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第三章:ほんとうの、はじまり
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「では、熱冷ましの坐薬を出しておきますので、本人がつらいようだったら使ってあげてください。熱が高いだけで、水分が摂れて本人が元気だったら、使わなくていいですよ。休みが明けたら、必ずかかりつけに行って、様子を診てもらってください。では、お大事に」
言い慣れた台詞をよどみなくスラスラと口にして、一美は診察を切り上げる。
今日は日曜日だが、当直の一美には長い一日が待っていた。
霞谷病院は二次救急病院なので、基本的には『飛び込み』の患者は対応しないことになっている。「急に熱が出た」などの訴えの患者は、一次救急である急病センターなどに行ってもらうのだ。
だが、定義上はそうなっていても、窓口に来てしまった者を追い返すわけにもいかないのが現実で、結局、休日でも数十人の患者を診る羽目になることが殆どだった。
取り敢えず溜まった患者を一掃すると、一休みできそうな間が空いた。今のところ新しい患者は来ていないようで、お茶の一杯くらいは飲む時間があるだろう。
「じゃあ、俺は行くから」
救急外来の看護師にそう声をかけて、一美は医局に向かう。
普段の賑やかさが嘘のように静まり返っている廊下を歩く彼の脳裏には、先だっての斉藤貢とのことが浮かんでくる。
貢との会談の後、一美は何となくモヤモヤとすっきりしない日々を過ごしていた。
自分こそが、萌のことを最も理解している存在でありたい。
そう願っているにも拘らず、一美の周りの者は皆彼女のことを良く解かっていて、実は一番理解していないのは自分なのではなかろうかという気がしてくるのだ。
だから、モヤモヤする。
これがもしや、『自信が揺らぐ』ということなのだろうか。
今までの人生において、一美は常に自信にあふれていた。
実際、これまでは望んだことはほぼその通りに実現できてきたし、医者になってからは意図して自信を持つように心掛けてきた。医師という仕事は、パフォーマンスの一つとして自信を持って物事に当たるということが必要不可欠でもあったからだ――不安げな医者では、患者に安心感を与えられない。
成功体験に基づいた自信と、仮面として身に着けた自信。
その両者を併せ持った一美は、自他ともに認める自信満々な人間なのだ。
――その筈だったというのに。
萌といると、彼の人生における様々な事柄が覆されていくようだった。
変化を疎んじているわけではないが、何というか、これが『先の見えない不安』というものなのだろうかと思う。
そんなふうにつらつらと色々考えて、一美はふと雰囲気の違いに気が付いた。
救急外来から玄関前のホールを抜けて医局のある棟に行くのだが、休日には静まり返っている筈のホールからざわめきが聞こえてくるのだ。
何事だろうかと一瞬考えて、一美はすぐにピアノコンサートを開催する日だったことを思い出す。
開演まではまだ時間があるようで、ホールにいる者の殆どは私服を着たボランティアたちだった。普段から患者の案内などをしてくれている病院ボランティアと、恐らく時間が空いている看護師たちだろう。殆ど女性で、男性の姿は数えるほどだ。
奉仕活動にはまったくといって興味がない一美は、忙しく立ち働く彼らを横目にそこを抜けようとする。
が。
その中の一人の女性の後姿に、目を疑った。
彼女がこんな時間に病院内にいる筈がないのだが、たとえ後姿だとしても一美が彼女のことを見間違えるわけがない。
彼は真っ直ぐにその背中に歩み寄り、その腕を捕らえる。
「何をしているんだ」
尖った声でそう咎めた一美を、振り返った彼女は――萌は、目を丸くして見上げてくる。
「先生」
「何をしていると訊いているんだ」
「コンサートのボランティアです」
萌がキョトンとして答える。
訊き方が悪かった。
ボランティアをしていることなど、見れば判る。
一美が訊きたかったのは、十二時間の夜勤を終えて家に帰っている筈の萌が、何故、昼間近の病院でボランティアをしているか、ということだった。
「君はいったい、何時間働く気だ。さっさと帰って寝ろ」
「え、大丈夫ですよ」
萌は屈託なくニッコリと笑う。
何と言ったら、一美のこの心中をうまく伝えられるのか。
ほとんど苛立ちに近いものを覚えながら、彼は続ける。
「君は夜勤明けだろう。十二時間働き詰めの者が奉仕活動をする必要はない」
「でも、先生たちだって、当直の時は三十六時間とか、普通に働いてるじゃないですか」
「それは、給料をもらって働く『仕事』だ。ボランティアは無理をしてまでやるもんじゃないだろう」
「無理なんてしてないですもん。若いから、体力あるんです」
まったく。こういう時は、打てば響くように返してくる。
萌の説得を諦めた一美は、彼女の腕を捉えたまま、近くにいたボランティアスタッフに声をかけた。
「ああ、ちょっと」
「はい?」
笑顔を浮かべて振り返ったスタッフに、一美は事情を説明する。
「彼女は夜勤明けなんだ」
「え、ちょっと、先生!」
「明日も日勤が入っているし、ボランティアはキャンセルして帰してやってくれ」
萌の抗議を無視して一美が言うと、ボランティアスタッフは目を丸くして萌に顔を向けた。勤務の後だという事は、やはり告げていなかったようだ。
「え? そうなんですか? そんな無理しなくても良かったのに。人手はありますから、帰っても大丈夫ですよ」
「ありがとう」
「わたし、帰りませんから!」
強引な一美の言動に呆気に取られてそのやり取りを聞いていた萌だったが、彼が彼女の腕を引いて歩き出そうとすると、両脚を踏ん張って抵抗しようとする。
業を煮やした一美は彼女の腰に腕を回すと、ヒョイと持ち上げて歩き出した。
「え、あ、ちょっと、先生! 待ってください」
萌は手足をばたつかせて暴れるが、普段、激しく抵抗する子ども達を抑え込んでいる一美の敵ではない。
何事かとその場の者が振り返る中を構わずスタスタ歩いて、さっさとホールを後にする。
看護師のロッカールームの前まで運んで、そこで下ろしてやった。
自分の足で立った萌は、無言で彼を睨みつけている。
「じゃあ、俺は当直だから。すぐに帰って寝ろよ」
そう言い置いて、一美は返事を聞かずに立ち去ろうとした。が、背中にぶつけられた、いかにも怒っているらしい萌の声に、振り返る。
「わたし、全然やれたんですから!」
どうやらだいぶ怒らせてしまったらしい、とは思ったが、一美も引く気はない。
これが看護師の仕事だったら彼女の望むようにさせてやりたいところだが、ボランティアなら話は別だ。萌は明日も日勤で働くし、今日は帰って休むべきなのだ。
言い慣れた台詞をよどみなくスラスラと口にして、一美は診察を切り上げる。
今日は日曜日だが、当直の一美には長い一日が待っていた。
霞谷病院は二次救急病院なので、基本的には『飛び込み』の患者は対応しないことになっている。「急に熱が出た」などの訴えの患者は、一次救急である急病センターなどに行ってもらうのだ。
だが、定義上はそうなっていても、窓口に来てしまった者を追い返すわけにもいかないのが現実で、結局、休日でも数十人の患者を診る羽目になることが殆どだった。
取り敢えず溜まった患者を一掃すると、一休みできそうな間が空いた。今のところ新しい患者は来ていないようで、お茶の一杯くらいは飲む時間があるだろう。
「じゃあ、俺は行くから」
救急外来の看護師にそう声をかけて、一美は医局に向かう。
普段の賑やかさが嘘のように静まり返っている廊下を歩く彼の脳裏には、先だっての斉藤貢とのことが浮かんでくる。
貢との会談の後、一美は何となくモヤモヤとすっきりしない日々を過ごしていた。
自分こそが、萌のことを最も理解している存在でありたい。
そう願っているにも拘らず、一美の周りの者は皆彼女のことを良く解かっていて、実は一番理解していないのは自分なのではなかろうかという気がしてくるのだ。
だから、モヤモヤする。
これがもしや、『自信が揺らぐ』ということなのだろうか。
今までの人生において、一美は常に自信にあふれていた。
実際、これまでは望んだことはほぼその通りに実現できてきたし、医者になってからは意図して自信を持つように心掛けてきた。医師という仕事は、パフォーマンスの一つとして自信を持って物事に当たるということが必要不可欠でもあったからだ――不安げな医者では、患者に安心感を与えられない。
成功体験に基づいた自信と、仮面として身に着けた自信。
その両者を併せ持った一美は、自他ともに認める自信満々な人間なのだ。
――その筈だったというのに。
萌といると、彼の人生における様々な事柄が覆されていくようだった。
変化を疎んじているわけではないが、何というか、これが『先の見えない不安』というものなのだろうかと思う。
そんなふうにつらつらと色々考えて、一美はふと雰囲気の違いに気が付いた。
救急外来から玄関前のホールを抜けて医局のある棟に行くのだが、休日には静まり返っている筈のホールからざわめきが聞こえてくるのだ。
何事だろうかと一瞬考えて、一美はすぐにピアノコンサートを開催する日だったことを思い出す。
開演まではまだ時間があるようで、ホールにいる者の殆どは私服を着たボランティアたちだった。普段から患者の案内などをしてくれている病院ボランティアと、恐らく時間が空いている看護師たちだろう。殆ど女性で、男性の姿は数えるほどだ。
奉仕活動にはまったくといって興味がない一美は、忙しく立ち働く彼らを横目にそこを抜けようとする。
が。
その中の一人の女性の後姿に、目を疑った。
彼女がこんな時間に病院内にいる筈がないのだが、たとえ後姿だとしても一美が彼女のことを見間違えるわけがない。
彼は真っ直ぐにその背中に歩み寄り、その腕を捕らえる。
「何をしているんだ」
尖った声でそう咎めた一美を、振り返った彼女は――萌は、目を丸くして見上げてくる。
「先生」
「何をしていると訊いているんだ」
「コンサートのボランティアです」
萌がキョトンとして答える。
訊き方が悪かった。
ボランティアをしていることなど、見れば判る。
一美が訊きたかったのは、十二時間の夜勤を終えて家に帰っている筈の萌が、何故、昼間近の病院でボランティアをしているか、ということだった。
「君はいったい、何時間働く気だ。さっさと帰って寝ろ」
「え、大丈夫ですよ」
萌は屈託なくニッコリと笑う。
何と言ったら、一美のこの心中をうまく伝えられるのか。
ほとんど苛立ちに近いものを覚えながら、彼は続ける。
「君は夜勤明けだろう。十二時間働き詰めの者が奉仕活動をする必要はない」
「でも、先生たちだって、当直の時は三十六時間とか、普通に働いてるじゃないですか」
「それは、給料をもらって働く『仕事』だ。ボランティアは無理をしてまでやるもんじゃないだろう」
「無理なんてしてないですもん。若いから、体力あるんです」
まったく。こういう時は、打てば響くように返してくる。
萌の説得を諦めた一美は、彼女の腕を捉えたまま、近くにいたボランティアスタッフに声をかけた。
「ああ、ちょっと」
「はい?」
笑顔を浮かべて振り返ったスタッフに、一美は事情を説明する。
「彼女は夜勤明けなんだ」
「え、ちょっと、先生!」
「明日も日勤が入っているし、ボランティアはキャンセルして帰してやってくれ」
萌の抗議を無視して一美が言うと、ボランティアスタッフは目を丸くして萌に顔を向けた。勤務の後だという事は、やはり告げていなかったようだ。
「え? そうなんですか? そんな無理しなくても良かったのに。人手はありますから、帰っても大丈夫ですよ」
「ありがとう」
「わたし、帰りませんから!」
強引な一美の言動に呆気に取られてそのやり取りを聞いていた萌だったが、彼が彼女の腕を引いて歩き出そうとすると、両脚を踏ん張って抵抗しようとする。
業を煮やした一美は彼女の腰に腕を回すと、ヒョイと持ち上げて歩き出した。
「え、あ、ちょっと、先生! 待ってください」
萌は手足をばたつかせて暴れるが、普段、激しく抵抗する子ども達を抑え込んでいる一美の敵ではない。
何事かとその場の者が振り返る中を構わずスタスタ歩いて、さっさとホールを後にする。
看護師のロッカールームの前まで運んで、そこで下ろしてやった。
自分の足で立った萌は、無言で彼を睨みつけている。
「じゃあ、俺は当直だから。すぐに帰って寝ろよ」
そう言い置いて、一美は返事を聞かずに立ち去ろうとした。が、背中にぶつけられた、いかにも怒っているらしい萌の声に、振り返る。
「わたし、全然やれたんですから!」
どうやらだいぶ怒らせてしまったらしい、とは思ったが、一美も引く気はない。
これが看護師の仕事だったら彼女の望むようにさせてやりたいところだが、ボランティアなら話は別だ。萌は明日も日勤で働くし、今日は帰って休むべきなのだ。
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