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SS
後日譚前編
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「ああ、君は、またそんなことをして!」
風呂から出てきた一美は、自分の背丈よりも高い戸棚に土鍋を仕舞おうとしている萌に目を剥いた。予定日まであと四週間の腹でつま先立ちをされたら、彼の心臓が止まりそうになる。
一美は三歩で萌の傍に行き、彼女の背中に腕を回して支えると、その小さな手には余る土鍋を奪い取った。
「大丈夫ですよ、このくらい」
「大丈夫じゃないだろう。転んだらどうする」
「平気ですってば」
口を尖らせる萌には、全く懲りた様子がない。確かに、ここまで来たらいつ分娩になってもいいと言えばいいのだが、転んで腹を打ったりしたら大変なことになる。
無言で睨み付けるとその方が説得力があったのか、萌は何かを言いかけて止め、ポソリと呟いた。
「……ごめんなさい」
結婚して、始終傍にいればいつでも手を貸せると一美は思っていた。しかし、所詮、本人が手を借りようとしなければ駄目なわけで、この一年半、こんな状況がしばしば繰り返されている。
「あとせいぜい一ヶ月なんだから、おとなしくしておいてくれよ。病院に行っても気が気じゃない」
「ごめんなさい」
萌をソファに座らせながらため息混じりに一美が言うと、今度は本当に申し訳なさそうに謝った。そうやって俯かれると、一美は、何だか自分の方が悪いことをしたような気がしてくる。
「謝らなくてもいい。ただ、俺をあんまり心配させないでくれ。禿げたらどうする」
冗談めかした一美の台詞に、萌はチラリと彼の頭に目を走らせてにっこりと笑った。
「大丈夫、一美さんなら禿げてもかっこいいですから」
萌の目は、心底からそう思っている者の目だ。
一美と萌との年の差は十二歳。できるなら、彼が死ぬ瞬間までそう思っていて欲しいものだと、一美は願わずにはいられない。
「まあ、禿げるかどうかは置いておいて、ホットミルクでも入れるよ。飲むだろ?」
「あ、わたしがやります」
そう言って立ち上がろうとした萌の頭を押さえて、止める。
「いいから、座ってろ。そのぐらいは、もう俺でもできる」
しょっちゅうミルクを噴きこぼしていたのは、もう昔の話だ。しばしばキッチンに立つようになった今は、噴く寸前の絶妙なタイミングで鍋を上げることができるようになっている。
弱火にかけて時々ゆっくりと掻き混ぜながら温め、その合間に生姜を一欠けらほどすりおろして蜂蜜と一緒に入れる。十月も半ばを過ぎると随分とひんやりしてきており、身体の中から温まるようなものにしたかった。
沸騰する直前で火から下ろしてカップに注ぐ。
うまい感じで仕上げられたそれを盆に載せて一美はリビングへと戻ったが、彼の足音が聞こえている筈だというのに、萌は振り返ろうとしなかった。
もしかして。
そう思い、音をたてないように盆をテーブルに置き、彼女を覗き込む。
案の定、萌の目蓋は下ろされていて、身体を斜めに傾けてソファにクタリともたれかかっていた。
どうも、胎動が盛んで夜によく眠れていないらしい。仕事中はちゃきちゃきと相変わらずよく動いていたが、産休に入って家にいるようになると、しばしばこんなふうに居眠りする姿を見かけるようになった。
一美は萌の隣に座って彼女の肩に腕を回し、傾いていた身体を自分にもたれかけさせる。腕の中にある、温かな重み。それは、この世で最も重いものだ。そう思うと両の腕に力が入りそうになってしまうが、そんなことをしたら彼女を起こしてしまう。代わりに頭のてっぺんに口づけて、ジッとそのままとどまった。
そうしている一美の胸の中に込み上げてくるのは、いいようのない充足感だ。たった一人の――いや、今は『二人』か――人間を手に入れただけでこれ程までに満たされようとは、想像もしていなかった。堪らなく幸福で、そして、同時に怖くもある。
――果たして、自分は、萌たちを護れるだけの力を持っているのだろうか、と。
全力は、尽くす。
だが、どれほど力を出しても、充分とは言えないような気がする。百二十パーセントの力で臨んでも、それでも足りないような気がしてならない。
そして、また、仕事に関しても、「怖い」と思うことが増えた。
以前も、決して患児やその親を軽んじていたわけではない。全力をもって、治療にあたってきた。だが、こうやって彼自身が己よりも大事に思うものを手に入れてみると、自分がいかに『重い』ものを預けられているのかをつくづくと実感する。
萌がつらい思いをするくらいならば、自分がそれを負った方がいい。
一美はそう思う。
そして、そんなふうに想われている相手が、彼には『患児』として委ねられているのだ。
萌も、まだ彼女の中で眠る子どもも、日々彼のもとを訪れる子どもたちも、皆、護りたいと、心の底から思う。
「俺に、護らせてくれよ?」
願うように、そう囁いた。
と、不意に。
ビクリと身体を震わせて、萌が目を覚ます。
「どうした?」
一美が問うと、彼女は驚いたように大きく瞬きをして、腹に手をやった。
「蹴られました」
中の子どもを宥めているつもりか、腹をさすりながら萌はそう答える。
「本当に女の子なんだろうな? 実は付いているんじゃないのか?」
「でも、産科の先生はどうやっても見えないって、言っていましたよ?」
さすがにこの週数になれば、超音波検査で『モノ』が付いているのかいないのか、ほぼ確実に判定できるようになる。何回か確認して、その都度女の子だとは言われているのだが、腹の中にいるうちからこの暴れっぷりでは、かなりのお転婆のようだ。
萌が手を当てている辺りに触れてみると、こつんこつんと中から小突くような振動が感じられる。
確かに、彼女の中にはもう一つの命が宿っている。そうして、この世界に出てくることを、今か今かと待っているのだ。
――愛おしい。
毎日毎日そう思うのに、その想いはいつも強くなる一方だ。
一美は萌の身体に回した腕に力を込める。そうして、そっと、何度も、彼女に口づけた。
*
一美の胸ポケットに入れた院内PHSに外線がかかってきたのは、萌の予定日の三日前のこと――その日の彼は当直で、同じく整形外科の当直に当たっている朗と遅い夕食を摂っている時だった。
「おくさまからです」
交換台の女性にそう言われた時、一瞬、そんな名前の医院があっただろうかと首をかしげてしまった。てっきり、近隣の開業医からの患者紹介の問い合わせだと思ったのだ。彼らの終業時間になって、「夜になるから」と患者を送ってくることは、しばしばあった。
「どこだって?」
「奥様ですよ」
二度言われ、ようやくそれが萌のことだと気付く。
「替わってくれ」
一美は胸騒ぎを覚えながら、受話器から萌の声が出てくるのを待った。
「一美さん?」
聞こえてきたのはやや疲れた感じはあるものの、普段とあまり変わらない声で、一美はひとまず胸を撫で下ろす。
「どうした?」
「陣痛始まりました」
「すぐ帰る」
殆ど反射的に、一美はそう答えていた。萌は一瞬沈黙して、すぐにどこか呆れたような声で返してくる。
「どうせそちらに行くんだから、そこで待っていて下さい」
「けどな、独りでは――」
「大丈夫です。今は落ち着いてますから。次が始まるまでに、まだ時間があります」
「じゃあ、救急車を――」
「先生」
萌のピシャリとした声で、一美は思わず口を閉じる。その呼び方をされるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
「普段、親御さん方に簡単に救急車を使うなと注意してらっしゃるのは、先生でしょう? 陣痛の間隔は、ちゃんと計ってます。まだ大丈夫ですから、落ち着いてください」
「――」
彼女の台詞に、一美はぐうの音も出ない。黙り込んだ彼に、萌は子供を宥める時のような声で、続けた。
「もうタクシー呼んでありますから、二十分くらいで着きます。産婦人科の受付だけしておいてください。一美さんが行ったり来たりするより、早いでしょう?」
「――わかった。玄関で待っているから、気を付けて来いよ? 運転手には、安全運転を心がけるように言って――」
「本当に、大丈夫です。わたし、『お母さん』になるんですからね? じゃあ、そちらで」
それを最後に、プツリと切れた。
無情な電子音が響くPHSを見つめる一美に、向かいの席に座った朗から声がかかる。
「あのさぁ、何となく状況解かっちゃったけど、笑っていい?」
すでに口元をピク付かせながら許可を求められても、腹立たしいばかりだった。
風呂から出てきた一美は、自分の背丈よりも高い戸棚に土鍋を仕舞おうとしている萌に目を剥いた。予定日まであと四週間の腹でつま先立ちをされたら、彼の心臓が止まりそうになる。
一美は三歩で萌の傍に行き、彼女の背中に腕を回して支えると、その小さな手には余る土鍋を奪い取った。
「大丈夫ですよ、このくらい」
「大丈夫じゃないだろう。転んだらどうする」
「平気ですってば」
口を尖らせる萌には、全く懲りた様子がない。確かに、ここまで来たらいつ分娩になってもいいと言えばいいのだが、転んで腹を打ったりしたら大変なことになる。
無言で睨み付けるとその方が説得力があったのか、萌は何かを言いかけて止め、ポソリと呟いた。
「……ごめんなさい」
結婚して、始終傍にいればいつでも手を貸せると一美は思っていた。しかし、所詮、本人が手を借りようとしなければ駄目なわけで、この一年半、こんな状況がしばしば繰り返されている。
「あとせいぜい一ヶ月なんだから、おとなしくしておいてくれよ。病院に行っても気が気じゃない」
「ごめんなさい」
萌をソファに座らせながらため息混じりに一美が言うと、今度は本当に申し訳なさそうに謝った。そうやって俯かれると、一美は、何だか自分の方が悪いことをしたような気がしてくる。
「謝らなくてもいい。ただ、俺をあんまり心配させないでくれ。禿げたらどうする」
冗談めかした一美の台詞に、萌はチラリと彼の頭に目を走らせてにっこりと笑った。
「大丈夫、一美さんなら禿げてもかっこいいですから」
萌の目は、心底からそう思っている者の目だ。
一美と萌との年の差は十二歳。できるなら、彼が死ぬ瞬間までそう思っていて欲しいものだと、一美は願わずにはいられない。
「まあ、禿げるかどうかは置いておいて、ホットミルクでも入れるよ。飲むだろ?」
「あ、わたしがやります」
そう言って立ち上がろうとした萌の頭を押さえて、止める。
「いいから、座ってろ。そのぐらいは、もう俺でもできる」
しょっちゅうミルクを噴きこぼしていたのは、もう昔の話だ。しばしばキッチンに立つようになった今は、噴く寸前の絶妙なタイミングで鍋を上げることができるようになっている。
弱火にかけて時々ゆっくりと掻き混ぜながら温め、その合間に生姜を一欠けらほどすりおろして蜂蜜と一緒に入れる。十月も半ばを過ぎると随分とひんやりしてきており、身体の中から温まるようなものにしたかった。
沸騰する直前で火から下ろしてカップに注ぐ。
うまい感じで仕上げられたそれを盆に載せて一美はリビングへと戻ったが、彼の足音が聞こえている筈だというのに、萌は振り返ろうとしなかった。
もしかして。
そう思い、音をたてないように盆をテーブルに置き、彼女を覗き込む。
案の定、萌の目蓋は下ろされていて、身体を斜めに傾けてソファにクタリともたれかかっていた。
どうも、胎動が盛んで夜によく眠れていないらしい。仕事中はちゃきちゃきと相変わらずよく動いていたが、産休に入って家にいるようになると、しばしばこんなふうに居眠りする姿を見かけるようになった。
一美は萌の隣に座って彼女の肩に腕を回し、傾いていた身体を自分にもたれかけさせる。腕の中にある、温かな重み。それは、この世で最も重いものだ。そう思うと両の腕に力が入りそうになってしまうが、そんなことをしたら彼女を起こしてしまう。代わりに頭のてっぺんに口づけて、ジッとそのままとどまった。
そうしている一美の胸の中に込み上げてくるのは、いいようのない充足感だ。たった一人の――いや、今は『二人』か――人間を手に入れただけでこれ程までに満たされようとは、想像もしていなかった。堪らなく幸福で、そして、同時に怖くもある。
――果たして、自分は、萌たちを護れるだけの力を持っているのだろうか、と。
全力は、尽くす。
だが、どれほど力を出しても、充分とは言えないような気がする。百二十パーセントの力で臨んでも、それでも足りないような気がしてならない。
そして、また、仕事に関しても、「怖い」と思うことが増えた。
以前も、決して患児やその親を軽んじていたわけではない。全力をもって、治療にあたってきた。だが、こうやって彼自身が己よりも大事に思うものを手に入れてみると、自分がいかに『重い』ものを預けられているのかをつくづくと実感する。
萌がつらい思いをするくらいならば、自分がそれを負った方がいい。
一美はそう思う。
そして、そんなふうに想われている相手が、彼には『患児』として委ねられているのだ。
萌も、まだ彼女の中で眠る子どもも、日々彼のもとを訪れる子どもたちも、皆、護りたいと、心の底から思う。
「俺に、護らせてくれよ?」
願うように、そう囁いた。
と、不意に。
ビクリと身体を震わせて、萌が目を覚ます。
「どうした?」
一美が問うと、彼女は驚いたように大きく瞬きをして、腹に手をやった。
「蹴られました」
中の子どもを宥めているつもりか、腹をさすりながら萌はそう答える。
「本当に女の子なんだろうな? 実は付いているんじゃないのか?」
「でも、産科の先生はどうやっても見えないって、言っていましたよ?」
さすがにこの週数になれば、超音波検査で『モノ』が付いているのかいないのか、ほぼ確実に判定できるようになる。何回か確認して、その都度女の子だとは言われているのだが、腹の中にいるうちからこの暴れっぷりでは、かなりのお転婆のようだ。
萌が手を当てている辺りに触れてみると、こつんこつんと中から小突くような振動が感じられる。
確かに、彼女の中にはもう一つの命が宿っている。そうして、この世界に出てくることを、今か今かと待っているのだ。
――愛おしい。
毎日毎日そう思うのに、その想いはいつも強くなる一方だ。
一美は萌の身体に回した腕に力を込める。そうして、そっと、何度も、彼女に口づけた。
*
一美の胸ポケットに入れた院内PHSに外線がかかってきたのは、萌の予定日の三日前のこと――その日の彼は当直で、同じく整形外科の当直に当たっている朗と遅い夕食を摂っている時だった。
「おくさまからです」
交換台の女性にそう言われた時、一瞬、そんな名前の医院があっただろうかと首をかしげてしまった。てっきり、近隣の開業医からの患者紹介の問い合わせだと思ったのだ。彼らの終業時間になって、「夜になるから」と患者を送ってくることは、しばしばあった。
「どこだって?」
「奥様ですよ」
二度言われ、ようやくそれが萌のことだと気付く。
「替わってくれ」
一美は胸騒ぎを覚えながら、受話器から萌の声が出てくるのを待った。
「一美さん?」
聞こえてきたのはやや疲れた感じはあるものの、普段とあまり変わらない声で、一美はひとまず胸を撫で下ろす。
「どうした?」
「陣痛始まりました」
「すぐ帰る」
殆ど反射的に、一美はそう答えていた。萌は一瞬沈黙して、すぐにどこか呆れたような声で返してくる。
「どうせそちらに行くんだから、そこで待っていて下さい」
「けどな、独りでは――」
「大丈夫です。今は落ち着いてますから。次が始まるまでに、まだ時間があります」
「じゃあ、救急車を――」
「先生」
萌のピシャリとした声で、一美は思わず口を閉じる。その呼び方をされるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
「普段、親御さん方に簡単に救急車を使うなと注意してらっしゃるのは、先生でしょう? 陣痛の間隔は、ちゃんと計ってます。まだ大丈夫ですから、落ち着いてください」
「――」
彼女の台詞に、一美はぐうの音も出ない。黙り込んだ彼に、萌は子供を宥める時のような声で、続けた。
「もうタクシー呼んでありますから、二十分くらいで着きます。産婦人科の受付だけしておいてください。一美さんが行ったり来たりするより、早いでしょう?」
「――わかった。玄関で待っているから、気を付けて来いよ? 運転手には、安全運転を心がけるように言って――」
「本当に、大丈夫です。わたし、『お母さん』になるんですからね? じゃあ、そちらで」
それを最後に、プツリと切れた。
無情な電子音が響くPHSを見つめる一美に、向かいの席に座った朗から声がかかる。
「あのさぁ、何となく状況解かっちゃったけど、笑っていい?」
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