天使と狼

トウリン

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たからもの①

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 パタン、とドアの閉まる音と、それに続くカチリという鍵のかかる音。
 それは小さなものだったけれど、ダイニングのテーブルでうたた寝をしていたもえの耳に確かに届いた。
(今日は遅かったな)
 壁にかかっている時計にチラリと寝ぼけ眼を走らせて、彼女は首をかしげる。短針は九を少し超していた。
 小児科医の一美かずよしの帰宅は、普段から不規則だ。それでも、こんなに遅くなることは滅多にない。確かに彼は仕事に心血を注いでいるけれど、同時に、萌と産まれて三ヶ月になる娘、まなをこの上なく大事にしてくれていて、結婚してからというもの、彼の帰宅が夜の八時をまわることは滅多になかった。
 伸びをしながら立ち上がり、萌は一美が姿を現すはずの戸口の方へと向き直る。ドアは閉めていないから、廊下が少し見えていた。

 が。

(……あれ?)
 玄関からここまでほんの数歩のはずなのだけれど。
「一美さん?」
 名前を呼びながら廊下を覗き込んでも、いない。
 気のせいだったのかしらと眉をひそめてダイニングを出て玄関へ向かった萌は、途中にある子ども部屋を通り過ぎかけて、数歩戻った。
 フットライトだけを灯した薄暗い部屋の中に、長身の背中が佇んでいる。
「一美さん?」
 そっと、呼びかける。
 彼女の声に、一美が静かに振り返った。彼の腕の中にはタオルケットの塊が抱え込まれている。その中に包まれているのは、もちろん愛だ。
 萌は、本格的に眉根を寄せる。
 そんな行動もまた、いつもの一美らしくなかった。
 一美が愛の世話をしないというわけではない。
 むしろその逆で、まさに目の中に入れても痛くないほど娘を溺愛している一美は、彼女がほんの少しでもぐずったらすぐに抱き上げてあやしてくれる。おむつだって換えてくれるし、母乳はさすがに無理だけれど、たまに哺乳瓶でミルクを飲ませる時には嬉々としてやってくれる。その時の彼があまりに嬉しそうだから、時々、ちゃんと母乳は出ているけれど、敢えて哺乳瓶で飲ませてもらう時もある。最近はあやすと笑うようになってきたから、朝などは仕事に行くのに後ろ髪を引かれまくっているのがありありと見て取れて、萌は笑いを噛み殺すのに息が止まりそうになる。
 けれど、そんなふうに何かにつけて愛に触れずにはいられない一美も、寝ている彼女には手を出さない。眠っているところを彼の都合で構うような事は決してしないのだ。どんなに抱きたいなと思っても愛が寝ている限りは絶対に手を出さず、まるでお預けを食らったシェパード犬のように見つめるだけで我慢している姿がまた、萌の笑いを誘う。
 そんな彼が、寝ていたはずの愛を抱いている――ダイニングに置いているベビーモニターはうんともすんとも言っていなかったから、ぐっすりと眠っていたはずだった。

 足音を忍ばせて彼の隣に行って、萌は優しく揺すられている娘を覗き込んだ。やっぱり愛は満足そうに目を閉じていて、起きて泣いていた形跡は全然ない。
 おかしいな、と思いつつ、一美が何も言わないでいるから、萌も黙ったまま、彼と二人でふっくらとした寝顔を見つめた。
 一美がそうであるように、萌も、愛を見ているとついつい口元が緩んでしまう。こんなに愛らしいものを自分と一美の二人でこの世界に送り出したことが、いまだに不思議でならなかった。
 静かな室内で聞こえるのは、微かな衣擦れの音だけ。
 短くはない時間が過ぎた後、名残惜しげに愛をベビーベッドに戻した一美は、そうしてからもまだ、柵に手を置いてそのまま見つめ続けていた。
 萌は、目を上げて視線を彼の整った横顔へと移す。出逢った時よりもほんの少しだけ目尻の皺が増えているけれど、出逢った時よりも柔らかになったその顔に。

(やっぱり、おかしいな)
 愛を見る時にはいつも一美は微笑んでいるのに、今の彼は少し硬い表情をしている。
「何か、あったんですか?」
 彼の隣に寄り添って、彼が見つめる娘の寝顔を同じように見つめて、萌は囁いた。
 しばらくは、沈黙。
 と、一美の腕が上がって、萌は彼の胸へと引き寄せられた。温かな吐息が、頭の天辺に感じられる。
「……俺は、幸運だよな」
「?」
 一美の呟きに萌が首を反らせて見上げると、彼も真っ直ぐに見返してきた。そして不意に頭を下げて、そっと触れるだけのキスを落としてくる。それからまた、抱き締められた。
「君と逢えて、こんな最高に可愛い子を授けられて」
「なんですか、急に」
 ストレートすぎる愛情表現は結婚してからというもの毎日浴びせかけられているけれど、いまだに慣れない。
 ちょっと身構えてしまった萌に、一美が小さな笑みを漏らした。
 そして、低い声で続ける。

「……俺は、病気の子と毎日接しているだろう? 俺は、あの子たちのことを、運が悪いのだと思っていたんだ」
「運?」
 話の流れが見えなくて、萌は戸惑いながらその一言を繰り返した。一美は多分無意識なのだろう手付きで彼女の背中を撫でながら、言う。
「ああ。五体満足で産まれて、何事もなく成長して――子どもというのはそれが当たり前であって、そうでない子は運が悪いのだと、そう思っていたんだ」
「それは、そうじゃないんですか? 普通は、みんな元気に大きくなっていくでしょう?」
「いいや、違う。それは運が良かったんだよ。こうやって愛が『普通』に産まれて、すくすく何事もなく育っていく――これは、幸運なことなんだ」
 一美らしくないな、と萌は思った。
 彼はいつも自信満々で、どちらかというと楽観的で、前向きだ。
 何でこんなことを言うのだろうと考えて、ハタと思い当たる。

「キラちゃんに、何か……?」
 萌が小さな声でそっと尋ねると、彼女の背中に回されている一美の腕に力がこもった。それが無言の答えで、萌はやっぱり、と思う。
 雨宮キラという、一美が担当している子がいる。重い病気なのに明るく屈託のない少女で、一緒にいるとつい笑顔になってしまう、そんな子だ。
 彼女はもう十年近く一美が主治医をしている心臓病の子で、昨年の十二月に容体が悪化してからずっと昏睡状態に陥っていた。
 彼が小児科医として霞谷病院に勤務するようになった時から診ていて、関わってきた時間が長いだけに思い入れも強い。仕事のことを一切家には持ち込まない一美に暗い顔をさせるとすれば、あの少女のことしか思い浮かばなかった。
 もやもやと、嫌な考えが、萌の頭に湧き上る。
「もしかして――」
(キラちゃんは、あのまま目覚めずに……?)
 身体を離して一美を見上げた萌に、彼が即座に首を振った。
「いや、違う」
「そうじゃない。彼女は、目を覚ましたんだ」
「え、ホントに!?」
 思わず声をあげてしまった萌は、パッと口を押さえる。慌てて愛を振り返ったけれど、娘はすやすやと寝息を立てたままだった。
 ホッと胸を撫で下ろした萌を、再び一美が自分の胸に引き寄せる。

「あの子は目を覚ましたよ。二ヶ月近くも意識がなかったとは思えないほど、ケロリとしている」
「そう、ですか……良かった」
 嬉しさで、萌の目にはジワリと涙が滲んだ。
 風の噂で雨宮キラが急変したと聞いた時、彼女は「もしかして」と思ったのだ。キラは幼い頃からずっと、「未来がない」と言われ続けていたと聞いていたから。
 ついにその時が来てしまったのだろうかと思って、萌はキラが快復することを毎日祈っていた。まだ終わりにしないで、もう少し頑張って、と。
 人が死ぬのは、悲しいことだ。
 それは至極当然のことなのだけれど、こうやって幸せを掴んだ萌は、それをより強く感じるようになっていた。

 一美と出逢う前、萌の周りには優しい人たちがたくさんいてくれたけれども、それでも、ふとこみ上げてくる寂しさやどうしようもない空虚感に、押し潰されそうになることがあった。もう、全部投げてしまおうかと思ったことも、何度もあった。常に頭の中で囁かれ続ける「自分は望まれない存在なのだ」という声を振り切ろうとして、囚われて、クタクタになりそうだった。
 けれど、その度に顔を上げて、また一歩を踏み出して。
 そうして、一美と巡り逢えて――想いを交わすことができて。
 彼と出逢えて、頑張ってきたことが報われたと、思った。この為に生まれてきたのではないだろうかとすら、思えた。心の底から、生まれてきて良かった、頑張ってきて良かったと思えたのだ。

 萌は両手を伸ばして一美にしがみ付く。
 温かくて大きな彼の身体は、いつでも萌の全てを包み込んでくれる。
 一美に抱き締められると、萌は自分の全てを肯定されている気持ちになれるのだ。
 だから、自分がこんな幸せを手に入れられたから、キラにも頑張って欲しいと、萌は彼女の快復を祈りつつ、思っていた。
 生きることがキラにとって楽なものではないことはよく解かっていたけれど、今がどんなに辛くても、この先に待っているかけがえのない幸せに出会えるまでは、頑張って欲しいと願っていた。
 たとえまた病と闘う苦しい日々が始まるのだとしても、「頑張ってきて良かった」と思える何かを手に入れるまでは、頑張り続けて欲しいのだ。
(きっと、何かがあるはずだから)
 そう胸の中で呟きながら一美の硬い胸に頬をすり寄せた萌の耳に、彼の小さなため息が届く。
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