天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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「いいから、帰れ」
「先生! 横暴です!」
 萌の背丈は一美の顎に届くかどうか、というところだ。
 そんな彼女が拳を握り締めて両足を踏ん張っていても、仔猫が毛を逆立てている程度にしか見えやしない。危うく緩みそうになる口元を引き締めて、一美は絡め手で攻めることにした。

 萌に向き直って、懇々と説く。
「俺は君が心配なんだ。君は勤務中に仮眠も取らないから、完全な徹夜明けなんだろう? 自分では大丈夫だと思っていても、疲れってのは溜まっていくものなんだ。休める時に休むのも、仕事をする上では必要なことだ、違うか? 大丈夫だと油断していて潰れたら、その方が周りに迷惑をかける」
 最後の一文が一番効果を発揮したようで、萌はそこで少し俯いて黙り込んだ。と、タイミングよく、そこで一美の院内PHSが鳴る。
「じゃあ、俺は行くから、早く帰るんだぞ」
 一美は手を伸ばして、クシャリと彼女の髪を撫でてやる。そうしてしまってから、子ども扱いしているように見えてしまったかと思ったが、仕方がない。
 頭の中を整理した萌がまた何か言い出す前に、今度こそ一美は踵を返してその場を後にする。

 PHSのコールは病棟からで、患者の点滴が漏れたから入れ直して欲しいということだった。
 さして梃子摺ることなく処置を終わらせ、一美は医局への帰り際、念の為にコンサート会場へ足を運ぶ。
 グルリと見回してもそこに萌らしき姿はなく、どうやら素直に帰ったらしいと胸を撫で下ろした。そして、今度こそ医局に向かう。

(まったく、彼女はどうしてああなのだろう)
 幾度となく繰り返した問いを、一美はまた胸中で呟いた。献身的と言えば聞こえがいいのだが。
 確かに、小児科の面々も、基本的には休日も出勤している。だが、それは、子ども達は日々状態が変わる為、目を離すことができないからだ。
 患者達の状態が落ち着いていれば当直医に任せるし、来る必要がなければ、来ない。わざわざ業務外の仕事を見つけるなどということはしやしない。休めるに越したことはないのだ。
 首を振りつつ医局に戻ると、そこにはその小児科医の一人、徳永肇とくなが はじめがいた。白衣を置いているところをみると、自分の患者を診終わって帰るところなのだろう。

 入ってきた一美に気付いて、彼はペコリと頭を下げた。
「あ、お疲れ様です。外来、忙しいですか?」
 彼らしい柔らかな笑みと共に、そう訊いてくる。
「いや、そうでもない。朝一番で、五人ほど溜まっていたくらいだ」
「そうですか。やっぱり、時期がいいからですかね」
 もう少しすると、台風やら涼しくなるやらで、喘息や感染症の子どもが増えてくる。そうなると、休憩はおろか食事もろくに摂れなくなるのだ。
「まあ、今のうちに楽をさせてもらうさ」
 言いながら、一美は自分のデスクに着く。と、ふと思いついて、クルリと肇に向き直った。

「なあ、徳永」
「何ですか?」
 帰りの身支度を整えていた肇が、振り返る。
「お前、心理方面に詳しいだろう?」
「詳しい、というほどじゃないですけど、興味はあります」
 そう謙遜するが、肇のデスクの上には児童心理などの本がぎっしりと積まれている。しかも、かなり読み込んだ状態で。
 元々、彼は精神科と小児科とで選択を迷っていたらしいから、今も小児の心身症などに強い関心を持っていた。

 一美は一つ咳払いをして、切り出す。
「その、ワーカホリックってやつについて、どう思う?」
「仕事中毒ですか?」
「そうだ。仕事の後にボランティア、とか、何を思ってそんな余計なことをする気になるんだと思う?」
 生真面目な肇は、唐突な一美の奇妙な問いにも、真剣に考え込んだ。
「うぅん。本来の仕事にのめり込むなら、その仕事が好きだからってことなんでしょうね。でも、別のことをやるのか。ボランティアじゃ、お金にはならないし。単純に、人の役に立ちたいってことですかねぇ」
「だが、何故そこまでやりたがる? ある程度なら解かるが、身を粉にして人の役に立つ、というのはどういう考えから来ているのか」
「身を粉にして、ですか。そうですねぇ……そうやって、自分の存在を証明したい、とか?」
「証明?」
「そう。あるいは、存在を赦してもらう、とか」
「何でそんな必要があるんだ」

 一美は、眉をひそめる。
 自分が存在していいかなど、誰かに赦しを乞うものではない筈だ。許可してもらうまでもなく、そこにすでにいるのだから。

 本気で理解不能な顔をしている一美に、肇は更に言い添えた。
「神経性食思不振症の人なんかは、そういう一面もあるのではないか、と言われてますよ」
「拒食症か?」
「はい。あの子達なんかは、病的なほどに痩せたがりますよね。じゃあ、何でそんなに痩せたいのかというと、今の風潮は『痩せているほどキレイ』で、キレイであれば周りから称賛されて、認めてもらえると思うから。自尊心がしっかり作られていれば、他人にどう思われるかでそれほど右往左往しなくて済むんですけど。自尊心が低い子達にとっては、『周りの評価』の他にすがるものがないんですよ。」
 肇は、一文一文を噛み締めるように、言う。
「先生のおっしゃる『仕事にのめり込んじゃう人』は、そうすることで認めてもらいたいんじゃないでしょうか。ボランティアで人から感謝されて、自分の存在を確認する、みたいな」

『他人に認めてもらう』必要など露ほども感じたことのない一美は、彼の話に眉をひそめるばかりだ。

「さっぱり解からん。彼女はもう十分すぎるほど皆から評価されているし、むしろ天狗になっていいくらいだぞ?」
「……人の自尊心の土台を作るのは、なんだかんだ言って、やっぱり母親なんですよね。幼い子どもにとって、お母さんというのは世界の全てですから、小さい頃に母親にしっかりと受け止めてもらうことで、一番の基礎ができる。人生の中で一番重要な時期にこの世で一番重要な相手から与えられるべきだったものに匹敵するほどのものを、すでにその人ができ上がった状態で他の誰かから手に入れるのは、かなり大変なんじゃないでしょうか」
 真面目な顔でそう言い終えた彼だったが、一美の表情に気付いて、苦笑した。

「いや、まあ、人の心のことなので、他にももっと色々なことが絡み合っている筈ですけどね。他にも説は色々あるし。誰も自分の胸中なんて理路整然と語れないし、それが真実なのかも判りませんから。一元的に、『こうだ!』なんて言い切れるものではないですし。そもそもこんなのただの推量で、実際は、そんな深い意味とかなんてなかったりしてね」
「いや、ああ、そうだな、考え方の一つだな」
 一美は、そう呟く。彼の表情が予想外に真剣なものであることに、肇は少し戸惑いを覚えたようだった。

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