天使と狼

トウリン

文字の大きさ
上 下
80 / 92
第三章:ほんとうの、はじまり

9-3

しおりを挟む
 しばらく萌を抱き締めた後、一美はソファに下ろした彼女の隣に座って、一つの名前を口にした。

「……誰ですか?」
 唐突に告げられた知らない名前に、萌は怪訝な眼差しを一美へ向ける。

「君のお母さんの名前だ。今の住所と電話番号もわかる」
 彼の答えに、萌は大きな目を一層大きく、丸くする。
「何で……」
「知っているか、と? 『クスノキの家』に君を迎えに行った時、関根さんが教えてくれた」
「おかあさんが? ……わたしには、知らないって、言っていたのに」

 大事な育ての母に嘘をつかれていたということが、彼女にとってショックだったようだ。膝の上にパタリと両手を落とし、ぽつりとこぼした。

「本当の名前かどうか、判らなかったからだろう。その後の消息も知れなかったし、いっそ知らないままの方がいいと思ったのではないかな」
「そう、なのかなぁ」
 優子ゆうこを擁護する一美の台詞に、萌は複雑な顔をしながらも納得したようだ。

「でも、先生は何で母の住所とまで知ってるんですか?」
「調べさせた。伝手があってな。旧姓は、『佐々木めぐみ』だ。今の名前が『山下めぐみ』」
「結婚、してるんだ……」
 ポツリと、萌が呟く。短い一言からは、何を思っているのかを察することはできない。その心中を慮りながら、一美は続ける。

「君は、彼女が十五歳の時の子だ」
「十五」
 それだけ言って、萌は絶句した。そして短くはない時間を経た後、また繰り返す。

「十五……子ども、だったんですね」

『若い』ではなく『子ども』と評した萌の声は、どこか理解の色を含んでいるように聞こえる。理解と、そして諦めの色を。

「君の気持ちが決まったら、会いに行こう――俺が連れて行く」
「先生が?」
「ああ。話は、二人きりでしたらいい。だが、俺もその時に近くにいたい」
「でも、わたし独りで……――はい、ありがとうございます」
 また、いつものように「独りで大丈夫」と言おうとしたに違いない。口ごもりつつ、少しためらった後、萌は頷いた。
 そして、クッと顔を上げて一美を見る。

「プロポーズのお返事、もう少しだけ、待ってください。ちゃんと、しますから」

 その返事がどんなものか、一美にはもう判っている。だが、それは萌のけじめなのだろう。
 彼女の口からはっきりと告げられるのを、彼は待とうと思った。
 黙ったまま腕を伸ばし、萌の肩を引き寄せる。彼女はいつものようにほんの一瞬緊張を走らせ、そして力を抜いて一美の胸にもたれかかった。

 彼は細い腰に腕を回して抱き寄せ、丸い頭に手を当て肩にのせる。
 華奢で温かな身体から伝わってくるものは、全幅の信頼だ。
 萌は、その重み以上の、その何倍もの重みを持つ彼女の心を、一美に委ねてくれている。

 ――今の彼には、それが判った。

 こみ上げる、愛おしさ。

 彼女を幸せにしたいと、一美は思った。
 そうできるなら、他の何も惜しくない、と。

 彼はかすかに頭を傾けて、彼女のこめかみの少し上に唇を押し当てた。柔らかなくせ毛から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
 ただそうしているだけで、一美は、萌との間に深いつながりを感じられる。それは、今まで出会ったどんな女にも感じたことのない、深い、深いものだった。

 そんなふうに思えるのは、萌に対してだけなのだ。

 彼にとって唯一の、そして至上の、宝物。

 一美は、腕と手に力をこめる。

 そうやって、随分と長い間、かけがえのないその温もりを腕の中に閉じ込めていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

憧れの騎士さまと、お見合いなんです

絹乃
恋愛
年の差で体格差の溺愛話。大好きな騎士、ヴィレムさまとお見合いが決まった令嬢フランカ。その前後の甘い日々のお話です。

元平民の義妹は私の婚約者を狙っている

カレイ
恋愛
 伯爵令嬢エミーヌは父親の再婚によって義母とその娘、つまり義妹であるヴィヴィと暮らすこととなった。  最初のうちは仲良く暮らしていたはずなのに、気づけばエミーヌの居場所はなくなっていた。その理由は単純。 「エミーヌお嬢様は平民がお嫌い」だから。  そんな噂が広まったのは、おそらく義母が陰で「あの子が私を母親だと認めてくれないの!やっぱり平民の私じゃ……」とか、義妹が「時々エミーヌに睨まれてる気がするの。私は仲良くしたいのに……」とか言っているからだろう。  そして学園に入学すると義妹はエミーヌの婚約者ロバートへと近づいていくのだった……。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

貴方にはもう何も期待しません〜夫は唯の同居人〜

きんのたまご
恋愛
夫に何かを期待するから裏切られた気持ちになるの。 もう期待しなければ裏切られる事も無い。

贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる

マチバリ
恋愛
 貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。  数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。 書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。

処理中です...