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第三章:ほんとうの、はじまり
エピローグ
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――なんだろう。
萌は触れたものの正体を確かめようと、サワサワと探る。温かくて、すべすべしてて……その温もりは、覚えがあるような気がするけれど、何だったろう。
眠りに片足を突っ込んだまま、萌は考える。
ぐっすりと眠っていた所為なのか、身体が妙に気だるくて、なかなか頭が回らない。
どうにかこうにか重い目蓋をこじ開けて、萌はそれを見た。見て、目の前にあるものが何なのかを知った時、思わず悲鳴をあげそうになって、慌てて口を押さえる。
そうだった。自分は昨日結婚式をして、そして。
昨晩のことを思い出してしまった。
――ああ、どうしよう。彼の顔なんて、見られない。
ジワジワと、熱が上がっていくような気がする。
最初に、何て言ったらいいのだろう。普通は、何て言うのだろうか。
一美が目覚める前に、彼にかける第一声を決めなくちゃと必死で頭を働かせるのに、全然思い浮かばない。
ほとんどパニックに陥る寸前だった萌の耳に、クッというくぐもった声が届く。
そして、伝わってくる、振動。
「……先生?」
恐る恐る声をかけると、パッと彼の目が開いて、咄嗟にシーツを引っ張り上げる。
一美の目はあからさまに「今更な」と言っているけれど、その意味を深く考えたくない。彼がギュッと抱き締めてきて、萌は触れ合う素肌をより強く実感する。頭に血が昇って、クラクラして、どうにかなってしまいそうだった。
けれど、萌がおかしくなる前に、一美の腕の力がフッと緩む。そして、気遣わしげな声が届けられた。
「身体……つらくないか?」
そんな問いに、いったい、どう返したらいいというのだろう。そんなこと、訊かないで欲しい。
「萌?」
黙ったままの萌に、一美が顔を覗き込んできた。退路を断たれて、萌は率直な感想を述べる。
「すっごく、痛かったです」
そして、沈黙。
「……悪い」
ややして、彼がそう言った。その声が本当に申し訳なさそうだから、思わず萌は笑ってしまった。強張っていた身体から力が抜けて、自分から、少し、身を寄せる。
「でも、幸せです……すっごく」
「……そうか」
ホッとしたように、一美がそうつぶやいた。そうして、抱き締めてくれる。もう緊張することなく、萌はその温もりに身を委ねて、穏やかな彼の鼓動に耳を寄せた。
と、不意に気付いたように、彼が再び口を開く。
「そう言えば、君はいつまで俺を『先生』と呼ぶつもりなんだ?」
「え?」
「そろそろ名前で呼んでくれ」
それは、確かにその通りで。萌は少し逡巡した後、その名を口にする。
「――し、さん」
「聞こえないな」
さっきの、仕返しだろうか。どことなく意地悪な響きが含まれているのは、きっと、気の所為じゃない筈。
「一美、さん!」
お腹に力を入れて、声を出す。そうすると、クスクスという忍び笑いが聞こえてきて、萌はムッと唇を引き結んだ。
「そう呼ぶの、家の中だけですからね!」
「病院の外、じゃなくて?」
「そう!」
萌は殆ど意地で、力いっぱいそう頷いた。
その返事に、頭の上で笑い声が響く。そして、頭の天辺に、柔らかくて温かなものがそっと触れた。
「それでもいいさ。俺の前でだけ、他のヤツとは違う顔を見せてくれるというなら、願ってもない」
「……先生には、敵いません」
そうつぶやいた萌に、一美は「何を言う」と返してきた。
「俺こそ、君には敵わない。きっと、一生、な」
それ以上の萌の抗弁は、彼の唇の中に消えていく。
その優しい口づけに酔いながら、萌は思う。先のことは判らない。けれども、今、確かに自分は幸せを噛み締めている。それは確かな真実なのだ、と。
そうして、後はもう何も考えられず、覆い被さってくる甘やかな波に、ただ身を任せるだけだった。
萌は触れたものの正体を確かめようと、サワサワと探る。温かくて、すべすべしてて……その温もりは、覚えがあるような気がするけれど、何だったろう。
眠りに片足を突っ込んだまま、萌は考える。
ぐっすりと眠っていた所為なのか、身体が妙に気だるくて、なかなか頭が回らない。
どうにかこうにか重い目蓋をこじ開けて、萌はそれを見た。見て、目の前にあるものが何なのかを知った時、思わず悲鳴をあげそうになって、慌てて口を押さえる。
そうだった。自分は昨日結婚式をして、そして。
昨晩のことを思い出してしまった。
――ああ、どうしよう。彼の顔なんて、見られない。
ジワジワと、熱が上がっていくような気がする。
最初に、何て言ったらいいのだろう。普通は、何て言うのだろうか。
一美が目覚める前に、彼にかける第一声を決めなくちゃと必死で頭を働かせるのに、全然思い浮かばない。
ほとんどパニックに陥る寸前だった萌の耳に、クッというくぐもった声が届く。
そして、伝わってくる、振動。
「……先生?」
恐る恐る声をかけると、パッと彼の目が開いて、咄嗟にシーツを引っ張り上げる。
一美の目はあからさまに「今更な」と言っているけれど、その意味を深く考えたくない。彼がギュッと抱き締めてきて、萌は触れ合う素肌をより強く実感する。頭に血が昇って、クラクラして、どうにかなってしまいそうだった。
けれど、萌がおかしくなる前に、一美の腕の力がフッと緩む。そして、気遣わしげな声が届けられた。
「身体……つらくないか?」
そんな問いに、いったい、どう返したらいいというのだろう。そんなこと、訊かないで欲しい。
「萌?」
黙ったままの萌に、一美が顔を覗き込んできた。退路を断たれて、萌は率直な感想を述べる。
「すっごく、痛かったです」
そして、沈黙。
「……悪い」
ややして、彼がそう言った。その声が本当に申し訳なさそうだから、思わず萌は笑ってしまった。強張っていた身体から力が抜けて、自分から、少し、身を寄せる。
「でも、幸せです……すっごく」
「……そうか」
ホッとしたように、一美がそうつぶやいた。そうして、抱き締めてくれる。もう緊張することなく、萌はその温もりに身を委ねて、穏やかな彼の鼓動に耳を寄せた。
と、不意に気付いたように、彼が再び口を開く。
「そう言えば、君はいつまで俺を『先生』と呼ぶつもりなんだ?」
「え?」
「そろそろ名前で呼んでくれ」
それは、確かにその通りで。萌は少し逡巡した後、その名を口にする。
「――し、さん」
「聞こえないな」
さっきの、仕返しだろうか。どことなく意地悪な響きが含まれているのは、きっと、気の所為じゃない筈。
「一美、さん!」
お腹に力を入れて、声を出す。そうすると、クスクスという忍び笑いが聞こえてきて、萌はムッと唇を引き結んだ。
「そう呼ぶの、家の中だけですからね!」
「病院の外、じゃなくて?」
「そう!」
萌は殆ど意地で、力いっぱいそう頷いた。
その返事に、頭の上で笑い声が響く。そして、頭の天辺に、柔らかくて温かなものがそっと触れた。
「それでもいいさ。俺の前でだけ、他のヤツとは違う顔を見せてくれるというなら、願ってもない」
「……先生には、敵いません」
そうつぶやいた萌に、一美は「何を言う」と返してきた。
「俺こそ、君には敵わない。きっと、一生、な」
それ以上の萌の抗弁は、彼の唇の中に消えていく。
その優しい口づけに酔いながら、萌は思う。先のことは判らない。けれども、今、確かに自分は幸せを噛み締めている。それは確かな真実なのだ、と。
そうして、後はもう何も考えられず、覆い被さってくる甘やかな波に、ただ身を任せるだけだった。
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