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第三章:ほんとうの、はじまり
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母親との待ち合わせ場所に選んだのは、身構えずに済むようにと、国道沿いにあるごくごく普通のファミリーレストランだった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
短く頷いただけの一美に、萌は笑みを向ける――多分、笑えている筈。
萌はそう思っていたのだけれども、彼は何とも言えない眼差しを向けて、彼女の頬に触れてきた。
どうやら、失敗したらしい。
「離れた席に座るから、中にいようか?」
気遣わしげにそう言ってくれた一美に、萌は首を振る。
「いいんです。だいじょうぶ。ここで待っていてください」
さっきよりはマシな顔をしたつもりでもう一度微笑むと、今度は一美も笑顔を返してくれた。
彼を車の中に残して、萌は一人で店に向かう。
入り口で一度立ち止まって大きく深呼吸をして、それからグッと力を入れて扉を押し開けた。
中途半端な時間の所為か、店の中にはまばらに人がいるだけだ。
(どの人だろう)
グルリと見渡しても、独りで座っている人が何人かいて、誰が『彼女』なのか判らない。
「何名様でしょうか?」
入ってすぐに立ち止まった萌に、すかさずウェイトレスが明るい声で訊いてきた。萌は少し深く息を吸って、心持ちお腹に力を入れて答える。
「山下さんという人と待ち合わせているんです」
「ああ。承っております。こちらへどうぞ」
彼女はそう言うと、真っ直ぐに店の奥の窓際の席へと向かっていく。ついていった先では、一人の女性がこちらに背を向けて座っていた。
一瞬、足が止まる。
「お客様?」
怪訝そうに振り返ったウェイトレスのその声で、女性が振り返る。
目が、合った。
そう思った途端、萌も、相手の女性も、ピタリと固まってしまう。
「お客様? お席へどうぞ?」
「あ……はい……」
ウェイトレスに促され、萌は目を伏せながらソファに腰を下ろす。その間も、ずっと女性からの視線を全身に感じていて、顔が上げられない。
「では、ご注文がお決まりでしたらそちらのボタンでお呼びください。ごゆっくり」
客二人の微妙な空気を読んでいるのかいないのか、どこまでも明るく朗らかにウェイトレスは定型の言葉を口にして、去って行く。
「コーヒーで、いいかしら? 何か食べる?」
しばらく沈黙が続いて、おずおずと切り出したのは、相手の方だった。
「あ、いえ、アイスティーで……」
女性がボタンを押して、ウェイトレスを呼び、アイスティーとホットコーヒーを頼む。
また、沈黙。
じきに飲み物が運ばれてきて、それぞれの前に置かれる。
そして、また、沈黙。お互いに、無言でテーブルを見つめ続ける。
(どうしよう、何を言ったらいいんだろう)
そう悩んで、萌は肝心なことを確かめていなかったことに気が付いた。
「あの、わたし、小宮山萌です。……あなたは、わたしのお母さんですか? 山下めぐみさん?」
「あ、はい、そうです」
唐突に尋ねられて、彼女は――めぐみは、目を上げてしどろもどろにそう答えた。
その眼差しの中にあるのは、何だろう。
(怯え? 疎ましさ? ……やっぱり、捨てた子どもに呼び出されるなんて、イヤだったんだ)
萌は喉の奥に何かが詰まったような感じになって、声を出そうにも出せなくなる。
めぐみが萌の目を見たのはほんの一瞬で、またすぐにテーブルに視線を落とす。
話が、続かない。萌が困惑と共に、そう思った時だった。
「……私が、二十二年前にあなたを置き去りにしたんです」
「!」
あまりに直截な言い方に、思わず萌は息を呑む。目を逸らすこともできずに見つめ続ける萌の前で、めぐみが伏せていた顔を上げた。
「電話でも、言ったでしょう? 私があなたを産んで、逃げ出した母親です……ごめんなさい」
そう言って、テーブルに額が付きそうなほど、深く頭を下げる。
この人が、『お母さん』。
名前を確認した時よりも強烈に、そう実感する。
自分と似ているだろうかと、謝罪する彼女を前に、萌は思った。親子である証は、どこにあるのだろうかと。
背は、低そう。こうやって座っていて、同じくらいの目線だ。
声は? 声はどうだろう。自分では、よく判らない。
髪は似ているかも。少しクセのある、猫ッ毛。絡まりやすいから、結構、朝は困ってる。
目は? 鼻は? 口は?
そんなふうに考えていて、返事ができなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、めぐみは泣きそうに歪んだ顔を上げる。
「ごめんね、怒ってるよね。恨んでるよね。当たり前だと思う。許してもらえなくてもいいの。ただ、ずっと、あなたに謝らなくちゃって思ってて」
「え……?」
萌は、眉をひそめてめぐみを見る。
母は、自分のことを想ってくれていたのだろうか。てっきり、記憶の隅に押しやっていたのだとばかり思っていた。
戸惑って答える言葉を見つけられない萌の前で、まるで懺悔のように、めぐみは溜めていたものを次々と吐露していく。
「ごめんね。あなたがお腹の中にいるって知った時、私は十五歳だったわ。高校生だったけど、最初は、ちゃんと自分で育てようと思っていたの。誰にも内緒だったけど、段々大きくなっていくお腹にあなたがいるんだって思うと、とっても嬉しかった。お父さんはずっと年上の人で、一緒に育てるって言ってくれると思ってたの。でも、あなたの……お父さんは行ってしまって……。それでも、まだ、何とかなるって思ってた。高校辞めて、働いてって。陣痛は急に始まって、慌てて救急病院に行ったの。産まれてすぐにあなたは連れて行かれてしまって、触れることはできなかった。赤ちゃんのあなたを、一度だけ見たわ。ガラス越しに。少し早産だったから、保育器に入っていて、小さかった」
そこまで、めぐみは上ずった変に高い声で一息に言い切る。
そして、少し間が空き、打って変わって震える小さな声。
「でも、ちゃんと赤ちゃんで、その途端に、怖くなったの」
「怖い……?」
めぐみがこぼしたその言葉を、萌は繰り返した。
ぽかんとしている彼女に、めぐみは小さく嗤う。
「そう……自分が『育てる』と思っていたものが『人』なんだっていうことを、その時初めて実感したわ。バカでしょう? それまでは、解かっていなかったの。ごめんね。私、あなたを置いて逃げ出したわ。無理だ、できないって。その後、何度も病院に戻ろうと思ったけれど、一度逃げてしまったら、もう、会いに行けなくて。いつでも迎えに行けた筈だったのに、行けなかった」
めぐみの目に、涙はなかった。
きっと、泣いて許されると、思っていないのだろう。けれど、涙を見せられなくても、彼女の想いは伝わってくる。
(もう、いいや)
萌は、ずっと高いところからポトリと落ちてきたように、そう思った。
そうしたら、あれほど言葉が出てこなかったのに、不思議なほどスルリとそれは出てくるようになった。
「あのね」
その第一声に、めぐみがハッと身体を強張らせる。そんな母に、萌は自然な笑みを向けて、続けた。
「あのね、こんなことを言ったらお母さんを傷つけてしまうかもしれないけれど、でも、わたしは幸せなんです。お母さんがいなくても、わたしには、護ってくれる人がたくさんいたの。ちゃんと『おかあさん』もいたんだよ」
静かな萌の声に、めぐみが全身を耳にして聴き入っているのが判る。
「わたし、今、大事な人がたくさんいるの。その人たちと逢えたことが、とても幸せ。わたしは、『この』今で良かったと思うんです。確かにちょっと『普通』とは違うかもしれないけれど、過去があって、今があるんだから、わたしには『この』過去で良かったと思うんです」
萌は、そっと手を伸ばして、テーブルの上に置かれためぐみの手に触れた。
彼女の指先は冷たくて、そして震えている。
萌は、その手を包み込んだ。
「わたし、今日お母さんに会いに来て、良かったです。お母さんがずっとわたしのことを忘れないでいてくれたって聞けて、嬉しかった」
「でも、想っていただけなのよ? 結局、私は……」
「それでもいいです。お母さんの中に、ずっとわたしがいたのなら、それでいいんです。それだけで、わたしは……何ていうか、赦されたって思えました」
「赦される……? 何で……? あなたは、何も……」
「うまく説明できないけど、でも、そう思うんです。あのね、もし……わたしの結婚式に来てくださいって言ったら、来てくれますか?」
「え?」
ポカンと、めぐみは目と口を丸く開いている。その顔に、萌は慌てて首を振る。
「あ、イヤだったら、イヤって言ってください――」
「違う……だって、いいの? 私なんかが行って、いいの?」
萌は、ニコッと笑う。
「わたし、幸せになるんです。今も幸せですけど、もっともっと幸せにしてくれる人と、出会えたんです。すごく、大好きな人なんです」
「そう……そう、なんだ」
不意に、めぐみがホロリと頬を濡らした。
「そっか……うん。ありがとう」
「?」
唐突なめぐみのその感謝の言葉に、萌は何に対してなのか判らず首をかしげる。
「私に会いに来てくれて、ありがとう」
もう一度言葉にして、めぐみは微かに笑顔になった。それは今日、会ってから初めて彼女が見せた、笑みだった。めぐみの手を包んでいた萌の手が、逆に握り返される。
萌は、自分の中で何かがストンと落ちたのを感じる。多分、まだまだつまずくことはあるのだろうけれど、一つの区切りが付いたことは、何となく判った。
今、この時から、また新しい何かが始まるのだ、と。
*
店から一人で出てくる萌の顔を見て、一美はホッと息をつく。彼女の表情は晴れやかで、中で行なわれていたことが彼女にとってつらいものではなかったことが見て取れる。
「ただいま」
車のドアを開け、萌がそう言いながら助手席に座った。そして、両腕を伸ばして彼にしがみ付いてくる。
色気の欠片もないその所作は、幼い子どもか温もりを求める仔猫のようだ。
抱き締め返すと、細い溜息が彼の肩口を温めた。
萌の身体を受け止めながら、一美は彼女が今口にしたその言葉の意味を考える。
『ただいま』
その言葉を一美の前で使ったのは、初めてだった。
多分、無意識なのだろう。
自分が何を言ったのかも、きっと、気付いていない。
けれど、一美にはそれが彼女の中で起きた変化を表しているのだと思える。
「帰ろうか」
抱き締めたままそう囁くと、萌は小さく頷いた――その腕は、なかなか解いてくれなかったけれども。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
短く頷いただけの一美に、萌は笑みを向ける――多分、笑えている筈。
萌はそう思っていたのだけれども、彼は何とも言えない眼差しを向けて、彼女の頬に触れてきた。
どうやら、失敗したらしい。
「離れた席に座るから、中にいようか?」
気遣わしげにそう言ってくれた一美に、萌は首を振る。
「いいんです。だいじょうぶ。ここで待っていてください」
さっきよりはマシな顔をしたつもりでもう一度微笑むと、今度は一美も笑顔を返してくれた。
彼を車の中に残して、萌は一人で店に向かう。
入り口で一度立ち止まって大きく深呼吸をして、それからグッと力を入れて扉を押し開けた。
中途半端な時間の所為か、店の中にはまばらに人がいるだけだ。
(どの人だろう)
グルリと見渡しても、独りで座っている人が何人かいて、誰が『彼女』なのか判らない。
「何名様でしょうか?」
入ってすぐに立ち止まった萌に、すかさずウェイトレスが明るい声で訊いてきた。萌は少し深く息を吸って、心持ちお腹に力を入れて答える。
「山下さんという人と待ち合わせているんです」
「ああ。承っております。こちらへどうぞ」
彼女はそう言うと、真っ直ぐに店の奥の窓際の席へと向かっていく。ついていった先では、一人の女性がこちらに背を向けて座っていた。
一瞬、足が止まる。
「お客様?」
怪訝そうに振り返ったウェイトレスのその声で、女性が振り返る。
目が、合った。
そう思った途端、萌も、相手の女性も、ピタリと固まってしまう。
「お客様? お席へどうぞ?」
「あ……はい……」
ウェイトレスに促され、萌は目を伏せながらソファに腰を下ろす。その間も、ずっと女性からの視線を全身に感じていて、顔が上げられない。
「では、ご注文がお決まりでしたらそちらのボタンでお呼びください。ごゆっくり」
客二人の微妙な空気を読んでいるのかいないのか、どこまでも明るく朗らかにウェイトレスは定型の言葉を口にして、去って行く。
「コーヒーで、いいかしら? 何か食べる?」
しばらく沈黙が続いて、おずおずと切り出したのは、相手の方だった。
「あ、いえ、アイスティーで……」
女性がボタンを押して、ウェイトレスを呼び、アイスティーとホットコーヒーを頼む。
また、沈黙。
じきに飲み物が運ばれてきて、それぞれの前に置かれる。
そして、また、沈黙。お互いに、無言でテーブルを見つめ続ける。
(どうしよう、何を言ったらいいんだろう)
そう悩んで、萌は肝心なことを確かめていなかったことに気が付いた。
「あの、わたし、小宮山萌です。……あなたは、わたしのお母さんですか? 山下めぐみさん?」
「あ、はい、そうです」
唐突に尋ねられて、彼女は――めぐみは、目を上げてしどろもどろにそう答えた。
その眼差しの中にあるのは、何だろう。
(怯え? 疎ましさ? ……やっぱり、捨てた子どもに呼び出されるなんて、イヤだったんだ)
萌は喉の奥に何かが詰まったような感じになって、声を出そうにも出せなくなる。
めぐみが萌の目を見たのはほんの一瞬で、またすぐにテーブルに視線を落とす。
話が、続かない。萌が困惑と共に、そう思った時だった。
「……私が、二十二年前にあなたを置き去りにしたんです」
「!」
あまりに直截な言い方に、思わず萌は息を呑む。目を逸らすこともできずに見つめ続ける萌の前で、めぐみが伏せていた顔を上げた。
「電話でも、言ったでしょう? 私があなたを産んで、逃げ出した母親です……ごめんなさい」
そう言って、テーブルに額が付きそうなほど、深く頭を下げる。
この人が、『お母さん』。
名前を確認した時よりも強烈に、そう実感する。
自分と似ているだろうかと、謝罪する彼女を前に、萌は思った。親子である証は、どこにあるのだろうかと。
背は、低そう。こうやって座っていて、同じくらいの目線だ。
声は? 声はどうだろう。自分では、よく判らない。
髪は似ているかも。少しクセのある、猫ッ毛。絡まりやすいから、結構、朝は困ってる。
目は? 鼻は? 口は?
そんなふうに考えていて、返事ができなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、めぐみは泣きそうに歪んだ顔を上げる。
「ごめんね、怒ってるよね。恨んでるよね。当たり前だと思う。許してもらえなくてもいいの。ただ、ずっと、あなたに謝らなくちゃって思ってて」
「え……?」
萌は、眉をひそめてめぐみを見る。
母は、自分のことを想ってくれていたのだろうか。てっきり、記憶の隅に押しやっていたのだとばかり思っていた。
戸惑って答える言葉を見つけられない萌の前で、まるで懺悔のように、めぐみは溜めていたものを次々と吐露していく。
「ごめんね。あなたがお腹の中にいるって知った時、私は十五歳だったわ。高校生だったけど、最初は、ちゃんと自分で育てようと思っていたの。誰にも内緒だったけど、段々大きくなっていくお腹にあなたがいるんだって思うと、とっても嬉しかった。お父さんはずっと年上の人で、一緒に育てるって言ってくれると思ってたの。でも、あなたの……お父さんは行ってしまって……。それでも、まだ、何とかなるって思ってた。高校辞めて、働いてって。陣痛は急に始まって、慌てて救急病院に行ったの。産まれてすぐにあなたは連れて行かれてしまって、触れることはできなかった。赤ちゃんのあなたを、一度だけ見たわ。ガラス越しに。少し早産だったから、保育器に入っていて、小さかった」
そこまで、めぐみは上ずった変に高い声で一息に言い切る。
そして、少し間が空き、打って変わって震える小さな声。
「でも、ちゃんと赤ちゃんで、その途端に、怖くなったの」
「怖い……?」
めぐみがこぼしたその言葉を、萌は繰り返した。
ぽかんとしている彼女に、めぐみは小さく嗤う。
「そう……自分が『育てる』と思っていたものが『人』なんだっていうことを、その時初めて実感したわ。バカでしょう? それまでは、解かっていなかったの。ごめんね。私、あなたを置いて逃げ出したわ。無理だ、できないって。その後、何度も病院に戻ろうと思ったけれど、一度逃げてしまったら、もう、会いに行けなくて。いつでも迎えに行けた筈だったのに、行けなかった」
めぐみの目に、涙はなかった。
きっと、泣いて許されると、思っていないのだろう。けれど、涙を見せられなくても、彼女の想いは伝わってくる。
(もう、いいや)
萌は、ずっと高いところからポトリと落ちてきたように、そう思った。
そうしたら、あれほど言葉が出てこなかったのに、不思議なほどスルリとそれは出てくるようになった。
「あのね」
その第一声に、めぐみがハッと身体を強張らせる。そんな母に、萌は自然な笑みを向けて、続けた。
「あのね、こんなことを言ったらお母さんを傷つけてしまうかもしれないけれど、でも、わたしは幸せなんです。お母さんがいなくても、わたしには、護ってくれる人がたくさんいたの。ちゃんと『おかあさん』もいたんだよ」
静かな萌の声に、めぐみが全身を耳にして聴き入っているのが判る。
「わたし、今、大事な人がたくさんいるの。その人たちと逢えたことが、とても幸せ。わたしは、『この』今で良かったと思うんです。確かにちょっと『普通』とは違うかもしれないけれど、過去があって、今があるんだから、わたしには『この』過去で良かったと思うんです」
萌は、そっと手を伸ばして、テーブルの上に置かれためぐみの手に触れた。
彼女の指先は冷たくて、そして震えている。
萌は、その手を包み込んだ。
「わたし、今日お母さんに会いに来て、良かったです。お母さんがずっとわたしのことを忘れないでいてくれたって聞けて、嬉しかった」
「でも、想っていただけなのよ? 結局、私は……」
「それでもいいです。お母さんの中に、ずっとわたしがいたのなら、それでいいんです。それだけで、わたしは……何ていうか、赦されたって思えました」
「赦される……? 何で……? あなたは、何も……」
「うまく説明できないけど、でも、そう思うんです。あのね、もし……わたしの結婚式に来てくださいって言ったら、来てくれますか?」
「え?」
ポカンと、めぐみは目と口を丸く開いている。その顔に、萌は慌てて首を振る。
「あ、イヤだったら、イヤって言ってください――」
「違う……だって、いいの? 私なんかが行って、いいの?」
萌は、ニコッと笑う。
「わたし、幸せになるんです。今も幸せですけど、もっともっと幸せにしてくれる人と、出会えたんです。すごく、大好きな人なんです」
「そう……そう、なんだ」
不意に、めぐみがホロリと頬を濡らした。
「そっか……うん。ありがとう」
「?」
唐突なめぐみのその感謝の言葉に、萌は何に対してなのか判らず首をかしげる。
「私に会いに来てくれて、ありがとう」
もう一度言葉にして、めぐみは微かに笑顔になった。それは今日、会ってから初めて彼女が見せた、笑みだった。めぐみの手を包んでいた萌の手が、逆に握り返される。
萌は、自分の中で何かがストンと落ちたのを感じる。多分、まだまだつまずくことはあるのだろうけれど、一つの区切りが付いたことは、何となく判った。
今、この時から、また新しい何かが始まるのだ、と。
*
店から一人で出てくる萌の顔を見て、一美はホッと息をつく。彼女の表情は晴れやかで、中で行なわれていたことが彼女にとってつらいものではなかったことが見て取れる。
「ただいま」
車のドアを開け、萌がそう言いながら助手席に座った。そして、両腕を伸ばして彼にしがみ付いてくる。
色気の欠片もないその所作は、幼い子どもか温もりを求める仔猫のようだ。
抱き締め返すと、細い溜息が彼の肩口を温めた。
萌の身体を受け止めながら、一美は彼女が今口にしたその言葉の意味を考える。
『ただいま』
その言葉を一美の前で使ったのは、初めてだった。
多分、無意識なのだろう。
自分が何を言ったのかも、きっと、気付いていない。
けれど、一美にはそれが彼女の中で起きた変化を表しているのだと思える。
「帰ろうか」
抱き締めたままそう囁くと、萌は小さく頷いた――その腕は、なかなか解いてくれなかったけれども。
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