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第三章:ほんとうの、はじまり
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霞谷病院小児科医の業務の一つに、新生児回診がある。産科で産まれた健康な新生児を診察するというものだ。
主には、産まれて一、二日目のうちに行なって生後早期の異常の有無を確認する為のものと、生後五、六日目に行なう退院の可否を決定する為のものとがある。
たまに、心雑音から先天性の心疾患が見つかったりすることもあるが、明らかな異常がある赤ん坊はすぐに産科医から小児科医へコールがかかるので、新生児回診は、基本的には、ただ「元気です」を保証するだけのものとなる。
その新生児回診は毎日行なわれており、毎週火曜日が一美の担当になっていた。
たいていは十人ないし多くて二十人程度。ギャンギャン泣いている子、スヤスヤ寝ている子、起きていてもキョロキョロとどこかを見つめているだけの子、様々だ。
一美は、そんな赤ん坊達の服を脱がし、聴診器を当て、あちこちひっくり返し、また服を着せる。何千回となく繰り返されたその作業は、目を閉じていてもできるほどに手に馴染んでいた。
赤ん坊の一人をいつものように診察し、服を着せる。と、不意に赤ん坊が目を開け、ジッと一美を見つめてきた。
新生児の視力は弱く、まだはっきりとは見えていない筈なのだが、不思議と赤ん坊達は人の目を捉える。
赤ん坊と目が合うことなどしょっちゅうあることで、いつもは何も感じない。
しかし、ふと一美の手が止まった。
――俺と、萌の子ども。
そのことを考えた途端、唐突に、一美は鳩尾の辺りが何かで締め付けられたような、奇妙な胸苦しさを覚える。苦しいが、それは不快なものではなかった。不快ではなく、何かが押し寄せてくるような、そんな感覚だ。
その子どもを抱いた時、自分はどんな気持ちになるのだろうか。
無性に、早く知りたいと思った――その気持ちを。
もっとも、その前に萌にイエスと言わせなければならないのだが。
一美は再び手を動かし、掛け布で赤ん坊をしっかりと包む。ポンポンと腹の辺りを叩いてやると、やがてその子は目を閉じて眠り始めた。
「全員終わったぞ」
「あ、ありがとうございます。お疲れ様です」
赤ん坊達の世話を焼いている看護師に声を掛けると、彼女ははつらつとした声で返してくる。
新生児室を出て医局に向かいながら、一美は先日の萌と両親との顔合わせのことを思い返していた。
相変らず何を考えているのかよく判らない親だったが、少なくとも彼女のことは気に入ったようだ。別れ際に「大事になさいよ」と言った母は他にも何か言いたそうにしていたが、結局そのまま父と連れ立って去っていった。明日は朝一番で米国に飛ぶとか。
いつものことながら、ご苦労なことだ。
一美としては、あれは萌に対するある種の意思表示のつもりだった。
これから彼女との家庭を作っていくことを本気で考えているのだという、意思表示。
だが、振り返ってみると、萌の様子がおかしくなってきたのは、あれ以来な気もする。
不意打ちで会わせることになって、萌には悪いことをしたと多少は思っているが、前もって段取りをつけようとしても何だかんだと言い訳をして先延ばしになるだけだったろう。
彼女は仕事ではあんなにテキパキと思い切りがいいのに、プライベートでは引っ込み思案もいいところだ。
プロポーズの返事は、萌に伝えたとおり、一美はいくらでも待つつもりではある。待ちさえすれば、彼女の気持ちが決まるというのであれば。
だが、どうだろう。
萌自身が家庭を持ちたいと望んでいて、プロポーズをされたのだ。考える必要もなく承諾してしまえばいいと思うのに、彼女は決断を下さない。
もしかして。
ふと思い付いて、一美は足を止める。
もしかして、萌の中では結婚することと家庭を持つことがつながっていないのではないだろうか。
一美にとっては、萌とこの先も共に過ごしていきたいから、その手段として結婚がある。そして、その結果、二人の子どもを持ち、家庭を作っていく。
だが、萌にとってはまず『家庭を持つこと』が第一にある――というより、それしかないのかもしれない。そこに至るまでに『結婚』があることは、考えていなかったのかもしれなかった。
そう考えて、彼は複雑な心境になった。
萌にとって、それはまだまだ『夢』なのだ。
彼女にとって、一美と結婚し、家庭を持つといいうことは、『現実』ではない。
(あるいは、『夢』のままにしておきたい、とか?)
だから、実現しそうになってしまって尻込みをしている。
プロポーズに応えない萌が、彼には結婚を回避する為の理由を見付けようとしている様に思えてならない。
(それは、何故だ?)
萌は確かに一美のことを想っている。
それは間違いない。
一美に対する彼女の気持ちは、ほんのわずかも疑っていない。
萌は、一美と一緒にいたいと思っている筈だ。そんなのは、彼女の言葉一つ、仕草一つで伝わってくる。
(だったら、萌の方が俺の気持ちを信じていないのか?)
その可能性に思い当り、彼はむっと眉根を寄せた。
一美としてはこれ以上ないというほどに自分の気持ちを伝えているつもりだが、それでもまだ彼女は彼を信用しきれていないのだろうか。
つまり、一美が萌と一緒にいたいと思っているかどうか、というところは。
つい、ため息がこぼれた。
まだまだなのだ。
萌が築いた壁を乗り越えるには、まだ、何かが足りない。
まだ、彼女は自分を守る殻を失うことを恐れている。
(いくらでも、俺がその殻になってやるのに)
一美なら、萌を守るだけでなく、愛して、慈しんで、幸せにしてやれるのに。
それをさせてくれない彼女に、歯噛みしたくなる。
「まったく、な」
とことん厄介な相手に惚れたものだとは思うが、諦めるつもりは微塵もない。
萌の気持ちを動かす為に無理強いをするつもりはないが、彼女を手に入れる為にはできる限りの手出しをするつもりだ。
さて、ではいったい何ができるのだろうかと、再び歩き出した一美は考える。
一美が萌を理解し、そして彼女を不安にさせずに一歩を踏み出させる為の何か。恐らく、萌の中にわだかまるものを紐解いていくことが必要なのだろう。
手立ては、いくつか考えてある。そろそろ、それを実行する頃だった。
主には、産まれて一、二日目のうちに行なって生後早期の異常の有無を確認する為のものと、生後五、六日目に行なう退院の可否を決定する為のものとがある。
たまに、心雑音から先天性の心疾患が見つかったりすることもあるが、明らかな異常がある赤ん坊はすぐに産科医から小児科医へコールがかかるので、新生児回診は、基本的には、ただ「元気です」を保証するだけのものとなる。
その新生児回診は毎日行なわれており、毎週火曜日が一美の担当になっていた。
たいていは十人ないし多くて二十人程度。ギャンギャン泣いている子、スヤスヤ寝ている子、起きていてもキョロキョロとどこかを見つめているだけの子、様々だ。
一美は、そんな赤ん坊達の服を脱がし、聴診器を当て、あちこちひっくり返し、また服を着せる。何千回となく繰り返されたその作業は、目を閉じていてもできるほどに手に馴染んでいた。
赤ん坊の一人をいつものように診察し、服を着せる。と、不意に赤ん坊が目を開け、ジッと一美を見つめてきた。
新生児の視力は弱く、まだはっきりとは見えていない筈なのだが、不思議と赤ん坊達は人の目を捉える。
赤ん坊と目が合うことなどしょっちゅうあることで、いつもは何も感じない。
しかし、ふと一美の手が止まった。
――俺と、萌の子ども。
そのことを考えた途端、唐突に、一美は鳩尾の辺りが何かで締め付けられたような、奇妙な胸苦しさを覚える。苦しいが、それは不快なものではなかった。不快ではなく、何かが押し寄せてくるような、そんな感覚だ。
その子どもを抱いた時、自分はどんな気持ちになるのだろうか。
無性に、早く知りたいと思った――その気持ちを。
もっとも、その前に萌にイエスと言わせなければならないのだが。
一美は再び手を動かし、掛け布で赤ん坊をしっかりと包む。ポンポンと腹の辺りを叩いてやると、やがてその子は目を閉じて眠り始めた。
「全員終わったぞ」
「あ、ありがとうございます。お疲れ様です」
赤ん坊達の世話を焼いている看護師に声を掛けると、彼女ははつらつとした声で返してくる。
新生児室を出て医局に向かいながら、一美は先日の萌と両親との顔合わせのことを思い返していた。
相変らず何を考えているのかよく判らない親だったが、少なくとも彼女のことは気に入ったようだ。別れ際に「大事になさいよ」と言った母は他にも何か言いたそうにしていたが、結局そのまま父と連れ立って去っていった。明日は朝一番で米国に飛ぶとか。
いつものことながら、ご苦労なことだ。
一美としては、あれは萌に対するある種の意思表示のつもりだった。
これから彼女との家庭を作っていくことを本気で考えているのだという、意思表示。
だが、振り返ってみると、萌の様子がおかしくなってきたのは、あれ以来な気もする。
不意打ちで会わせることになって、萌には悪いことをしたと多少は思っているが、前もって段取りをつけようとしても何だかんだと言い訳をして先延ばしになるだけだったろう。
彼女は仕事ではあんなにテキパキと思い切りがいいのに、プライベートでは引っ込み思案もいいところだ。
プロポーズの返事は、萌に伝えたとおり、一美はいくらでも待つつもりではある。待ちさえすれば、彼女の気持ちが決まるというのであれば。
だが、どうだろう。
萌自身が家庭を持ちたいと望んでいて、プロポーズをされたのだ。考える必要もなく承諾してしまえばいいと思うのに、彼女は決断を下さない。
もしかして。
ふと思い付いて、一美は足を止める。
もしかして、萌の中では結婚することと家庭を持つことがつながっていないのではないだろうか。
一美にとっては、萌とこの先も共に過ごしていきたいから、その手段として結婚がある。そして、その結果、二人の子どもを持ち、家庭を作っていく。
だが、萌にとってはまず『家庭を持つこと』が第一にある――というより、それしかないのかもしれない。そこに至るまでに『結婚』があることは、考えていなかったのかもしれなかった。
そう考えて、彼は複雑な心境になった。
萌にとって、それはまだまだ『夢』なのだ。
彼女にとって、一美と結婚し、家庭を持つといいうことは、『現実』ではない。
(あるいは、『夢』のままにしておきたい、とか?)
だから、実現しそうになってしまって尻込みをしている。
プロポーズに応えない萌が、彼には結婚を回避する為の理由を見付けようとしている様に思えてならない。
(それは、何故だ?)
萌は確かに一美のことを想っている。
それは間違いない。
一美に対する彼女の気持ちは、ほんのわずかも疑っていない。
萌は、一美と一緒にいたいと思っている筈だ。そんなのは、彼女の言葉一つ、仕草一つで伝わってくる。
(だったら、萌の方が俺の気持ちを信じていないのか?)
その可能性に思い当り、彼はむっと眉根を寄せた。
一美としてはこれ以上ないというほどに自分の気持ちを伝えているつもりだが、それでもまだ彼女は彼を信用しきれていないのだろうか。
つまり、一美が萌と一緒にいたいと思っているかどうか、というところは。
つい、ため息がこぼれた。
まだまだなのだ。
萌が築いた壁を乗り越えるには、まだ、何かが足りない。
まだ、彼女は自分を守る殻を失うことを恐れている。
(いくらでも、俺がその殻になってやるのに)
一美なら、萌を守るだけでなく、愛して、慈しんで、幸せにしてやれるのに。
それをさせてくれない彼女に、歯噛みしたくなる。
「まったく、な」
とことん厄介な相手に惚れたものだとは思うが、諦めるつもりは微塵もない。
萌の気持ちを動かす為に無理強いをするつもりはないが、彼女を手に入れる為にはできる限りの手出しをするつもりだ。
さて、ではいったい何ができるのだろうかと、再び歩き出した一美は考える。
一美が萌を理解し、そして彼女を不安にさせずに一歩を踏み出させる為の何か。恐らく、萌の中にわだかまるものを紐解いていくことが必要なのだろう。
手立ては、いくつか考えてある。そろそろ、それを実行する頃だった。
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