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第三章:ほんとうの、はじまり
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一美が優人に調査を依頼してから三日が経ったが、まだ彼からの連絡はない。
「もどかしいな」
電話帳で調べるようなわけにはいかないものなのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、ただ待つしかない一美は、何となく落ち着かない日々を過ごしていた。
あと、何日ほどかかるのだろうか。
三日? 一週間?
焦る必要はないのだが、一日、二日を惜しんでしまう。
そんな気持ちで外来への廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた朗が「よう」と手を上げてきた。
小児科外来と朗が所属する整形外科の外来とは隣り合わせなので、よくすれ違う。
「丁度よかった」
一美の前まで来た朗はそう言いながらポケットを探ると、一枚の紙片を取り出した。それを受け取って開いてみると、目に入ってきたのはメールアドレスだ。
「変更したのか?」
「いいや」
「じゃぁ、誰のだ……女からのは受け取らないぞ」
そう言いながら返そうとする一美に、朗はにんまりと笑う。
まるで、にやにや笑いだけ残して消えていく某猫のようなその顔に、一美はムッと眉間にしわを寄せた。
「誰のだ?」
「斉藤さん」
「……は?」
「斉藤貢さん」
思いも寄らなかった名前を出され、一美は思わずそのメモを握り潰してしまう。忘れもしない、斉藤貢は以前萌に言い寄った男だが、何故その名前が今更出てくるのか。
「彼、萌ちゃんとデートしたんだよねぇ」
「な――」
――んだと、と言おうとした一美の声は、続いた朗の台詞で喉の奥に押し込められた。
「お前が彼女を振った頃に」
ニヤツク朗を、一美は無言で睨み付ける。
断じて、振ってなどいない。
だが、あのことに関しては全面的に一美に非があるのだ。それは、どう言い繕おうとしてもできることではない。
甚だ不本意だがあの時の会話の流れが一美が振った『ことになっていた』以上、萌がどこの男と何をしようが、それを責めることは一美にはできない。
――まったくもって受け入れ難いが。
それに、そもそも萌は『デート』だという頭はなかったのだろう。どういう経緯でそうなったのかは判らないが、彼女が率先して臨んだわけではない筈だ。
振り上げた拳を下ろす先を失って、一美はグッと唇を引き結ぶ。
「彼もさ、傷付いちゃってる萌ちゃんを見て、『これじゃイカン!』とか思ったんじゃないの? 悪い男にだまされているなら、助けてやらなきゃ、とか。で、一度お前と会って話をしてみたいんだってさ。お前の都合のつく日時を教えて欲しいって」
一美には自分の表情を見ることはできないが、渋面というよりも険しい顔付きになっていることは、疑いようがない。そんな彼に苦笑しながら、朗が続ける。
「まあさ、いい機会じゃないの? 真っ当な感覚をした人と、ちょっと対談してきたら? 何かねぇ、彼だったらゴールデンレトリバーを連れて家族そろってお散歩とか、息子を肩車して海沿いを歩くとか、すごく似合いそうな気がするよ」
「どうせ、俺には似合わないさ」
いかにも一美にはそぐわなそうな光景を挙げられ、彼は更にムッとする。そんな一美の肩をポンポンと叩いて、朗は付け加えた。
「そうだよねぇ。ホント、想像もできないや。まあ、とにかく、オレは伝えたからな」
さっくりとそう言って、彼は一美の脇をすり抜けて去って行く。
残された一美は、手の中の紙切れを見つめた。
連絡をする義理はない。そう、まったくないのだ。こんなものは、さっさと捨ててしまえばいい。
――そう思うのに、彼はメモをたたんで、財布にしまい込んだ。
真っ当な感覚。
どんなものが『まとも』なのか。
少なくとも、自分がそれとはかけ離れていることを、今では一美も理解している。だが、多少は変わった筈だ――あんな愚かなことで二度と萌を泣かせずに済むようになった程度には。
そうは言っても、人間、どうしても変えられない部分もある。
多分、斉藤のような男の方が、人――萌を幸せにできるのだろう。
一美の中にもそう思う自分がいるが、だからと言って『斉藤貢』になるわけにはいかないのだ。
それは何かが違う。
萌が想ってくれているのは『この』自分なのだから、今の一美のままで彼女を幸せにしてやるべきなのだ。
他の誰でもなく、この自分が。
「俺自身のやり方で」
そう呟いて、一美は外来に向けてまた歩き出した。
「もどかしいな」
電話帳で調べるようなわけにはいかないものなのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、ただ待つしかない一美は、何となく落ち着かない日々を過ごしていた。
あと、何日ほどかかるのだろうか。
三日? 一週間?
焦る必要はないのだが、一日、二日を惜しんでしまう。
そんな気持ちで外来への廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた朗が「よう」と手を上げてきた。
小児科外来と朗が所属する整形外科の外来とは隣り合わせなので、よくすれ違う。
「丁度よかった」
一美の前まで来た朗はそう言いながらポケットを探ると、一枚の紙片を取り出した。それを受け取って開いてみると、目に入ってきたのはメールアドレスだ。
「変更したのか?」
「いいや」
「じゃぁ、誰のだ……女からのは受け取らないぞ」
そう言いながら返そうとする一美に、朗はにんまりと笑う。
まるで、にやにや笑いだけ残して消えていく某猫のようなその顔に、一美はムッと眉間にしわを寄せた。
「誰のだ?」
「斉藤さん」
「……は?」
「斉藤貢さん」
思いも寄らなかった名前を出され、一美は思わずそのメモを握り潰してしまう。忘れもしない、斉藤貢は以前萌に言い寄った男だが、何故その名前が今更出てくるのか。
「彼、萌ちゃんとデートしたんだよねぇ」
「な――」
――んだと、と言おうとした一美の声は、続いた朗の台詞で喉の奥に押し込められた。
「お前が彼女を振った頃に」
ニヤツク朗を、一美は無言で睨み付ける。
断じて、振ってなどいない。
だが、あのことに関しては全面的に一美に非があるのだ。それは、どう言い繕おうとしてもできることではない。
甚だ不本意だがあの時の会話の流れが一美が振った『ことになっていた』以上、萌がどこの男と何をしようが、それを責めることは一美にはできない。
――まったくもって受け入れ難いが。
それに、そもそも萌は『デート』だという頭はなかったのだろう。どういう経緯でそうなったのかは判らないが、彼女が率先して臨んだわけではない筈だ。
振り上げた拳を下ろす先を失って、一美はグッと唇を引き結ぶ。
「彼もさ、傷付いちゃってる萌ちゃんを見て、『これじゃイカン!』とか思ったんじゃないの? 悪い男にだまされているなら、助けてやらなきゃ、とか。で、一度お前と会って話をしてみたいんだってさ。お前の都合のつく日時を教えて欲しいって」
一美には自分の表情を見ることはできないが、渋面というよりも険しい顔付きになっていることは、疑いようがない。そんな彼に苦笑しながら、朗が続ける。
「まあさ、いい機会じゃないの? 真っ当な感覚をした人と、ちょっと対談してきたら? 何かねぇ、彼だったらゴールデンレトリバーを連れて家族そろってお散歩とか、息子を肩車して海沿いを歩くとか、すごく似合いそうな気がするよ」
「どうせ、俺には似合わないさ」
いかにも一美にはそぐわなそうな光景を挙げられ、彼は更にムッとする。そんな一美の肩をポンポンと叩いて、朗は付け加えた。
「そうだよねぇ。ホント、想像もできないや。まあ、とにかく、オレは伝えたからな」
さっくりとそう言って、彼は一美の脇をすり抜けて去って行く。
残された一美は、手の中の紙切れを見つめた。
連絡をする義理はない。そう、まったくないのだ。こんなものは、さっさと捨ててしまえばいい。
――そう思うのに、彼はメモをたたんで、財布にしまい込んだ。
真っ当な感覚。
どんなものが『まとも』なのか。
少なくとも、自分がそれとはかけ離れていることを、今では一美も理解している。だが、多少は変わった筈だ――あんな愚かなことで二度と萌を泣かせずに済むようになった程度には。
そうは言っても、人間、どうしても変えられない部分もある。
多分、斉藤のような男の方が、人――萌を幸せにできるのだろう。
一美の中にもそう思う自分がいるが、だからと言って『斉藤貢』になるわけにはいかないのだ。
それは何かが違う。
萌が想ってくれているのは『この』自分なのだから、今の一美のままで彼女を幸せにしてやるべきなのだ。
他の誰でもなく、この自分が。
「俺自身のやり方で」
そう呟いて、一美は外来に向けてまた歩き出した。
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