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第三章:ほんとうの、はじまり
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こうやって、萌に黙って動いていることが彼女に知れたら、きっと怒るだろう。
だが、一美は、彼女の里親や実母のことを知りたいと思う。幼い頃の彼女がどんなふうに扱われていたのかを知りたいのだ。
優子の話を聞く限り、萌が里親と接点を持つ必要は一切ないだろう。そうすることに、何のメリットもない。恐らく、むしろ害になる。
対して、実母の方はどうだろうか。
彼女が萌を捨てた時、いったい何を思ったのだろう。そして、今はどう思っているのだろう。
母親に捨てられるということは、子どもにとって耐え難いことに違いない。
一美はこれまで健人の他にも虐待された子どもを診たことがあったが、どの子も皆、母親を庇った。
あの気持ちは彼には理解できないことだが、そうなのだ。どんなに虐げられていても、母親を慕う。母親と子のつながりは、それほど強い。
母から捨てられたという事実は、子の心に欠落を残す。だが、その穴を塞げるほどの愛情をその後に注いでもらえれば、また、結果は違ってくるのだろう。
萌の場合、出生後間も無く引き取られているから、本来ならばある程度成長するまで『捨てられた』ことを知らなくて済んでいた筈だったのだ。
しかし、結局、中途半端な時期に里親からも突き放されてしまった。そして、その後『クスノキの家』に引き取られ、優子達から充分な愛情を注がれても、萌の中の欠落は埋め切れなかった。
それは、その穴がよほど深かったということなのだろう。
だから、一美は萌の過去を知りたいと思う。
その穴の原因となった、過去を。
グッと、スマートフォンを握る一美の手に力が入る。
と、その時。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、二十一時半を少し回ったくらいだ。
きっと、萌だろう。
日勤帰りに一美の家に寄り、そこから車で彼女の家に送るのが、ほぼ日常のことになっている。
たいていは一美も彼女の仕事上がりに合わせて帰るのだが、今日は優人へ電話をする用があったので、先に帰宅していた。
今晩のように別々に帰宅した時、彼女は必ずチャイムを鳴らす。
いつでも好きなように入れるように、一美は合鍵を渡そうとしたのだが、萌は受け取らない。そうやって、彼女は常に二人の間の距離を一美にそこはかとなく示すのだ。
一美はため息をつきつつ玄関に向かう。
扉を開けてやると、彼を見上げて萌がパッと笑顔になった。
その笑みに、一美の胸が詰まる。何度目にしても、いつも同じ想いがこみ上げた。
泣いている彼女でも、笑っている彼女でも、どんな彼女でも、この手で幸せにしてやりたいと、心の底から思う。彼女が安心して「ただいま」と言える場所に、自分がなりたいと思うのだ。
「遅くなりました。待たせちゃいましたね。何か軽く作ります」
笑いながら一美の横をすり抜けてキッチンに向かおうとする萌の腕を捕らえ、引き寄せる。
背中から抱き締めると、華奢な彼女は全てが彼の腕の中に入りきってしまう。
そのことがまた、一美を胸苦しくさせた。
「先生?」
怪訝そうな声で呼びながら、萌は肩越しに彼を振り返る。そんな彼女の髪に頬を埋め、三つ四つ数えるほどの間、そのままでいた。
「どうかしましたか?」
彼女の柔らかさと温もりが自分の中にあることを実感し、そして、腕を開く。
「何でもない」
「そうですか? なんか変ですよ?」
彼に向き直って少し唇を尖らせた萌に、一美は小さく笑う。身を屈めて、その口の端にかすめるようなキスを落とした。それだけで、彼女はすぐに赤くなる。
「美味いものを作ってくれよ?」
クシャリと髪を一撫でして、離れた。
「もう……」
そんなふうにぼやいて、エプロンを身に着けながらキッチンに向かう彼女の背中を見送る。
こうやって逢っている時、彼女の方からプロポーズのことについて口にすることはない。まるで、そんなことはなかったかのように、振る舞う。
彼女に『約束』を与えてやりさえすれば、安心するに違いないと思っていた――『結婚』がその『約束』の証になると。
しかし、実際はその逆で、安心するどころか、むしろ彼から逃げようとしつつあるようにも見えるのだ。捕まえていようとして抱き締めてみても、何かの拍子にするりと零れ落ちてしまいそうな危うさを覚える。
萌をこの手に留めておくには、力任せでは解決しない。
一美は思う。
萌の中のその穴は、今、どれほどの深さを残しているのだろうか、と。
どれほど想いを注いだら、それを満たすことができるのだろう、と。
いや、あるいは。
結局のところ、萌の穴をふさぐのは、彼女自身にしかできないことなのかもしれない。
一美に必要なのは、そんな萌を傍で見つめ、支え、彼女が自分の力で乗り越えていくのを待つ、そんな強さなのかもしれなかった。
だが、一美は、彼女の里親や実母のことを知りたいと思う。幼い頃の彼女がどんなふうに扱われていたのかを知りたいのだ。
優子の話を聞く限り、萌が里親と接点を持つ必要は一切ないだろう。そうすることに、何のメリットもない。恐らく、むしろ害になる。
対して、実母の方はどうだろうか。
彼女が萌を捨てた時、いったい何を思ったのだろう。そして、今はどう思っているのだろう。
母親に捨てられるということは、子どもにとって耐え難いことに違いない。
一美はこれまで健人の他にも虐待された子どもを診たことがあったが、どの子も皆、母親を庇った。
あの気持ちは彼には理解できないことだが、そうなのだ。どんなに虐げられていても、母親を慕う。母親と子のつながりは、それほど強い。
母から捨てられたという事実は、子の心に欠落を残す。だが、その穴を塞げるほどの愛情をその後に注いでもらえれば、また、結果は違ってくるのだろう。
萌の場合、出生後間も無く引き取られているから、本来ならばある程度成長するまで『捨てられた』ことを知らなくて済んでいた筈だったのだ。
しかし、結局、中途半端な時期に里親からも突き放されてしまった。そして、その後『クスノキの家』に引き取られ、優子達から充分な愛情を注がれても、萌の中の欠落は埋め切れなかった。
それは、その穴がよほど深かったということなのだろう。
だから、一美は萌の過去を知りたいと思う。
その穴の原因となった、過去を。
グッと、スマートフォンを握る一美の手に力が入る。
と、その時。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、二十一時半を少し回ったくらいだ。
きっと、萌だろう。
日勤帰りに一美の家に寄り、そこから車で彼女の家に送るのが、ほぼ日常のことになっている。
たいていは一美も彼女の仕事上がりに合わせて帰るのだが、今日は優人へ電話をする用があったので、先に帰宅していた。
今晩のように別々に帰宅した時、彼女は必ずチャイムを鳴らす。
いつでも好きなように入れるように、一美は合鍵を渡そうとしたのだが、萌は受け取らない。そうやって、彼女は常に二人の間の距離を一美にそこはかとなく示すのだ。
一美はため息をつきつつ玄関に向かう。
扉を開けてやると、彼を見上げて萌がパッと笑顔になった。
その笑みに、一美の胸が詰まる。何度目にしても、いつも同じ想いがこみ上げた。
泣いている彼女でも、笑っている彼女でも、どんな彼女でも、この手で幸せにしてやりたいと、心の底から思う。彼女が安心して「ただいま」と言える場所に、自分がなりたいと思うのだ。
「遅くなりました。待たせちゃいましたね。何か軽く作ります」
笑いながら一美の横をすり抜けてキッチンに向かおうとする萌の腕を捕らえ、引き寄せる。
背中から抱き締めると、華奢な彼女は全てが彼の腕の中に入りきってしまう。
そのことがまた、一美を胸苦しくさせた。
「先生?」
怪訝そうな声で呼びながら、萌は肩越しに彼を振り返る。そんな彼女の髪に頬を埋め、三つ四つ数えるほどの間、そのままでいた。
「どうかしましたか?」
彼女の柔らかさと温もりが自分の中にあることを実感し、そして、腕を開く。
「何でもない」
「そうですか? なんか変ですよ?」
彼に向き直って少し唇を尖らせた萌に、一美は小さく笑う。身を屈めて、その口の端にかすめるようなキスを落とした。それだけで、彼女はすぐに赤くなる。
「美味いものを作ってくれよ?」
クシャリと髪を一撫でして、離れた。
「もう……」
そんなふうにぼやいて、エプロンを身に着けながらキッチンに向かう彼女の背中を見送る。
こうやって逢っている時、彼女の方からプロポーズのことについて口にすることはない。まるで、そんなことはなかったかのように、振る舞う。
彼女に『約束』を与えてやりさえすれば、安心するに違いないと思っていた――『結婚』がその『約束』の証になると。
しかし、実際はその逆で、安心するどころか、むしろ彼から逃げようとしつつあるようにも見えるのだ。捕まえていようとして抱き締めてみても、何かの拍子にするりと零れ落ちてしまいそうな危うさを覚える。
萌をこの手に留めておくには、力任せでは解決しない。
一美は思う。
萌の中のその穴は、今、どれほどの深さを残しているのだろうか、と。
どれほど想いを注いだら、それを満たすことができるのだろう、と。
いや、あるいは。
結局のところ、萌の穴をふさぐのは、彼女自身にしかできないことなのかもしれない。
一美に必要なのは、そんな萌を傍で見つめ、支え、彼女が自分の力で乗り越えていくのを待つ、そんな強さなのかもしれなかった。
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