしに来ているのに、なんでこんなことを考えてしまうのだろう。 

 ――わたしは、これからだってずっとギイと一緒だもん。

 小さく息をついて、マリーシアはまた歩き出す。
 広大とは言えない家の中、目指した部屋に到着するのは、それほど時間がかかることではなかった。
 他の部屋に比べて、少し広めな、その部屋。
 そこには、正面からは見えなかった中庭が一望できるバルコニーがあった。
 テラスの欄干はマリーシアの顎の下ほどの高さほどで、そこにはツタがびっしりと絡み付いている。上からは中庭を見ることが出来なくて、彼女はツタを掻き分け、下を覗き込んでみた。

「?」

 今のは、何だろう?
 マリーシアは頭を引っ込めて、首をかしげる。
 湧水でも利用しているのか、人がいないというのに、噴水は微かな水音を立てている。そして、長い間手入れをされていないだろう庭は、野生の草花が青々と茂っていた。
 そんな草陰の中にチラリと何かが瞬いたのだ。

 ――もしかして、お化け……?

 マリーシアの胸は、ドキドキと高鳴ってくる。

 ツタの葉の間からでは、よく見えない。
 マリーシアは部屋の中へ取って返すと、白い布が掛けられたままの椅子を引きずって、バルコニーへと運ぶ。そして、欄干にピタリとつけて置くと、その上によじ登った。
 欄干に手を置いて、できる限り身を乗り出して階下を覗き込む。目を凝らして見つめていると――

「あ、また!」

 フワァッと、小さな光が噴水の前を横切っていく。

 思わず、身体が前に出た。

 次の瞬間、マリーシアは欄干を乗り越え、アッと思った時には宙に投げ出されていた。

   *

 こっそりと足音を消してマリーシアの後を追うギーベルグラントには、彼女の『ドキドキワクワク』が手に取るように伝わってきていた。
 それは決して、『ドキドキビクビク』ではない。
 彼が徹底的に危険なことから遠ざけていた所為か、彼女は怖がるということがない。物怖じしないというのはいいことなのだろうが、危険をものともせずに突き進んでしまうので、最近のギーベルグラントは「少しぐらいは『痛い目』に遭うことも必要なのかもしれない」と思うことが、時たま――まさに時たま、あった。
 そう、ちょっとしたかすり傷くらいなら、経験した方がいいのかもしれない、と。

 生物は些細なことで取り返しのつかないことになってしまうから、自分自身で危険を避ける意識を持ってもらわなければならないのかもしれない、と。
 ギーベルグラントは自分自身の能力に絶大なる自信を抱いていたし、自分に不可能なことはない、と思っていた。
 だが、マリーシアと暮らしていると、どんなに強大な力を持っていようとも、万全とは成り得ないような気がしてならなくなる。

 ギーベルグラントはため息などという人間臭いものを吐き出すと、再びマリーシアに視線を戻した。
 彼女は終点に定めていた部屋に着いており、ドレスが埃まみれになるのも気にせず両手両膝を床に突くと、何やら欄干の隙間からバルコニーの下を覗き込もうとしている。だが、それはうまくいかなかったようだ。
 すっくと立ち上がると、踵を返して部屋の中に向き直った。
 マリーシアに見つかれば拗ねられるのは判りきっているので、ギーベルグラントは素早く戸口の陰に身を隠す。
 やがて聞こえてきたのは、何かを引きずる音。さほど重くはなさそうだ。

 しばらくして、それは止む。

 ――静かになった、な。

 ギーベルグラントはそろそろと部屋の中を覗き込み――目を見張った。

「!」
 視界に入ってきたのは、欄干の上に乗り上げているマリーシア。
 そして、その姿は、次の瞬間、消え失せた――彼女の名を呼ぶ暇もなく。
 ギーベルグラントは瞬時に跳び、今、まさに地面に叩き付けられようとしているマリーシアを間一髪ですくい取る。

「ギイ!」

 彼女は目を丸くして声を上げたが、どうやら、彼が現れたことの方が驚きの対象だったようだ。
 他にもっと驚かなければいけないことがあるだろう、と言いたいところなのだが、全身が溶けてしまいそうな震えが抑えきれず、フワリと着地したギーベルグラントは無言で彼女を地面に下ろした。

「ギイ……ギイ? 大丈夫?」
 マリーシアが心配そうに見上げてくるが、大丈夫ではない。これっぽっちも大丈夫ではない。
 ギーベルグラントが更に数回深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、両手を腰に当ててお説教に入ろうとした、その時。

「あ!」
 マリーシアが小さな声を漏らす。
 彼女の空色の目が追うのは、暗闇の中を舞う、仄かな光。
 それは一つが瞬いたかと思うと、二つ、三つと数を増してゆき、やがて無数に飛び交い始める。

「ギイ、何、これ、何?」
 もとより大きな目を更に見開いて、マリーシアはその光景に見入っている。
「蛍、ですね。光る虫ですよ」
「虫が光るの!?」
「生物には、光を放つものが幾つかいますよ」
「すごい……すごい! きれい!」
 ひそめた声で歓声を上げた彼女が手を伸ばして光に触れようとするが、それはスイッと逃げて行ってしまう。
「きれい……」
 あたりはもう煌めきの洪水で、ギーベルグラントがこっそりと障壁を張ってやらなければ、蛍たちは次々とマリーシアに体当たりを食らわしていたことだろう。

 蛍たちの輝きをその目に映し、マリーシアがギーベルグラントを見上げてくる。
「すごいね、ギイ。また見たいな。来年もまた来ようね?」
「そうですね。来年も、またその次も」
 ギーベルグラントにとっては、無数の蛍光よりも、彼女の笑顔の方が遥かに輝かしい。その顔を見せてくれるなら、この場の時を止めてしまうことも厭わない。
 マリーシアにつられて、彼の口元も自然と緩む。

「では、そろそろ帰りましょうか」
 手を差し伸べながらそう言いかけて、ギーベルグラントの動きがハタと止まった。大事なことを、忘れていた。

「ギイ?」
 固まった彼を、マリーシアがきょとんと見上げる。

 無邪気に不思議そうな顔をしている彼女に、ギーベルグラントはにっこりと笑いかけた。
 不穏なその笑顔に、今度はマリーシアの方がビシリと固まる。

「約束、しましたよね?」
「え?」
「独りで行かせるとき、危険なことはしないと約束しましたよね?」
 微笑みながらそう言ったギーベルグラントに、マリーシアは「しまった」と言わんばかりの表情を浮かべて後ずさる。
「あの、ね、ギイ……」
「欄干によじ登るだなんて、安全な行動とは言えませんよね? しかも、あそこは二階。いいですか? 欄干というものは、人が落ちないように、障壁の為にあるのです。乗り越える為にあるのではありません。欄干がある、すなわち、それは落ちたら危険ということなんですよ? まったく――」
 一度口火を切ると先ほどの名状しがたい思いが込み上げてきて、次から次へと言葉が溢れてくる。なおも続けようとしたギーベルグラントの袖が、ツンツンと引かれた。

「ギイ、ギイ」
「――なんですか?」
 口を止めて、見下ろす。
 厳しい彼の眼差しの先で、マリーシアは少し顎を引いて彼を見つめていた。そして、ギーベルグラントの袖を握った手にぎゅっと力を入れると、改まった口調で、言う。

「ゴメンね、ギイ。心配したよね」
 神妙なその様子に、ギーベルグラントの口の中にたまっていた言葉が、しおしおと溶けていく。ここは厳しく言っておかなければいけない。いけないのだが。

 しばらく、彼の思考は停止した。

「……ギイ?」
 固まってしまったギーベルグラントに、マリーシアがそっと声をかけてくる。

 この少女は本当にちっぽけで、彼がほんの少しの力を加えればいとも簡単に消え失せてしまうだろう。それなのに、何故、彼女の所為でこんなにも自分の心はかき乱されるのか。
「ギイ?」
 再び名を呼ばれ、ギーベルグラントは小さく息を吐き出した。
「もう、いいですよ。でも、私をあまり……驚かせないでください」
「ギイが、驚いたの?」
「それは、驚きますよ」
「そうなんだぁ」
「……何故、嬉しそうなんです?」
 半眼でそう尋ねたギーベルグラントに、マリーシアが慌てたように首を振る。金色の髪がパッと散って、まるで光が溢れたかのようだった。

「嬉しくない、嬉しくないよ、ちっとも」
 そうして、彼女はパッと笑顔になる。
「ねえ、ギイ、帰ろ!」
 満面の笑みで差し伸ばされた小さな手を、ギーベルグラントは溜息と共に握り締めた。
 どうせ、マリーシアには敵わない。最初に出会った時、何気なく抱き上げた彼女の温もりに囚われてしまった時から、それはすでに定まったことなのだ。

「帰りましょう、家へ」
 彼のその言葉に応えた彼女の笑みは、暗闇の中で輝く大輪の花のようだった。
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