天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

5-3

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 斉藤貢との会談に一美が用意したのは、深夜まで開いている喫茶店だった。
 そこは変な拘りがある店で、夜中の二時まで営業しているくせに、出すものはコーヒーだけだ。
 その代わり、そのコーヒーは旨い。
 マスターの趣味でやっているようなところなので、基本的には閑古鳥が鳴いている。
 その時も、店にいるのは一美と貢だけで、マスターはコーヒーを出すとさっさとカウンターの奥に引っ込み、雑誌を開いてそれに没頭し始めた。

「今夜は、お時間を割いていただいて、ありがとうございました」
 そう言って、真向かいに座った貢が丁寧に頭を下げる。
 入院している時にはまったく気にも留めていなかったので、彼の顔は覚えていなかった。こうして見てみると、平凡ではあるが温和そうで、いかにも一美と正反対の印象だ。

「いや。で、御用は?」
 さっさと終わらせて、さっさと別れよう。
 嫌味のない好青年の筈なのだが、何故だか妙に気に障る。何がどうと言えるわけではないのだが、彼を前にしていると胸の奥がジリジリと焼けるような疼きを訴える。

 単刀直入の一美の言葉に貢は少し苦笑して、続けた。
「やっぱり、いい感情は抱けませんよね。じゃあ、僕も簡潔に言います。お話は、もうお判りでしょうけれど、小宮山さんのことです」
「君と何の関係が?」
 ズバリと斬り返した一美に、彼は更に苦笑を深くする。
「関係は、ないですね。僕の一方的な想いだけです」
 そこで彼は、一つ息をついた。

「岩崎先生は、小宮山さんとお付き合いなさってらっしゃるんですよね?」
「ああ」
 これは、即答だ。半分威嚇する勢いで、即座に応じた。
 そんな一美の様子に貢が微かに口元を緩ませ、そのことにまた、一美は苛立ちを覚える。彼の胸中に気付いているのかいないのか、貢が続けた。

「僕は、小宮山さんに幸せになって欲しいと思うんです。それが、僕以外の者の手の中で、でも構わない。彼女が変わらず笑っていられるなら、それでもいいんです」
 確かに、僕がそうできるなら、その方がいいんですけどね、と笑った貢の顔は穏やかで、一美には彼が何故そんな表情でそんなことを言えるのかが、解からなかった。
 他の男の腕の中で幸せそうに笑う萌など一美には想像できないし、したくもない。
 腹の底が焼け付くようにヒリヒリとして、一美は眉間にしわを寄せる。

 不機嫌を隠そうともしない彼に、貢は唐突に問いかけた。

「あなたは彼女を幸せにできますか?」
「する」
「自信がお有りなんですね」
 きっぱりと断言した一美に、貢は若干呆気に取られた顔になる。

 普通の、男だ。目の前のごく平凡な男に、その時一美は、何故か「負けたくない」と思った――財力も、容貌も、負ける要素などどこにもないというのに。

「自信なんぞないが、あいつを幸せにするのは、俺です」
 言外に「誰にも渡すつもりはない」と告げる。その様子に、貢がやっと何かに気付いたような顔になった。
 そして、再び苦笑する。

「ああ、誤解しないでください。別に、宣戦布告に来たわけではないんですから」
 そう言うと、彼の笑みの中の苦みの部分が濃さを増した。
「あなたたち、元の鞘に納まったんでしょう? 勝ち目のない悪足掻きはしませんよ」
「諦めがいいな」
 あれほどしつこく言い寄ってきた割に、あっさりしている。思わず一美が呟くと、貢は肩をすくめて返した。
「まあ、そりゃぁ……あなたとだったらワイン数口で前後不覚になるっていうのに、僕とだったら三杯でもケロリとしているんですから。そんな違いを見せつけられたら、もう諦めるしかないでしょう。……少し、後悔しましたけどね。あの時、彼女が弱っているところにつけ込んでいればって」
 その台詞の聞き捨てならない部分に、一美がピクリと反応する。
「彼女は、君と酒を呑んだのか?」
 一美の方から『別れ』を切り出した後だったのだ。彼に怒る権利はない。権利はないが――声に剣呑な色が滲むのを抑えることはできなかった。
 一美と萌との間に常々交わされている約束事など知らない貢は、軽い口調で返す。

「ああ、食前酒ですよ。彼女は酒だと気付かなかったようで、ワインだと教えたら驚いていました。自分は弱い筈なのにってね。で、それを聞いて、これはこのままでは勝ち目がないなと思ったんですよ。無意識のうちに、僕の前では気を許せないって言われたわけだったし。それに、小宮山さんはあなたのことを吹っ切ろうとしていたようだったけれど、彼女の想いがどこにあるのかなんて、短い間しか一緒にいなくても、嫌でも判ってしまいましたよ。そんなふうに想いを残したままで、そう簡単に忘れられるものではないでしょう? 無理に忘れようとしている姿が痛々しくて、つい、あなたともう一度話してみたらいいと言ってしまって、結果は……こうなりました」
 彼は笑う。
「あなたが本当に彼女のことをこっぴどく振ってくれたら、僕も諦めずにいられたんですけどね」
 コメントのしようがない一美が黙ったままでいると、貢がふと真顔になった。
「彼女は、どことなく危うい感じがします。屈託なくて、すごく明るくて……僕を救ってくれたのに、ふとした時に、真っ暗な中で崖っぷちを歩いているような感じを受ける。僕が支えてあげられたらよかったけれど、彼女が望んだのは、あなただったから」

 彼は立ち上がると、最後に言う。

「こんなの、僕が言う台詞ではないと思いますが、言いたいので言わせてもらいます。彼女を幸せにしてあげてください」
 そうして頭を一つ下げると、一美の返事を待つことなく貢は店を出て行った。

 独り残された一美は、眉間にしわを寄せて彼が座っていた椅子を睨み付け続ける。そこには誰もいないというのに、何かの影が残っているかのようだった。

 この胸の中に渦巻いているものは、いったい何なのだろうか。

 嫉妬……?

 いいや、まさか。
 彼の何に対してそんなものを抱くというのだろう。

 有り得ない。

 そう否定した頭の片隅で、小さな声が囁いた。

 ――だが、彼は、自分の持たない何かを持っている、と。

 その何か故に、一美が散々迷った末に辿り着いた場所に、一足飛びに立つことができているのだ。

「クソッ」

 小さく毒づいて、一美はコーヒーを口に運ぶ。それはすっかり冷めていて、熱くなった彼の頭の中を、ほんの少しだけ冷やしてくれた。
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