天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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 一美かずよしの元にもえからの電話があったのは、夜の九時を回った辺りだった。
 多分、仕事が終わってロッカールームに戻ったところで、すぐにかけてきたのだろう。プライベートで言葉を交わしたのは、実に一週間ぶりだった。

「今から伺ってもいいですか?」

 少し硬い口調で、萌はそう言った。彼女の中で、何かが定まったのだろう――そう思わせる口調で。

 一美が彼の望む言葉を聞くことができるのか、それとも真逆のものを耳にする羽目になるのか。
 いずれにしても、きちんと彼女の考えを聞こうと、思った。それを受け入れるかどうかは、また別として。

「待っている」とだけ答えて、一美は電話を切る。病院から彼のマンションまでは、三十分もかからない。

 一美は立ち上がるとキッチンに向かった。コーヒーの豆を挽き、コーヒーメーカーにセットする。
 やがて、サーバーに充分な量のコーヒーが満ちた頃、玄関のチャイムが鳴った。時計に目を走らせると、電話があってからまだ十五分ほどだ。予想よりも、随分早い。

 一美は一度大きく息をつき、彼女を迎えに出る。

「いらっしゃい」
「……こんばんは」

 ドアを開けてやると、その場で萌はペコリと頭を下げた。髪が乱れて頬が少し上気しているところを見ると、多分走って来たのだろう。

「どうぞ」
 一美は言いながら少し身を引いて彼女を迎え入れ、鍵をかけたら先に立ってリビングに戻る。

 三歩ほど歩いた時だった。

 ガシリ、と何かが、彼の背中にしがみ付いた。抱き付く、などという色気のある風情ではない。子どもが走ってきて力任せにドスンとやる、まさにしがみ付く、というやつだ。

「萌?」
 肩越しに振り返っても、背中に押し付けられた萌の顔は見えない。さてどうしたものかと思案していると、くぐもった彼女の声が背中をくすぐった。

「ごめんなさい」

 それは、いったい何に対しての謝罪なのか。
 一美は腹に回されたその手を引き剥がすと、クルリと彼女に向き直った。彼を見上げてくるその眼差しに、涙は無い。むしろ、強い光を秘めて、少しも逸らすことなく真っ直ぐに彼の目を見つめてくる。

「ごめんなさい」
 萌は、またその言葉を口にした。そして、続ける。
「わたし、先生のことが好きです。どんなふうに好きなのかとかは、やっぱり判らないままなんですけど、好きです。もしかしたら『お父さんみたい』とか……『おかあさんみたい』とかで、『恋愛』ではないのかもしれないですけど、先生とずっと一緒にいたいです。いさせてください」

 何を今更な。

 一美は半ば呆れて、内心でそうぼやいた。
 そんなのは、当たり前だ。

「どうせ抱き付くなら、こっちにしてくれよ」
 そう言いながら、掴んだままだった萌の手を、自分の背中に回させる。そして、彼自身の腕は彼女の背中に伸ばして、ゆるりと抱き締めた。
 その小さな身体の形を確かめるように、やんわりと包み込む。以前よりも、また少し柔らか味を欠いていて、一美は内心で舌打ちをした。
 せざるを得なかったとは言え、食が進まなくなるほどに彼女を追い詰めたのは、彼だ。また餌付けをしなければ、と頭の中のメモ帳に最優先項目として記載する。

「で、何に対しての『ごめんなさい』なんだ?」
 そう問うと、萌は首をほとんど直角に曲げて、一美と視線を合わせた。そして、生真面目な口調で答える。
「勝手にグダグダ考えて、ドンドン自分でも何が何だか解からなくなっていって、先生とちゃんと向き合わず、逃げようとしました。でも、一番は、先生を悲しませてしまったことです」
「じゃあ、何故俺が悲しいと思ったのかも解かったのか?」
「わたしが、先生の気持ちを解かっていなかったから……?」
「なら、俺の気持ちが解かったのか?」
「……同情じゃ、ないんですよね? わたしのことを好きだと思ってくださってると思っても、いいんですよね?」

 自明なことを、何故、そんなに自信がなさそうに問うてくるのか。

 ――まったく、あれだけはっきり意思表明していても、まだそのレベルなのか。

 一美は、思わず深々とため息をついてしまった。それに身を強張らせた萌の背中を、宥めるように叩いてやる。そうして、決して目を逸らせることができないように、彼女の頬を両手のひらで包み込んでその大きな瞳を覗き込んだ。

「俺は、何度も声に出して言ったよな? もっと言葉を尽くして『説明』してやろうか?」
 少々意地の悪い笑みを浮かべた一美を、萌はパチクリと大きく瞬きをして見つめる。

「俺は君の笑った顔が好きだ。多分、最初にやられたのは、それだ。鈍いところはイラッとする時もあるが、逆に嗜虐心をそそられる。それに、君の弱いところも見過ごせない。支えたいと思って、つい手も口も出てしまう。人の好意を素直に信じられなくて、近付いたら逃げようとするところを見ると、捕まえて、力づくでもどれだけ想っているのかを教え込んでやりたくなる。だが、一番惹かれるのは、弱いくせに強くあろうとするところだ。弱いけれどもその弱さに負けまいとするところが、堪らなく愛おしい。君が頑張らなくてもいいように、甘やかしてやりたくなる」

「先生……」
 手の中の萌の頬は、真っ赤に火照っている。ジッと見つめると、困ったように視線を揺らした。

「最初は、屈託のない、天真爛漫な子だと思っていた。ただ、無邪気で可愛いだけの子かと。だが、君の色々な側面を見て、君のことを一つ知るたびに、どんどん目が放せなくなっていった。君が笑ってくれると、俺の中が満たされる。俺の知らないところで泣いているかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。だから、傍に居て欲しいと思った――俺の目の届くところに。目覚めた時に腕の中に君の温もりがあると、この上なく幸せだ。君の『不幸な生い立ち』なんかじゃ、気持ちは動かない。不幸な子どもなんて、今までに何人も見てきた。同情で、プロポーズなんかしやしない」

 どうだ? と目で問いかける。彼女のその目尻に雫が溜まっているのは、感動のあまり、というよりは、居た堪れなさ故か。顔中で、もう放してくれと訴えている。

「よく……解かりました……自惚れてみることにします……」
 消え入りそうな声で、彼女はそう囁いた。

 一美はニヤリと笑い、頬から背中へと、手を滑らせる。彼の腕の中で、萌は震えるような溜息をついた。
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