天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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 何となく、もえの様子がおかしい。

 採血予定の子を処置室の中で待ちながら、一美かずよしはぼんやりとそう考えた。

 何がどう、とは、一美もはっきりとは言えない。
 ただ、最近の彼女と一緒にいると、歯車が一つずつずれていっているような、そこはかとない違和感を覚えるのだ。

 変わらず仕事はこなしているし、普通に笑う。だが、時折ふと、視線が落ちる。
 何が彼女の中で引っかかっているのだろう――それは、プロポーズの返事がもらえないことと、関係があるのだろうか。

 恐らく、そうに違いない。

 一美が小さくため息を落としたちょうどその時、子どもの手を引いた武藤師長が入ってくる。患児は五歳の男の子で、このくらいの年齢になると、しっかりと言い聞かせてやればたいていのことは理解して聞き入れてくれる。その子も顔は強張っているものの、泣き叫んだり暴れたりすることなく、おとなしく処置台の上に寝転んでジッと腕を差し出した。

「強いな。ジッとしていたら、一回で終わるからな。泣いてもいいから動かんでくれよ?」
 目を覗き込んでそう言い聞かせると、子どもは小さく頷いた。
「よし、頑張れ」
 そう励ましておいて、手早く処置を進め、淀みのない手付きで患児の採血をする。針が刺さる瞬間に微かに腕がピクついたが、そんなのは何の障害にもならない。
「もう終わるぞ」
 一美のその声に、武藤師長は絶妙なタイミングで絆創膏をあてがい、手際よく彼から受け取った血液の処理をしていく。そうして、さっさと片付けて、処置台から降りた子どもの手を取った。

 今、この処置室の中には、一美と武藤師長と、患児の三人のみだった。
「なあ、師長」
 一美は、部屋を出て行きかけた武藤師長に、何気ない口調でそう声をかける。いかにも、何でもない世間話、という雰囲気で。
「はい?」
「最近、小宮山さんはどう?」
「どうって? まあ、仕事はちゃんとやってますよ」

 それだけで終わる。

 もう少し何かあるだろう、と思いつつも、一美はそれ以上突っ込めなかった。武藤師長は黙り込んだ彼を放ってそのまま処置室を出て行きかけて、入り口のところで肩越しに一美を振り返ると、ニッと笑う。
「師長のあたしとしては、別に、あの子がちゃんと仕事をしてくれさえすれば、いいんですからね。それ以外のことは、先生の担当ですから」
 それだけ言い置いて、彼女は子どもを連れて出て行った。
 残された一美は、手を洗いながら渋面になる。武藤師長は何かに気付いている筈だが、傍観するつもりらしい。

 人が動こうとしないのは、何かを恐れているからだ。
 では、萌が恐れているものの根源は、いったい何なのだろう。
 それが単なるマリッジブルーではないことは、確かだ。

(そもそも、まだ頷いてもらっていないしな)
 一美は声には出さずにうなる。
 萌の気持ちが自分にあることは彼も確信しているが、プロポーズに対して良い返事がもらえることを確信しているかと言えば――どうだろう。

 こんなにも自信が揺らぐのは、彼にとって初めての経験だった。
 その心の内を曝け出して頼ってきて欲しいと一美は思っているのに、萌はなかなかそうしようとはしない。確かに、彼に対してだけは、他の者には見せないような、拗ねた顔や怒った顔も見せてくれる。だが、まだ足りない。もっと、彼女を近くに引き寄せたいのだ。

 弱くて、強くて、そして弱い、萌。

 彼女の中には、何かが深く根を下ろしている。それは判り始めているが、では、いったいどこまで掘り下げればその先端が見えてくるのかは、予想もつかない。
 果たして、掘り出すことが正しいことなのかどうかも。
 萌の心の中に潜むものを取り出して、彼女の目の前に突き出すことが必要なのか、それとも、埋め立てて覆い隠してしまうことの方がいいのだろうか。

 こういう分野は、苦手だ。

 だが避けては通れない。

 一美は、また、小さくため息をついた。
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