天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

7-3

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 仕事から帰って一息ついた頃、不意に玄関のチャイムが鳴らされて、萌は時計に目を走らせた。夜の十時を少し回ったところで、いったい誰だろうかと彼女は眉をひそめる。

「どちら様?」
「俺だ」
 扉越しに返ってきた声に、萌は殆ど条件反射のようにドアを開けていた。

「先生、どうしたんですか?」
「入っても、いいか?」
「どうぞ」
 何だか一美は随分疲れた様子で、萌は一も二もなく身体を引いて彼を招き入れる。

 何部屋もある一美のマンションとは違って、ここはしがないワンルームだ。元々広いとは言えないのに、身体の大きな一美が入ってくると一層狭く感じられる。

「座っててください、お茶を入れますから」
 ソファなんて置く場所がないから、あるのは座布団くらいだ。それに胡坐をかいた一美にそう言い置いて、お湯を沸かしに行こうと身を翻した萌だったけれど、一美に手を取られて引き留められる。
「茶はいいから、おいで」
「先生?」
 一美は、何だか妙に沈んでいる様子だった。

(何があったんだろう)

 いつも自信満々な一美のらしくない姿に戸惑いを覚えた萌の腕を、彼はそっと引っ張った。さして強い力ではなかったけれど、何だか逆らいがたくて、萌は素直に彼の腕の中に納まる。
 抱きすくめられた萌の頭に、一美の顎がのせられた。

 何か、イヤなことでもあったのだろうか。

 今日は土曜日で病院は休みだったから、一美とは、看護師と医師として、午前中に少し言葉を交わしただけだった。

(あの時は、普通……だったよね?)

 帰ってから、何かがあったのか。
「先生、どうかしたんですか?」
 萌は、もう一度そう問いかける。それに返されたのは、また、全然問いの答えになっていない言葉だった。

「俺は、君が好きだ」
「は?」
「結婚しよう。今から、は無理か。明日にでも婚姻届けを出しに行こう」
「ちょっと、先生?」
「俺が、君の家族になるから」
「先生、ちょっと、待ってください」
 萌は一美の胸に腕を突っ張って、身体を離す。

「どうしたんですか、本当に。変です」
 言いながら彼の目を見ると、思いの他真剣な眼差しと行き合った。
「変じゃない。とっくにプロポーズはしただろう?」
「……そうですけど、でも……」
 言い淀んだ萌を、一美は再び引き寄せようとする。けれども、どう考えてもやっぱり変だった。
「君は俺が好きだ。俺は君が好きだ。だから、一緒にいたい――それで充分じゃないか」

 一美の言葉はとても単純で、きっぱりとしていて、萌はごまかされてしまいそうになる。
 でも、そういうわけにはいかなかった。
 逆に、今がチャンスなのかもしれない――ここ数日考え、そして辿り着いた結論を彼に告げる為の。

 腕をつっかえ棒にして身体を離し、萌は一美と視線を合わせた。
「わたし、ここのところ、考えてました」
「何を?」
 怪訝そうな顔をして、一美が訊く。萌は一つ二つ息を呑み込んで、続けた。

「『好き』について――先生の、プロポーズについて、他にも色々」
「そんなもの、根を詰めて考えるようなものではないだろう?」
「でも、わたしは考えたんです。で、思いました」

 そこで、口ごもる。それは、萌自身も言葉にしたくないことだった。
 けれども、言わないわけにはいかない。

「……先生、わたしのことをどれくらいご存知なんですか?」
「どれくらい、とは?」
「わたしが赤ちゃんの頃に捨てられて、里子に出されたところからも返されたっていうこと、知ってらっしゃるんでしょう?」
 一美が、ハッと息を呑んだのが、判った。

(やっぱり、知っているんだ)
 萌は、心の中で苦笑する。

 だから、なのだ。一美が萌に『結婚』という言葉を出してきたのは。
 それなら、納得できる『理由』だった。

 実の親に捨てられて、引き取られた里親からもいらないと言われた、寄る辺のない子ども。どちらかだけなら珍しくないかもしれないけれど、その両方というのは、そうそうないだろう。

 きっと、それが一美が『萌を』選んだ理由だ。

「先生のそれは、きっと、わたしのことを可哀想って思う気持ちが八十パーセントくらいなんですよ」
 萌は努めて明るい笑顔を作って、軽い口調でそう言った。
 一美は優しい人だから、多分、『好き』と『同情』が一緒くたになってしまっているのだろう。
 彼は元々家庭なんて欲しくないと言っていた人だ。
 けれど萌が以前に家庭が欲しいとこぼしたことがあるから、結婚しようと言ってくれたのだろう。

(――『可哀想な』わたしのために)

 だったら、萌は一美の申し出を受けてはいけない。
 きっと、その方が、彼だってホッとする筈だ。
 そうしたら、『今』を変えずに済む。今のまま、一美が萌のことをいらなくなるまでは、一緒に過ごしたらいい。

「結婚なんて、しなくていいんですよ。わたし、今のままでも充分幸せですから」
 明るく、屈託なく、言ったつもりだった。けれど、萌のその言葉を聞いた途端、一美の顔が曇る。

 それがあんまり悲しそうだったから、萌は慌てて両手を振った。
「あ、いえ、イヤじゃないんですよ? それでも、嬉しいです、好きだって言ってもらえて。でも、それで結婚っていうのは、やっぱり違うって思うんです」
 慌てて言い繕った萌に、一美は深い溜息をつく。
 それがまるで胸の奥底から搾り出されたかのように聞こえて、萌は胸が痛くなった。

(でも、わたしは間違ってないよね?)

 間違っているのは、こんな気持ちで結婚することの方だ。
 萌は、一美の反論に備えて身構える。その様子に、彼は少し笑った。

「同情ではないさ。確かに、幼い頃の君の事を想うと、胸が痛む」

 ほら、やっぱり。

 萌のそんな内心のつぶやきは表情にも表れていたと見えて、一美は小さく首を振った。
「違う。胸が痛んだのが、先じゃない。君を愛しく思うから、君がつらかった頃を思うと胸が痛むんだ。同じ話を聞かされても、他の人間ではこんなふうには感じない。君のことだから、悲しいんだ」
 切々とそう説く一美だったけれど、萌には同じことのように思われてならなかった。

 だから、言う。

「それはやっぱり、同情ですよ。ね?」
 別に気にしていないから、という気持ちを表す為に、笑顔を付けた。けれども一美の眼差しはやっぱり寂しそうなままで、萌は浮かべた笑顔を消すに消せなくなってしまう。
 彼を悲しませているのは、間違いなく自分だ。その事実に、思考が停止する。

 一美はそんな萌を見つめたまま、言った。
「俺は君の境遇に心を奪われたわけじゃない。君自身に惹かれてるんだ」

『わたし自身』――でも、それなら、もしも彼が離れていってしまう時が来たら、それは、萌自身のことをイヤになったということだ。

(わたしは、また、疎まれる)

 ――誰よりも大好きな、誰よりも大事な、人から。

 フッとそんな考えが頭をよぎり、思わずフルリと身を震わせる。それを感じ取ったのか、微かに一美の腕に力がこもった。
 ギュッと引き寄せられて、抱き締められる。
「君が同情だと思いたいなら、それでもいい。だが、それは逃げだ」
「逃げ? わたしは、べつに……」
「いいや、逃げている。望みさえすれば手に入るものから、君は逃げているんだ。手に入れた後のことを、恐れて。『家族』が欲しいと言いながら、実際には手に入れようとしない。手に入れる前から失うことを、怖がってるんだ」
 萌の腕は、力を失っていた。もう一美を押しとどめておくことはできなくて、その腕に抱き寄せられるがままに、彼の胸に頬を押し付ける。
 低い声が、硬い胸を通して耳に直接響いてくるようだ。

「この気持ちは、同情なんかじゃない。それに、俺は、君の手を放したりはしない。約束する。だから、一度だけでいい、俺を信じてくれ。その一度で、充分だから」
 一瞬、彼の腕に力が入って、そして、解放された。

 立ち上がった一美は、身を屈めてぺたりと座り込んだままの萌の頬に手のひらで触れる。
「君が考えたいと言うなら、好きなだけ考えればいい。だが、そうしたからといって、答えが得られるとは限らない。君に必要なのは、原因や理由じゃない――先を見る勇気だ」
 そう言って、ただ彼を見上げるだけの萌の唇に、触れるだけのキスを落とした。

 すぐに離れて行ってしまった温もりが優しくて、切なくて、萌はふいに泣きたくなる。
 何を言ったらいいのか判らない萌はただただ一美を見つめるばかりで、そんな彼女に、彼は寂しげな微笑みを浮かべた。

「これだけは何度でも言う。俺は、君を諦めない。そのことは肝に銘じておけ」
 宣言するようにきっぱりと告げると、一美は身を起こして玄関に向かう。そうして、去り際に「すぐに鍵をかけろよ」と残して出て行った。
 萌はノロノロと立ち上がると、一美に言われたように、玄関に鍵をかける。そしてまた部屋に戻り、ペタンと座り込んだ。

 一生懸命に考えたことは、一美に一蹴されてしまった。

 ――『同情』じゃ、ないの?
 ――わたしが、逃げてる?

 そんな筈はなかった。
 一生懸命に、一美に向き合おうとしているだけだ。
 彼の人生に、自分がこのまま足を突っ込んでしまってもいいものなのかどうかを、考えているだけなのだ。

 それなのに。

 一美は萌の答えを否定する。
 彼は、自分を信じて欲しいと、言った。
 萌は彼をちゃんと信じている。でも、彼にはそれが通じていない。

「ちゃんと、信じているのに」
 声に出して、そう呟く。その時、胸の奥の奥で、微かな囁きが聞こえたような気が、した。

 ――本当に?

 そう自問する、微かな囁きが。
 最後にキスをして萌を見下ろしてきた一美の目は、悲しそうだった。
 それは彼女のせいだ。それだけは判る。

 けれど。

「……わかんないよ……何がいけなかったの……?」
 そうつぶやいても、答えてくれる者はいない。

 目を閉じれば、目蓋の裏に自分に向けられていた彼の眼差しがよみがえる。それは、萌の心を刺し貫いた。
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