天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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「岩崎先生?」
 問いかける眼差しの肇に、一美は小さくかぶりを振って返す。
「何でもない。引き留めて悪かったな。帰ってゆっくり休んでくれ」
「はい……お疲れ様でした」
 一美が促すと、肇は訝る眼差しを残しながらも鞄を手にして、頭を下げる。そして、何となく気掛かりそうな様子を残しつつも、医局を出て行った。

 独りになった一美は、肇の台詞を思い返す。

 ――自分の存在を、働くことで認めてもらう。

 それは、妙に、ぴったりきた――萌に。彼女の生い立ちを鑑みれば、そういう気持ちが心の奥底にあったとしても、不思議ではない。
 動くことの動機の一つが、「人の役に立ちたい」という気持ちであることは、誰しも多かれ少なかれあることだろう。その「役に立ちたい」という思いの底にあるものが、「そうすることで人から認めてもらいたい」という願望であることも。
 だが、「働くことで認めてもらう」――「尽くさなければ受け入れてもらえない」と思っているのであれば、それは、どうなのだろう。だから、萌は、赤の他人の為にも過剰なまでに動こうとするのだろうか。

 一美は、見も知らぬ相手を喜ばせたり、その相手に認めてもらいたいと思ったりすることはない。
 どうでもいい相手に尽くす気持ちにはならない。
 彼が動くのは、『大事に想っているその人』に喜んで欲しいからだ。
 ただ、「好きだ」「大事だ」と言葉で告げるだけでは、萌の心の奥底まで届かせることはできないということなのだろうか。
 何かをする必要はなく、ただシンプルに想いを注がれる、というのは、彼女には理解できないことなのだろうか。

 肇が言ったように、これはただの推論だ。
 萌の心は萌にしか――いや、本人にすら解からないかもしれない。それをグダグダ紐解こうなど、傲慢なことなのかもしれない。
 だが、一美は、もしもそんな心の動きが萌の中に潜んでいるのなら、「それは違う」と言ってやりたかった。

 何もしなくてもいい。
 ただ、お前自身を、萌そのものを好いている者もいるのだ、とその頭に叩き込んでやりたかった。
 誰かの為に夢中になるところもひっくるめて、一美は萌を好きなのだ――愛している。
 その行動の根底にあるものが「受け入れてもらいたいから動く」というものであったとしても、別に幻滅したりはしない。そんな弱さもまた、彼女を形作るものの一つなのだから。
 だが、そんな気持ちで『動かずにはいられない』のであれば、それはやめさせたかった。
 どうしたら、萌にとって一番良いようにできるのだろう。

 そう考えた一美の胸元で、PHSが存在を主張する。彼は小さく息を吐きつつ受話ボタンを押した。
「はい、小児科岩崎」
「あ、先生、すみません。また五人ほど患者さんが来られてます」
「わかった」
 取り敢えず、ひとまずはここまでだ。
 考えれば考えるほど、萌の中には何か根深いものが潜んでいるような気がしてくる。
 どうやったらそれを掘り出すことができるのか。いや、そもそも、どこまで探る必要があるのだろう。
 多分、全てを知る必要はない。そんなことは不可能だ。

 どうしても見つけなければならない、何か。

 その何かを、一美は探し出したかった――それさえ知れば、萌を本当に手に入れることができるようになる、何かを。

 一美は職務を果たそうと立ち上がる。
 救急外来への道すがら、思った。

 想いを通じ合わせるということが、これほど困難なことであろうとは。
 ただ単純に、想いを向けて、そして返してもらえるというのは、何とありがたいことなのだろう、と。

 萌は厄介な相手だ。
 だが、その厄介さも含めて愛してしまったのだから、仕方がない。
 救急外来に着いた一美は、深く息を一つ吐いて頭の中のスウィッチを切り替える。

 問診票を読み、電子カルテを開くと、一人目の名前を呼んだ。
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