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第三章:ほんとうの、はじまり
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しばらく萌を抱き締めた後、一美はソファに下ろした彼女の隣に座って、一つの名前を口にした。
「……誰ですか?」
唐突に告げられた知らない名前に、萌は怪訝な眼差しを一美へ向ける。
「君のお母さんの名前だ。今の住所と電話番号もわかる」
彼の答えに、萌は大きな目を一層大きく、丸くする。
「何で……」
「知っているか、と? 『クスノキの家』に君を迎えに行った時、関根さんが教えてくれた」
「おかあさんが? ……わたしには、知らないって、言っていたのに」
大事な育ての母に嘘をつかれていたということが、彼女にとってショックだったようだ。膝の上にパタリと両手を落とし、ぽつりとこぼした。
「本当の名前かどうか、判らなかったからだろう。その後の消息も知れなかったし、いっそ知らないままの方がいいと思ったのではないかな」
「そう、なのかなぁ」
優子を擁護する一美の台詞に、萌は複雑な顔をしながらも納得したようだ。
「でも、先生は何で母の住所とまで知ってるんですか?」
「調べさせた。伝手があってな。旧姓は、『佐々木めぐみ』だ。今の名前が『山下めぐみ』」
「結婚、してるんだ……」
ポツリと、萌が呟く。短い一言からは、何を思っているのかを察することはできない。その心中を慮りながら、一美は続ける。
「君は、彼女が十五歳の時の子だ」
「十五」
それだけ言って、萌は絶句した。そして短くはない時間を経た後、また繰り返す。
「十五……子ども、だったんですね」
『若い』ではなく『子ども』と評した萌の声は、どこか理解の色を含んでいるように聞こえる。理解と、そして諦めの色を。
「君の気持ちが決まったら、会いに行こう――俺が連れて行く」
「先生が?」
「ああ。話は、二人きりでしたらいい。だが、俺もその時に近くにいたい」
「でも、わたし独りで……――はい、ありがとうございます」
また、いつものように「独りで大丈夫」と言おうとしたに違いない。口ごもりつつ、少しためらった後、萌は頷いた。
そして、クッと顔を上げて一美を見る。
「プロポーズのお返事、もう少しだけ、待ってください。ちゃんと、しますから」
その返事がどんなものか、一美にはもう判っている。だが、それは萌のけじめなのだろう。
彼女の口からはっきりと告げられるのを、彼は待とうと思った。
黙ったまま腕を伸ばし、萌の肩を引き寄せる。彼女はいつものようにほんの一瞬緊張を走らせ、そして力を抜いて一美の胸にもたれかかった。
彼は細い腰に腕を回して抱き寄せ、丸い頭に手を当て肩にのせる。
華奢で温かな身体から伝わってくるものは、全幅の信頼だ。
萌は、その重み以上の、その何倍もの重みを持つ彼女の心を、一美に委ねてくれている。
――今の彼には、それが判った。
こみ上げる、愛おしさ。
彼女を幸せにしたいと、一美は思った。
そうできるなら、他の何も惜しくない、と。
彼はかすかに頭を傾けて、彼女のこめかみの少し上に唇を押し当てた。柔らかなくせ毛から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
ただそうしているだけで、一美は、萌との間に深いつながりを感じられる。それは、今まで出会ったどんな女にも感じたことのない、深い、深いものだった。
そんなふうに思えるのは、萌に対してだけなのだ。
彼にとって唯一の、そして至上の、宝物。
一美は、腕と手に力をこめる。
そうやって、随分と長い間、かけがえのないその温もりを腕の中に閉じ込めていた。
「……誰ですか?」
唐突に告げられた知らない名前に、萌は怪訝な眼差しを一美へ向ける。
「君のお母さんの名前だ。今の住所と電話番号もわかる」
彼の答えに、萌は大きな目を一層大きく、丸くする。
「何で……」
「知っているか、と? 『クスノキの家』に君を迎えに行った時、関根さんが教えてくれた」
「おかあさんが? ……わたしには、知らないって、言っていたのに」
大事な育ての母に嘘をつかれていたということが、彼女にとってショックだったようだ。膝の上にパタリと両手を落とし、ぽつりとこぼした。
「本当の名前かどうか、判らなかったからだろう。その後の消息も知れなかったし、いっそ知らないままの方がいいと思ったのではないかな」
「そう、なのかなぁ」
優子を擁護する一美の台詞に、萌は複雑な顔をしながらも納得したようだ。
「でも、先生は何で母の住所とまで知ってるんですか?」
「調べさせた。伝手があってな。旧姓は、『佐々木めぐみ』だ。今の名前が『山下めぐみ』」
「結婚、してるんだ……」
ポツリと、萌が呟く。短い一言からは、何を思っているのかを察することはできない。その心中を慮りながら、一美は続ける。
「君は、彼女が十五歳の時の子だ」
「十五」
それだけ言って、萌は絶句した。そして短くはない時間を経た後、また繰り返す。
「十五……子ども、だったんですね」
『若い』ではなく『子ども』と評した萌の声は、どこか理解の色を含んでいるように聞こえる。理解と、そして諦めの色を。
「君の気持ちが決まったら、会いに行こう――俺が連れて行く」
「先生が?」
「ああ。話は、二人きりでしたらいい。だが、俺もその時に近くにいたい」
「でも、わたし独りで……――はい、ありがとうございます」
また、いつものように「独りで大丈夫」と言おうとしたに違いない。口ごもりつつ、少しためらった後、萌は頷いた。
そして、クッと顔を上げて一美を見る。
「プロポーズのお返事、もう少しだけ、待ってください。ちゃんと、しますから」
その返事がどんなものか、一美にはもう判っている。だが、それは萌のけじめなのだろう。
彼女の口からはっきりと告げられるのを、彼は待とうと思った。
黙ったまま腕を伸ばし、萌の肩を引き寄せる。彼女はいつものようにほんの一瞬緊張を走らせ、そして力を抜いて一美の胸にもたれかかった。
彼は細い腰に腕を回して抱き寄せ、丸い頭に手を当て肩にのせる。
華奢で温かな身体から伝わってくるものは、全幅の信頼だ。
萌は、その重み以上の、その何倍もの重みを持つ彼女の心を、一美に委ねてくれている。
――今の彼には、それが判った。
こみ上げる、愛おしさ。
彼女を幸せにしたいと、一美は思った。
そうできるなら、他の何も惜しくない、と。
彼はかすかに頭を傾けて、彼女のこめかみの少し上に唇を押し当てた。柔らかなくせ毛から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
ただそうしているだけで、一美は、萌との間に深いつながりを感じられる。それは、今まで出会ったどんな女にも感じたことのない、深い、深いものだった。
そんなふうに思えるのは、萌に対してだけなのだ。
彼にとって唯一の、そして至上の、宝物。
一美は、腕と手に力をこめる。
そうやって、随分と長い間、かけがえのないその温もりを腕の中に閉じ込めていた。
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