天使と狼

トウリン

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たからもの②

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「俺は、結局何もできなかったんだよな」
「え?」
 見上げた萌の目に映るのは、彼の苦笑だ。
「手術に踏み切ったのはたきだし、あの子の目を覚まさせたのも瀧なんじゃないかな」
「瀧、先生?」
 萌は首をかしげる。
 瀧というのは瀧清一郎といって、昨年の初夏頃からキラに関わるようになった循環器内科の医師だ。
 大柄で無愛想で、ちょっと怖い感じだけれども、実は優しい人なのだろうとキラは思っている。産休に入る前、何度かキラと一緒のところを見かけたことがあって、何となくいつもの彼の雰囲気と違っていて、あれ、と思ったのを覚えている。
 その瀧に、今の一美は何だか引け目を感じているようだった。
 確かに瀧は循環器内科でも優秀な医師だけれど、一美だって、負けていないはずだ。
「そんなこと……」
 眉をひそめた萌の眼差しから逃れるように、一美は彼女の頭に手を添えて自分の胸に押し付けてきた。力強くゆっくりとした鼓動が鼓膜に響く。
「――俺は、無意識のうちに、心のどこかで諦めかけていたんじゃないかと思うんだ。人工呼吸器につながれて、穏やかに眠るキラを見て、もしかしたら、このまま逝ってしまった方が、あの子にも、あの子の家族にとっても、良いことなんじゃないだろうかと……そんな気持ちが全然なかったとは言えない」
 深い、ため息。萌の頬を押し当てた胸が、大きく上下する。

「もしも――もしも愛がキラのようになったら、俺は耐えられないかもしれない。苦しんでいる愛を、頑張らせてやれないかもしれない」
 普段は自信満々の一美の声に滲む苦さに、萌は黙って彼の背中に回した腕に力を込めた。そうして、手の届く範囲を、撫でる。ほんの一瞬だけ彼の力も痛いほどに強くなって、またすぐに緩んだ。
「――あの子がまた戻ってきてくれたのは、瀧のお陰だよ」
 らしくない、自嘲の響き。
 それが何だか苦しくて、萌は一美の胸に手を当てグイと腕を突っ張って身体を引きはがした。
「でも、キラちゃんが瀧先生に逢えたのは、一美さんが頑張ってきたからじゃないんですか?」
「え?」
 暗がりの中でも、一美がいぶかしげに眉を細めたのが判った。そんな彼を見上げながら、萌は言葉を重ねる。
「瀧先生がキラちゃんを助けたって言うなら、その瀧先生とキラちゃんを引き合わせたのは一美さんじゃないですか。瀧先生と逢えるまでキラちゃんを守ってきたのは、一美さんでしょう? 愛のことだって……なんだかんだ言ったって、いざっていう時にはやれちゃうと思います。絶対、愛のこと諦めたりしませんよ、一美さんは」
 そう言って笑って、萌はもう一度大きな身体に抱き付いた。本当は、一美がいつもそうしてくれるように彼をすっぽりと包み込んであげたかったけれど、それは物理的に無理だから、精一杯、腕を伸ばす。
 頭の上から小さな笑い声が聞こえてきて、顔を上げようとした萌はそれより先にふわりと抱き締められた。耳に柔らかなキスが落とされて、くすぐったい囁き声が吹き込まれる。

「お前に逢えて、本当に、良かったよ。最初はめぐみさんが君にしたことを一生許せないだろうと思っていたんだけどな、今は、心の底からあの人に感謝してる。お前を産んでくれてありがとうってな」
 彼のその言葉に、萌の胸にじんわりと温かいものが広がっていく。
 めぐみは、萌を捨てた母親だ。
 過去の行いを悔やんでいた彼女を、萌はとっくに赦していたけれど、一美はなかなか受け入れられないようだった。めぐみと会う時、一美はまるで彼女との間に氷の塊でも挟んでいるかのように硬い顔をしていて、萌はいつかそれが融けきってくれることを祈っていたのだ。
 待ち焦がれていたその兆しに嬉しくなった萌は、彼の胸に頬をすり寄せ、笑う。

「わたしもそうですよ。一美さんを産んでくださってありがとうございますって、お義母さんにひれ伏したっていいです」
「それより、甘えてやれよ。あのヒト、アレで可愛いもの好きなんだよな……三十年以上顔を合わせていて、初めて知った。『娘』ができてかなり喜んでるし、その上こんな可愛い孫までできたしな」
 言いながら一美が彼女の頭越しにベビーベッドを覗き込む気配がして、萌も彼の腕の中でクルリと身体を捻ってそちらへと向き直った。
 一度腕を緩めた一美は、萌のお腹に腕をまわして自分の胸に彼女の背中を引き寄せる。
 ベビーベッドの中では両親の視線などどこ吹く風で、すやすやと愛が安眠にふけっていた。
 二人でその寝顔を見つめながら、彼が言う。
「この子が何もなく元気で成長してくれれば、もうそれだけでいいとしみじみと思うよ」
「学校の成績が悪くても?」
「ああ」
「運動が全然できなくても?」
「ああ」
「思春期になって、パパ嫌い、とか言い出しても?」
 一瞬、返事が遅れた。けれど、彼は重々しく頷く。
「――ああ。ただ、この子が幸せに生きてくれたら、それだけでいい」
 若干のやせ我慢を感じて、萌はほんの少しいじわるをしてみたくなる。

「じゃあ、将来この子が好きな人を連れてきても、イヤな顔しないでくださいね?」
 ヘタな男には絶対に渡さないというのが、愛が生まれてからの一美の口癖である。
 肩越しににっこりと笑ってみせた萌に、一美はグッと眉間に深いしわを刻んだ。
「それは……」
 その困り顔にできるだけ耐えていたけれど、萌はついに耐えきれなくなって声をあげて笑ってしまう。そんな彼女に一美がいっそうムッと厳しい顔になった、と思ったら、唐突に下りてきた唇に笑いを止められた。
 甘く深い口づけにボウッとしていた萌は、束の間の息継ぎで、いつの間にか自分が彼の腕の中に抱き上げられていたことに気付く。
「晩ごはん……」
「後で食べる」
 短い一言で答えた一美が、キスを再開してゆっくりと歩き出した。
 そんな彼にしがみ付きながら、萌は信じられないほどの幸福感を噛み締める。そうして、もう何度繰り返したかわからない言葉を胸の中で呟いた。

 ――あなたに逢えて、本当に良かった、と。

 いつか、遥か遠い未来に避けようのない別れが訪れた時にも、きっとこの想いは変わらないだろう。彼と出逢えた喜びは、どんな苦しみも悲しみも凌駕する。この幸せは、決して色褪せない。

(あなたも、あなたがもたらしてくれる全てのものも、全部、わたしにはかけがえのない宝物なんですよ)
 萌は心の中で一美に向けてそう囁いて、後はもう何も考えず、甘い喜びの中に身を投げ出した。
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感想 2

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みんなの感想(2件)

ぴろりん
2019.03.07 ぴろりん

君がいる奇跡を読んでこちらへ来ました。
どちらも引き込まれて毎日楽しみに読ませて頂きました(^∇^)
素敵な作品ありがとうございますm(__)m

2019.03.10 トウリン

感想ありがとうございます。
「君がいる奇跡」からとのこと、一作ならずお気に召していただけたこと、とても嬉しく思います。
少しでも楽しんでいただけたなら、何よりです。
重ねて、感想ありがとうございました。
ご縁がありましたら、また。

解除
チャル
2018.07.16 チャル

初めてコメントしますm(_ _)m
なんだか、複雑になって来ました
ね(^_^;)リコって人は余計なことを
しすぎだと思います。(^^;
やっぱり!!!もう少し、一美先生が
萌ちゃんことを分かってあげない
とですね!!!じゃないと貢って人に
取られるというか、ちょっと!!!
怖いです(^^;)))余計にややこしく
なるので一美先生~早く、行動を
起こして~!!!宜しくお願いしますm(_ _)m

2018.07.17 トウリン

チャルさま、感想ありがとうございます。

リコは一美の悪行を見てきただけに、ちょっとばかし複雑な心境なのでしょう。
一美にはこれからガンガン頑張ってもらいます。
まだ先は長いですが。
でも、もしかすると、貢の方がまったり幸せな人生が歩めるのかも……とか。

では、重ねて感想ありがとうございました。
最後までお付き合いいただければ幸いです。

解除

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