天使と狼

トウリン

文字の大きさ
上 下
85 / 92
第三章:ほんとうの、はじまり

12-1

しおりを挟む
 五月の空は、微かに霞がかって柔らかに広がっている。
 式は身内だけの、こじんまりとしたものだった。
 確かに一美かずよし一香いちか美彦よしひこの息子だが、岩崎循環器病院の跡取りではない。医学会の重鎮達を招く必要は、まったくなかった。霞谷かすみだに病院小児科病棟の面々、萌《もえ》の『家族』たち――めぐみもいる――、一美の両親と友人達、そのくらいだ。

 萌が一美のプロポーズを受け入れたのは、秋。
 それから一美の両親の予定を調整し、半年以上を待って、ようやくこの日を迎えられた。

 萌の姿を探せば、満面の笑みで『クスノキの家』の人たちに囲まれている。
 現在のスタッフや入所している子ども達だけではなく、卒業していった者たちも、大半が招待に応じていた。オーガンジーを幾重にも重ねたミニドレスは華やかで可愛らしいが、彼女のその笑顔には敵わない。

 離れた所からその様子を見つめ、一美は、あの笑顔を自分が一生守っていくのだと強く心に刻み込む。わずかな影も差させはしない、と。

 と、そんな彼の肩に、ドサリと重みが加わった。

「かぁわいいねぇ、萌ちゃん。いいよねぇ、自分の奥さんに見惚れる旦那って」
 耳のすぐ傍でそんな台詞が吐き出され、一美は邪険にその重みを――ろうの腕を振り払った。その隣には、出会うなり彼と意気投合したらしい優人ゆうとがいる。
 性格的には共通するところのない二人だったが、一美を餌にして軽口を叩き合うのは息がぴったり合うらしい。

「お前の好みが、実はああいうタイプだったとはな。これまで長続きしなかったのも当たり前だ。趣向とまったく合っていなかったんだからな」
 優人が同様に萌を見遣りながら、そう頷いた。子どもの頃からの女性遍歴を知られている相手に言われ、一美は眉間に皺を寄せる。
「趣向がどうとかいうわけじゃない」
 結婚式という場に合わないむっつりとした顔でそう答えると、途端、朗が大げさな仕草で振り返った。

「うわぁ、ちょっと、聞きました、優人さん?」
「ああ、確かに」
「新婚早々、惚気られちゃったよ」
「こいつが、なあ……中学生の時からの女遍歴を、彼女に聞かせてやりたいよ」
 ニヤニヤ笑う悪友二人が、実に腹立たしい。

「別に、惚気でも何でもないだろう」
 ムッツリと言った一美に、朗はわざとらしく片手で目を覆い、天を仰いだ。

「自覚なしだよ……」
「鈍いな」

 肩をすくめてつぶやく優人を、一美は睨み付ける。そんな彼の肩に肘を載せ、朗は囁く。
「好みとか何とか以前に、『彼女だから』好きなんだろう? それが惚気じゃなくて、何なわけ?」
 それのどこが悪い、と一美は平然と朗を見返した。まさにその通りなのだ。仮に、萌の外見が普段彼の『好んで』いた女性たちと同じだったとしても、一美が選ぶのは『萌』しかいない。

 一美の反応が悪かった為か、それともその開き直りぶりに呆れたのか、朗も優人もそれ以上、そのことについては突っ込んでこなかった。
 代わりに、また次のネタを振ってくる。更に、たちの悪いものを。

 朗は一美の真正面に立ち、ポンとその両肩に手を載せた。
「ところで、一美君。オレと優人さんは、是非ともお前に訊きたいことがある」
「何だ?」
 珍しく、朗が真面目な顔付きをしてみせる。釣られて、一美も真面目に応じてしまった。
 ――朗の辞書に『真面目』という文字が欠落していることも忘れて。

「あのな、お前と萌ちゃんって……もう、ヤッた? ――イテッ!」
 朗の台詞が終わるや否や、ガツンと鈍く響いた音と、彼の呻き声。自分でも思った以上に力がこもってしまい、一美は朗の頭を殴り付けた拳を何度か開閉した。しばらくペンが持ちにくそうだ。

「この反応は、君の勝ちか、有田さん」
「そうだねぇ」
 殴られた頭をさすりながら、朗がニンマリと笑う。その忌々しい顔を、一美はギロリと射殺しそうな目で睨み付けた。
 そんな一美の眼差しなどどこ吹く風、といった風情で朗は飄々と言う。

「いやぁ、二十年の付き合いと、現在進行形の付き合いと、どっちがより深くお前を理解しているかって、舘さんと賭けをしたんだよ。ちなみに、オレは『手を出していない』、彼は『もう手を出しまくり』。な? オレの勝ちだろ? まあ、萌ちゃんのことを知ってる分だけ、オレに分があったんだけどね」
「だが、付き合ってから約二年だろう? ……まさか、もう枯れたのか?」
 優人の口調が本気で心配そうなのが、逆に腹立たしい。放っておけ、と言ってやりたいが、むしろ何も返さない方がいいのだろう。

 無視を決め込んだ一美の代わりに、ピシャリとはたき付けるような声が響く。
「まったく! 神聖な席で、何下品なこと言ってるんですか!」
「やあ、リコさん! そのドレス、すごく似合ってるよ」
 下品な台詞を吐いた本人は、眉を吊り上げたリコの叱責をニッコリ笑ってサラリとかわす。
「何で、あなたって人はそうなんですか。こういう時くらい、ちゃんと真面目にやってくださいよ」
「イヤだなぁ、リコさん。オレはいたって真面目だって。真面目に、ホントのところを聞きたかったんだよね。ほら、今後の二人の予測の為に」
「そういうのを、余計なお世話って言うんですよ!」
 噛み付くリコにも、朗はヘラヘラとするだけだった。彼女は深々と溜息をつく。

 そんな、神聖さとはかけ離れた淀んだ会話に、一服の清涼剤のような声が差し込む。

「皆さん、お揃いなんですね」
 ドレスをふわふわと揺らしながら駆け寄ってきた萌が、『オトナ』たちを見回してニッコリと笑顔を浮かべた。朗が手を伸ばすよりも先に、一美は彼女の肩を捉える。人前で抱き寄せられたことに頬を赤らめながらも、萌は先のものとは違う笑みで彼を見上げた。

「幸せそうだねぇ、萌」
 しみじみと、リコが言う。萌は彼女に向けて、満面の笑みと共に大きく頷いた。
「はい、とっても」
「これまた、判り易い惚気で……」
 毒気を抜かれた顔で、朗がつぶやく。萌が相手ではからかうわけにもいかないようだった。

「あぁあ、私も結婚したくなってきたぁ」
 萌の純白のドレスに憧れの溢れる眼差しを向けたリコが、ため息と共にそう漏らす。すかさず満面の笑みで己を指差したのは、朗だ。
「あ、オレがもらってあげようか? この間、彼氏と別れたんだろ?」
「絶っ対、お断り!」
 まさに叩きつける勢いで間髪入れず即答したリコに、朗は「残念!」と笑っただけだった。
 いかにも二人らしいやり取りに、萌もクスクスと笑みをこぼす。揺れるその肩を包み込む手に、一美は無意識のうちに力を込めた。

 萌の肩は、悲しみや、寂しさや、そんなもので震えた時もあっただろう。これまでは、独りでそれを乗り越えさせてきた。
 だが、これからは一美が傍にいる――いつでも、どんな時でも、傍にいられるのだ。
 もっとも、彼女のことだから、何かあっても簡単には頼ってくれず、ただ傍にいるだけになるかもしれないが、それでも、独りきりには決してさせない。眠れぬ夜には一晩中だって彼女のことを抱き締めていてやる。

「先生?」
 顔を引き締めた一美に、萌がどうしたのかと窺う眼差しで見上げてくる。
「いいや、何も」
 短くそう答え、一美は少し屈んで彼女の耳元に唇を寄せる。他の連中には聞かれないように。

「……君と出会えて、良かった。君がこの世に産まれてきてくれて、本当に良かったと、心の底から思う」
 萌は、数度瞬き、そして頬を薔薇色に染め上げながらフワリと笑う。

「わたしもです。わたしも、先生に会えて、良かった……産まれてきて、良かった」
 言葉よりも、顔中に溢れる想いが、彼女の気持ちを伝えてくれる。

 込み上げる愛おしさに、殆ど衝動的に、一美は萌を抱き締めた。

 大事にしたい。慈しみたい。幸せにしたい。

 彼の中はそんな『欲望』で満たされ、そしてそれは溢れ出る。

 冷やかしの声など構わず、一美は愛しい花嫁を抱き上げた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

貴方にはもう何も期待しません〜夫は唯の同居人〜

きんのたまご
恋愛
夫に何かを期待するから裏切られた気持ちになるの。 もう期待しなければ裏切られる事も無い。

憧れの騎士さまと、お見合いなんです

絹乃
恋愛
年の差で体格差の溺愛話。大好きな騎士、ヴィレムさまとお見合いが決まった令嬢フランカ。その前後の甘い日々のお話です。

知らなかったら…

水姫
恋愛
こんな話もありなはず……。 「…えっ?」 思い付きで書き始めたので、見るに耐えなくなったら引き返してください。裏を読まなければそんなにヤンデレにはならない予定です。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

元平民の義妹は私の婚約者を狙っている

カレイ
恋愛
 伯爵令嬢エミーヌは父親の再婚によって義母とその娘、つまり義妹であるヴィヴィと暮らすこととなった。  最初のうちは仲良く暮らしていたはずなのに、気づけばエミーヌの居場所はなくなっていた。その理由は単純。 「エミーヌお嬢様は平民がお嫌い」だから。  そんな噂が広まったのは、おそらく義母が陰で「あの子が私を母親だと認めてくれないの!やっぱり平民の私じゃ……」とか、義妹が「時々エミーヌに睨まれてる気がするの。私は仲良くしたいのに……」とか言っているからだろう。  そして学園に入学すると義妹はエミーヌの婚約者ロバートへと近づいていくのだった……。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

【完結】私たち白い結婚だったので、離婚してください

楠結衣
恋愛
田舎の薬屋に生まれたエリサは、薬草が大好き。薬草を摘みに出掛けると、怪我をした一匹の子犬を助ける。子犬だと思っていたら、領主の息子の狼獣人ヒューゴだった。 ヒューゴとエリサは、一緒に薬草採取に出掛ける日々を送る。そんなある日、魔王復活の知らせが世界を駆け抜け、神託によりヒューゴが勇者に選ばれることに。 ヒューゴが出立の日、エリサは自身の恋心に気づいてヒューゴに告白したところ二人は即結婚することに……! 「エリサを泣かせるなんて、絶対許さない」 「エリサ、愛してる!」 ちょっぴり鈍感で薬草を愛するヒロインが、一途で愛が重たい変態風味な勇者に溺愛されるお話です。

処理中です...