天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

7-2

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「で、岩崎さんとおっしゃいましたっけ? ええっと、あの子……あら、ごめんなさい――」
「萌、です」
「そう、萌ちゃん。あの子と結婚なさるのね?」
「はい」
「主人もいれば良かったんですけど……せっかく前もってご連絡いただいたのに、生憎と、外せない用事がありまして」
「いえ、こちらこそ、不躾な申し出を聞いていただいて、ありがとうございます」
 一美は、そう言って頭を下げる。

 今、彼は、萌の元里親である小田家を訪れていた。
 先に電話で連絡を入れておいたが、会えたのは妻の里美だけだ。『母親』の彼女がいれば知りたいことは訊けるであろうから、それで充分だった。

「幼い頃の短期間とは言え、萌はこちらでお世話になったわけですから、やはり結婚式には招待したいと思いまして。彼女には内緒なんです。サプライズで登場していただきたくて、こうやって、こっそり伺いました」
 そう言って笑って見せると、里美も「まあ」と笑みを返してくる。
 普通に考えれば、おかしいと思うだろう。名前も覚えていないような里子の婚約者と自称する者が突然連絡を取ってきて、会いたいと言うなどという事態は。
 だが、一美の容姿と、物腰と、医者だという肩書きは、すっかり里美の目を眩ませているらしく、微塵も疑いなど抱いていないようだ。朗らかな笑顔で対応してくれる。

 しばらくは夫の仕事がどうのこうのとらちもない雑談が続き、それに愛想笑いで応じる一美の顔はそろそろ引きつり始めそうだった。仕事中でも、こんなににこやかにはしない。

 さて、どうやって萌の子どもの頃の話に誘導しようか。
 里美の取りとめのない話に頷きながら、一美がそう思案した時だった。

 自分の家族についてのネタが切れたらしい彼女が、顎に手を当てて『それ』を口にした。
「岩崎さんはご結婚なさるわけだから、あの子の生い立ちをご存知でしょう?」
 知らなかったとしたら、こんなふうにばらしてしまって、どうするつもりだったのだろう。内心で呆れながら、一美は神妙な顔で頷いた。
「はい、伺っています」
「ねえ、可哀相な子よねぇ、母親が逃げてしまうだなんて」
「……」
 彼女を観察する冷ややかな一美の眼差しには気付かず、里美は深々とため息をつく。

「私たちも、可哀相だと思ったからこそ、引き取ってあげたんですけど。私たちには子どもはできないだろうと言われてましてね。でも、長男を授かったんです。やっぱり、本当の子ができたら、ねぇ」

 『本当の子』。

 その言葉に、笑みを刻んだ一美の唇がピクリと引きつりそうになった。が、そんな彼をよそに、里美は自身に酔ったように続ける。
「できるだけ、育ててあげようと思ったんですよ? やっぱり、ほら、施設とかよりは普通の家庭で育つ方がいいでしょう? でも、うちの子――雄太ゆうたが一歳越して来ると、元気な子なものですから、もう、手がかかって」
 そう言いながら、彼女の目には息子が可愛くて仕方がない、という色が溢れかえっている。

 その想いの、十分の一、いや、百分の一でも、萌に注いでくれたのだろうか。一美は、頼むからそうであってくれと願った。しかし、更に滔々と続けられた里美の台詞に、両膝に置いた拳を握り締める。

「確か、その頃、萌ちゃんは二歳――三歳――どちらだったかしら? とにかく、うちの雄太が一歳になった時、主人とも話し合って、やっぱりよその子を一緒に育てるのは無理ねっていうことになったんです。けど、あんまり急な話では申し訳ないでしょう? で、それから一年くらいは面倒みてあげて、『クスノキ』さんに引き取っていただいたんですよ」
 まるで犬や猫の子を手放すような言いようで、里美はニッコリと笑顔になる。

 一美には、何故彼女がそこで笑えるのか、さっぱり解からなかった。彼は唇を横に引き、辛うじて笑みといえるであろう表情を作って、応じる。
「そうですか。ご立派なことです」
「うちではね、あの子のことを、きちんと躾けましたのよ? 次のおうちに引き取られた時に、わがままな子だとか言われずに、ちゃんとできるように」
「そうですね。彼女は、とても『いい子』です」
「まあ。やっぱり、小さい頃の躾って、大事なんですねぇ」
「ええ……そうですね……」
 一美は、何とかそれだけ搾り出す。

 『ちゃんと躾けた』

 その言葉の意味するところは、どんなものか。
 一美の脳裏に、赤ん坊を目の中に入れても痛くないほどに可愛がる夫婦の姿が浮かぶ。

 子どもができないと言われていた彼らには、この上ない僥倖ぎょうこうだったに違いない。喜びに溢れて、わが子のことで頭の中が一杯になる。

 それは、理解できる。
 それを、責めることはできない。

 だが、そんな彼らを、萌はいったいどんな気持ちで見ていたのだろう。その輪の中に、入ることは、できていたのだろうか――一美には、そうは思えなかった。

 小田夫妻がろくでもない人間だとは言わない。
 萌の境遇を哀れみ、引き取ろうとした、善意に満ちた人間だ。赤の他人よりも、血を分けた子を可愛がるのも、至極当然のこと。

 悪意など欠片もない、ごく普通の人たち。

 ただ、彼らは気付かなかっただけだ。子どもがどれほど『親』の空気を敏感に読み取るかということに。

 里美は覚えていなかったが、それは萌が二歳の時だ。
 自分を取り巻く世界に対する不安が強くなり、一番親の庇護を必要とする時。
 そんな時期に、自分と他の家族との間に明確な壁ができたことを、彼女は察しただろう。
 幼い頭で、自分の何がいけないのか、懸命に考えたかもしれない。
 どうしたら以前の温もりを与えてもらえるのか、必死で考えたに違いない。

 ――そうして、一番わがままである筈の年頃に完璧に我を押し殺すことを覚え、けれど結局『親』には別れを告げられた。

 それは全て一美の推測に過ぎない。
 当たっていて欲しくないと、思う。

 だが。

 辻褄が合ってしまう。

(クソ)
 一美は、内心で、毒づく。もしも今『その時』に跳べるなら、小さな萌を抱き上げてやれるのに。

「岩崎さん?」
 無意識のうちに、険しい顔つきになっていたのだろう。里美がその舌を止め、怪訝な顔つきで彼を見つめてくる。
「ああ、失礼しました。……そろそろ、帰らなければならない時間なので」

 もう、この家にいたくなかった。ここで過ごしていた萌を、これ以上想像したくない。

 そんな一美の胸中は知らず、里美が「まあ」というふうに頬に手を当てる。
「そうですよね、お医者様では、お忙しいですよね。何のお構いもできませんで……」
「いえ、こちらこそ急なお伺いにも拘らず、ありがとうございました」
「あ、お式の方は、いつ頃に?」
 そう言われて、一美は一瞬何のことだろうと首を捻りかけたが、そう言えば結婚式に招待するという口実だったことを思い出す。
「まだ、未定なんです。正式に決まったら招待状をお送りしますので」
「お待ちしておりますわ」
 里美は屈託なくそう言った。だが、きっと一週間もすれば、すっかり忘れてしまうのだろう。つい先ほどまで、萌の名前を忘れていたように。

 一美の胸に、唐突にムカつきが込み上げてくる。

「では」
 言葉少なくそう告げて一美は立ち上がると、案内を待たずに玄関に向かった。

 外に出て、自分の車に乗り、深く深く呼吸する。
 気分が多少なりとも落ち着いてきたところで、エンジンをスタートさせた。それでもしばらくは高速道路に乗る気になれなくて、少しの間、一般道を走らせる。

 無性に萌に逢いたくてたまらない。
 逢って、彼女を抱き締めたかった。

 ここから家まで一時間半ほどだが、まだ、それほど遅い時間にならずに済む。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、一美は高速の入り口を目指した。
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