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第三章:ほんとうの、はじまり
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――お父さんと、お母さんと、そして、赤ちゃん。
お母さんは赤ちゃんをしっかりと抱き締めて、その笑顔には愛おしくて愛おしくてたまらない、という気持ちが溢れている。赤ちゃんが手足をバタバタさせると、お父さんも同じような顔で小さなその手を指先で包み込んだ。
ごくごく普通な、幸せそうな風景。
萌は離れた場所から、スポットライトが当たっているかのように明るく輝く彼らを見つめる。距離はないのに、何故か、三人の顔ははっきりしない。楽しそうな表情をしていることは、判るのに。
――いいな……
萌は、心の中で、そんなふうに呟く。と、自分とその親子とのちょうど中間あたりに、一人の女の子が佇んでいることに気が付いた。三歳くらい、だろうか。萌に背を向けて、同じように家族を見つめている。
――お姉ちゃん、かな?
何故、傍に行かないのだろうと萌が首をかしげた時だった。クルリと、その子が彼女に向き直る。
顔は、陰になっていて見えない。
けれど、小さなその子どもに気圧されるように、思わず萌は一歩後ずさった。
「うらやましい?」
不意に、子どもが口を開く。聞き覚えのある、声。でも、いったい、誰の声だろう。
言葉の内容ではなく、その声に意識を取られた――いや、意識を注いだ萌に、子どもは更に続ける。
「うらやましい? あそこにいきたいの?」
無邪気な、問いかけ。その響きに、裏も表もない。
――いいえ、行きたくない。だって……
まるで、心の中のその声が聞こえたかのように、子どもが萌の後を引き取る。
「いけないよね。だって、いれてもらえないもん。ママってよんでも、パパってよんでも、なんにもいってくれないもんね。もえのことなんか、みてくれないもんね」
子どもが一歩を踏み出し、萌が一歩後ずさる。いつしか、『温かな家族』は消えていた。こどもは、舌足らずな声で、続ける。
「でも、どうせ、すぐになくしちゃうんだもん。さいしょから、ないほうがいいよね」
――それは、そうだ。その心地良さを知らなければ、失うのも怖くない。逆に、一度手に入れてしまったら、失った時の喪失感は、とてつもなく大きい。その方が、ずっと怖い。
心の底の奥の奥。そこに、微かに残る、柔らかな温もり。優しい匂い。それを与えてくれた人に追いすがっても振り返ってくれなくなったのは、いったいいつの頃からだったろう?
ぼんやりと、萌は振り返る。けれども、答えは見つからない。見つけられるものではない。
ククッと、子どもの喉から笑いが漏れる。いいや、それは本当に笑いだったろうか。
ちょっと手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに、萌はそうできなかった。その子には、触れたくない、触れられないと、思った。
そんな彼女を、子どもは更に追い詰める。
「ねえ、ずっとかわらない、なんて、ぜったいないよ。どうせ、すぐにみんなどこかにいっちゃうんだから。もえをおいて。もえをほんとうにほしがるひとなんていないんだよ」
小さなその唇が、ニッと横に引かれる。その形は笑みなのに、笑っているようには思えない。
――やめて。
凍りついたような喉から声は出せなくて、萌はただ首を振る。
「もえのことなんて、だれもいらない。ほしがらない」
――それ以上、言わないで。
遥かに年若い子どもに向けて、懇願する。お願いだから、と。
けれど。子どもは言った。はっきりと、とても聞き覚えのある声で。容赦なく。
「だって、『 』だって、萌のことを置いていったんだから」
「!」
ハッと布団を跳ね除けて、萌は跳び起きた。
パジャマは汗で濡れそぼっていて、鼓動は耳鳴りがするほどに激しく打っている。
夢を、観た。
けれど、どんな夢だったのだろう。
とても嫌なものだったのは覚えているけれど、その『嫌な感覚』しか残っていない。
時計を見ると三時を少し回ったくらいだった。
眠気はすっかり失せている。もう一度眠る気にはなれなくて――眠って夢の続きを見るのが怖くて、萌はもそもそと緩慢な動きで布団を出た。身体がだるくて、そのままそこでうずくまってしまいたくなるのを、奮い立たせて。
布団に触れてみると、パジャマどころかシーツまで湿っていて、萌は布団カバーともども引きはがすと、パジャマと一緒に洗濯機に放り込んで、仕事に出るまでに洗い終わるようにタイマーをセットする。そうして、少し考えて、この時期では使うことのない布団乾燥機を引っ張り出した。
壁に寄り掛かって膝を抱え、乾燥機がたてる静かなモーター音に聞き入る。こうやって頭の中を空っぽにしていくと、自分の中の色々なことがリセットできるような気がするのだ。
やがてカチリと音がして、部屋の中にまた完全な静寂が訪れる。カーテンの隙間からはいつしか薄明りが射し込みはじめていて、萌は小さくため息をついた。
――仕事だ。早く、病院に行こう。
そう思うと少し力が湧いてきて、立ち上がり、身支度を始める。
萌は、仕事が好きだった。誰かの世話をして「ありがとう」と言われると、いつも、心地よい――というよりも、安心するという表現の方がしっくりくるものが胸を満たした。大げさかもしれないけれど、働くということは、彼女にとって『食べる糧』以上の、『生きる糧』ともいえる。
食欲はないから、いつものバランス栄養食品をホットミルクで流し込み、洗面所に向かった。顔を洗って鏡を見ると、どこか不安げな眼差しと出会う。そんな顔では、仕事にならない。両頬を手のひらでぴしゃりと叩くと、萌は鏡の中の自分に笑顔を向けた。
そこにいるのは、いつもの、自分だ。
洗濯物を干し、家を出て、地下鉄に乗る。
病院に着いて、更衣室で着替えて、病棟に上がり、朝の申し送りに臨む。
変わらない日常。安心できる、変化のない毎日。
それが、萌にとっては一番寛げる。
申し送りが解散し、コロコロコロとカートを押しながら、萌は病室を回る。検温や点滴のチェックをしながら、何か気になることや困ることがないかを訊いていく。
霞谷病院の小児科は原則的に付き添いをお願いしていて、時に父親、祖父母などがベッドサイドにいることもあるけれど、母親であることが一番多い。
「お熱はないですね。痛いところとか、ない?」
ベッドの上に寝転がった少年にそう問いかけると、彼は首を振った。ひどい腸炎で入院してきた子で、最初の一日は嘔吐と下痢とでヘトヘトになっていたけれど、今は吐くのは止まって下痢だけになっている。
子どもは何も言わなかったけれど、傍に控えていた母親が言い添えた。
「あの、下痢の所為でお尻が荒れちゃってるみたいなんです。痛そうで……」
「判りました。先生に伝えておきますね」
心配そうな彼女にニッコリとそう返して、また次の子へ。
お母さんは赤ちゃんをしっかりと抱き締めて、その笑顔には愛おしくて愛おしくてたまらない、という気持ちが溢れている。赤ちゃんが手足をバタバタさせると、お父さんも同じような顔で小さなその手を指先で包み込んだ。
ごくごく普通な、幸せそうな風景。
萌は離れた場所から、スポットライトが当たっているかのように明るく輝く彼らを見つめる。距離はないのに、何故か、三人の顔ははっきりしない。楽しそうな表情をしていることは、判るのに。
――いいな……
萌は、心の中で、そんなふうに呟く。と、自分とその親子とのちょうど中間あたりに、一人の女の子が佇んでいることに気が付いた。三歳くらい、だろうか。萌に背を向けて、同じように家族を見つめている。
――お姉ちゃん、かな?
何故、傍に行かないのだろうと萌が首をかしげた時だった。クルリと、その子が彼女に向き直る。
顔は、陰になっていて見えない。
けれど、小さなその子どもに気圧されるように、思わず萌は一歩後ずさった。
「うらやましい?」
不意に、子どもが口を開く。聞き覚えのある、声。でも、いったい、誰の声だろう。
言葉の内容ではなく、その声に意識を取られた――いや、意識を注いだ萌に、子どもは更に続ける。
「うらやましい? あそこにいきたいの?」
無邪気な、問いかけ。その響きに、裏も表もない。
――いいえ、行きたくない。だって……
まるで、心の中のその声が聞こえたかのように、子どもが萌の後を引き取る。
「いけないよね。だって、いれてもらえないもん。ママってよんでも、パパってよんでも、なんにもいってくれないもんね。もえのことなんか、みてくれないもんね」
子どもが一歩を踏み出し、萌が一歩後ずさる。いつしか、『温かな家族』は消えていた。こどもは、舌足らずな声で、続ける。
「でも、どうせ、すぐになくしちゃうんだもん。さいしょから、ないほうがいいよね」
――それは、そうだ。その心地良さを知らなければ、失うのも怖くない。逆に、一度手に入れてしまったら、失った時の喪失感は、とてつもなく大きい。その方が、ずっと怖い。
心の底の奥の奥。そこに、微かに残る、柔らかな温もり。優しい匂い。それを与えてくれた人に追いすがっても振り返ってくれなくなったのは、いったいいつの頃からだったろう?
ぼんやりと、萌は振り返る。けれども、答えは見つからない。見つけられるものではない。
ククッと、子どもの喉から笑いが漏れる。いいや、それは本当に笑いだったろうか。
ちょっと手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに、萌はそうできなかった。その子には、触れたくない、触れられないと、思った。
そんな彼女を、子どもは更に追い詰める。
「ねえ、ずっとかわらない、なんて、ぜったいないよ。どうせ、すぐにみんなどこかにいっちゃうんだから。もえをおいて。もえをほんとうにほしがるひとなんていないんだよ」
小さなその唇が、ニッと横に引かれる。その形は笑みなのに、笑っているようには思えない。
――やめて。
凍りついたような喉から声は出せなくて、萌はただ首を振る。
「もえのことなんて、だれもいらない。ほしがらない」
――それ以上、言わないで。
遥かに年若い子どもに向けて、懇願する。お願いだから、と。
けれど。子どもは言った。はっきりと、とても聞き覚えのある声で。容赦なく。
「だって、『 』だって、萌のことを置いていったんだから」
「!」
ハッと布団を跳ね除けて、萌は跳び起きた。
パジャマは汗で濡れそぼっていて、鼓動は耳鳴りがするほどに激しく打っている。
夢を、観た。
けれど、どんな夢だったのだろう。
とても嫌なものだったのは覚えているけれど、その『嫌な感覚』しか残っていない。
時計を見ると三時を少し回ったくらいだった。
眠気はすっかり失せている。もう一度眠る気にはなれなくて――眠って夢の続きを見るのが怖くて、萌はもそもそと緩慢な動きで布団を出た。身体がだるくて、そのままそこでうずくまってしまいたくなるのを、奮い立たせて。
布団に触れてみると、パジャマどころかシーツまで湿っていて、萌は布団カバーともども引きはがすと、パジャマと一緒に洗濯機に放り込んで、仕事に出るまでに洗い終わるようにタイマーをセットする。そうして、少し考えて、この時期では使うことのない布団乾燥機を引っ張り出した。
壁に寄り掛かって膝を抱え、乾燥機がたてる静かなモーター音に聞き入る。こうやって頭の中を空っぽにしていくと、自分の中の色々なことがリセットできるような気がするのだ。
やがてカチリと音がして、部屋の中にまた完全な静寂が訪れる。カーテンの隙間からはいつしか薄明りが射し込みはじめていて、萌は小さくため息をついた。
――仕事だ。早く、病院に行こう。
そう思うと少し力が湧いてきて、立ち上がり、身支度を始める。
萌は、仕事が好きだった。誰かの世話をして「ありがとう」と言われると、いつも、心地よい――というよりも、安心するという表現の方がしっくりくるものが胸を満たした。大げさかもしれないけれど、働くということは、彼女にとって『食べる糧』以上の、『生きる糧』ともいえる。
食欲はないから、いつものバランス栄養食品をホットミルクで流し込み、洗面所に向かった。顔を洗って鏡を見ると、どこか不安げな眼差しと出会う。そんな顔では、仕事にならない。両頬を手のひらでぴしゃりと叩くと、萌は鏡の中の自分に笑顔を向けた。
そこにいるのは、いつもの、自分だ。
洗濯物を干し、家を出て、地下鉄に乗る。
病院に着いて、更衣室で着替えて、病棟に上がり、朝の申し送りに臨む。
変わらない日常。安心できる、変化のない毎日。
それが、萌にとっては一番寛げる。
申し送りが解散し、コロコロコロとカートを押しながら、萌は病室を回る。検温や点滴のチェックをしながら、何か気になることや困ることがないかを訊いていく。
霞谷病院の小児科は原則的に付き添いをお願いしていて、時に父親、祖父母などがベッドサイドにいることもあるけれど、母親であることが一番多い。
「お熱はないですね。痛いところとか、ない?」
ベッドの上に寝転がった少年にそう問いかけると、彼は首を振った。ひどい腸炎で入院してきた子で、最初の一日は嘔吐と下痢とでヘトヘトになっていたけれど、今は吐くのは止まって下痢だけになっている。
子どもは何も言わなかったけれど、傍に控えていた母親が言い添えた。
「あの、下痢の所為でお尻が荒れちゃってるみたいなんです。痛そうで……」
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