天使と狼

トウリン

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後日譚後編

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 当然のことながら萌は随分と疲れていたようで、分娩室から病室に戻って、半日以上は眠り続けていた。後陣痛も治まり、まともに会話ができるようにはなったのは、丸一日以上が過ぎた頃だ。
 霞谷病院は母児同室なので、出産後一日経つと、赤ん坊の世話は殆ど母親がすることになる。産まれて三日も経つときっちり三時間毎のペースでミルクを欲しがるようになる為、母親は赤ん坊と同じように夜も昼もない生活になるのが常だった。萌も分娩の疲れが取れたと思ったら、今度は子どもの世話でショートスリーパーになっている。
 今も、仕事の合間に病室を訪れた一美の前で、彼女はぐっすりと眠りこんでいた。頬にかかっている髪の毛をそっとよけてやったが、さっぱり気付いた気配はない。これほど深い眠りでも、赤ん坊が一声泣けばすぐに目覚めるのだから、不思議なものだ。
 物音を立てないようにして、一美は透明なアクリル製のコット(新生児用キャリーベッド)の中を覗き込む。赤ん坊は目を開けていて、もそりもそりと手足を動かしていた。
 一美の顔に気付くと、ジッと視線を合わせてくる。
 彼は両手を伸ばして慎重に我が子を抱き上げた。腕の中にすっぽりと納まる小さな温もりを、ゆるゆると揺する。ふわりと漂うのは、ミルクの香りだ。
 赤ん坊は口をすぼめたり、欠伸をしたり、瞬きをしたり、ひとしきりさまざまな表情を見せていたが、やがて目蓋を閉じた。

 産着とタオル越しにも伝わってくる、高い体温。
 これが、自分と萌の子どもだ。
 二人の間に、生まれた命。何ものにも代え難い、唯一無二の存在。
 そう思うだけで、胸の中が熱くなる。
 萌と、そしてこの温もりを護る為に、自分にはいったいどれほどのことができるだろう。
 一美はそんなふうに自問する。
 答えは一つだけであるような気がしたし、無限にあるような気もした。

「一美さん、来てたんですか。声をかけてくれたらいいのに」
 不意に背後で上がった声に、一美は赤ん坊を抱いたまま振り返る。
「萌。悪い、起こしたか」
「いいえ、そろそろお腹がすく時間だから。泣いてましたか?」
「いや……今も寝てしまったぞ」
「あれ、そうですか?」
 一美の返事に萌は意外そうに声を上げた。そして、にっこりと笑う。
「あ、そうか。やっぱり、一美さん、赤ちゃんを抱っこし慣れてるんですよ。きっと、気持ちいいんです」
「そうか?」
 首をかしげながら、彼は子どもを萌に差し出す。と、彼女に渡ると同時に、ポカリとその目が開いた。もそもそと顔を動かし、舌をペロペロと見せ始める。
「なんだ、やっぱり腹が減ってるんじゃないか」
「ふふ、赤ちゃんって、敏感ですよね。おっぱいの匂いがわかるのかな」
 言いながら、胸をはだけた萌は赤ん坊の口に乳を含ませてやる。一美の腕の中では今にも眠りそうだったのに、今は鼻息も荒く、喉を鳴らして乳を飲んでいた。萌は柔らかく微笑みながらその様を見下ろしている。
 ベッドサイドに腰を下ろして二人の様子を見つめる一美は、それを、最高に、幸せな光景だと思う。多分、彼にとってこれ以上のものはない。

 その眼差しは、殆ど『凝視』に近いものだったのだろう。
「……一美さん、あんまり見られてると、ちょっと恥ずかしいです」
 不意に、萌がそんなことを口にした。気付けば、その頬が赤らんでいる。今まで散々触らせてきたんだから、見るくらい別にいいじゃないかとは、一美にも口が裂けても言えない。
「ああ、悪い」
 一応謝って、一美は視線を外した。
 五分ほどしてごそごそと衣擦れの音がする。
「もう、いいですよ」
 向き直ると、萌の腕の中の赤ん坊は今度こそ眠りに落ちていた。
 飲んで、寝る。
 今はそれだけしかない。能天気なものだ。
「明日、退院だろ? こいつの黄疸も大丈夫そうだし、予定通りに帰れそうだが」
「はい。わたしも特に問題ありませんから」
 入院していれば家事はしなくて済むからその方が楽だろうに、萌は帰れることが嬉しそうだ。その理由は、たぶん一美が想像している通りだろう。
 ふと、少し意地の悪い気持ちになって、一美は彼女に言った。
「ここにいる方が楽だろう? 何なら、少し入院伸ばしてもらってもいいぞ?」
 実際には、そんなことはできはしない。霞谷病院の産科は、いつも満員だ。
 彼の台詞に、萌はまさに打てば響くタイミングで首を振った。

「イヤです」
 一美は胸中でほくそ笑む。
「けどな、ここなら赤ん坊の世話だけに専念していればいいだろう?」
 いかにも、彼女のことを考えているように、続けた。
「だって、ここには――」
 萌は言いかけて、ハッと口を閉じた。
 思わず緩みそうになった口元を引き締めつつ、一美は追いかけた。
「ここは、何だ? もしかして、対応が悪いのか? なら、産科に言っておかないと」
「そんなことないです! みなさん、とても良くしてくださいます」
 大きな声を出しかけて、すやすやと眠る赤ん坊に視線を落とし、萌は声をひそめる。
 じゃあ、何故? と目で問う一美に、萌はジトリと上目遣いになった。そうして、もごもごと続ける。
「だって、ここには、一美さんがいないから……」
 ここで一美が笑ったら、きっと萌は怒る。だが、嬉しくて笑えてしまうのは、仕方がないことではないか。
「何、にやにやしてるんですか! もう! そんな人には、この子を抱っこさせてあげませんから!」
 頬を真っ赤にした彼女を見るのは、久しぶりだった。これ以上やったら、本当に子どもに触らせてくれなくなるかもしれない。
 一美は萌の頭に手を伸ばして自分の胸に引き寄せると、その耳元に囁いた。
「俺も、君に――君とこの子に、早く帰ってきて欲しいよ。あの部屋での独り寝は、もううんざりだ」
 そうして、笑みを消して続ける。
「明日、帰る時に役所に寄ろう。この子の出生届を出さないと」
 名前はとうに決まっているが、まだ出生届は提出していない。届けは彼一人ではなく、萌と二人で出しにいきたかったのだ。いや、これだけではない。この先にある様々なことを、全て萌と為していきたいと願っている――二人が共にある限り、ずっと。
 萌の頭に添えた手を頬にずらし、一美はその目を覗き込んだ。
 火照った頬はそのままに、彼女は頷く。
「はい」
 目尻に微かににじんだ涙を親指で拭ってやりながら、一美はそっと触れるだけのキスをした。
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