58 / 92
第三章:ほんとうの、はじまり
2-1
しおりを挟む
何となく、萌の様子がおかしい。
採血予定の子を処置室の中で待ちながら、一美はぼんやりとそう考えた。
何がどう、とは、一美もはっきりとは言えない。
ただ、最近の彼女と一緒にいると、歯車が一つずつずれていっているような、そこはかとない違和感を覚えるのだ。
変わらず仕事はこなしているし、普通に笑う。だが、時折ふと、視線が落ちる。
何が彼女の中で引っかかっているのだろう――それは、プロポーズの返事がもらえないことと、関係があるのだろうか。
恐らく、そうに違いない。
一美が小さくため息を落としたちょうどその時、子どもの手を引いた武藤師長が入ってくる。患児は五歳の男の子で、このくらいの年齢になると、しっかりと言い聞かせてやればたいていのことは理解して聞き入れてくれる。その子も顔は強張っているものの、泣き叫んだり暴れたりすることなく、おとなしく処置台の上に寝転んでジッと腕を差し出した。
「強いな。ジッとしていたら、一回で終わるからな。泣いてもいいから動かんでくれよ?」
目を覗き込んでそう言い聞かせると、子どもは小さく頷いた。
「よし、頑張れ」
そう励ましておいて、手早く処置を進め、淀みのない手付きで患児の採血をする。針が刺さる瞬間に微かに腕がピクついたが、そんなのは何の障害にもならない。
「もう終わるぞ」
一美のその声に、武藤師長は絶妙なタイミングで絆創膏をあてがい、手際よく彼から受け取った血液の処理をしていく。そうして、さっさと片付けて、処置台から降りた子どもの手を取った。
今、この処置室の中には、一美と武藤師長と、患児の三人のみだった。
「なあ、師長」
一美は、部屋を出て行きかけた武藤師長に、何気ない口調でそう声をかける。いかにも、何でもない世間話、という雰囲気で。
「はい?」
「最近、小宮山さんはどう?」
「どうって? まあ、仕事はちゃんとやってますよ」
それだけで終わる。
もう少し何かあるだろう、と思いつつも、一美はそれ以上突っ込めなかった。武藤師長は黙り込んだ彼を放ってそのまま処置室を出て行きかけて、入り口のところで肩越しに一美を振り返ると、ニッと笑う。
「師長のあたしとしては、別に、あの子がちゃんと仕事をしてくれさえすれば、いいんですからね。それ以外のことは、先生の担当ですから」
それだけ言い置いて、彼女は子どもを連れて出て行った。
残された一美は、手を洗いながら渋面になる。武藤師長は何かに気付いている筈だが、傍観するつもりらしい。
人が動こうとしないのは、何かを恐れているからだ。
では、萌が恐れているものの根源は、いったい何なのだろう。
それが単なるマリッジブルーではないことは、確かだ。
(そもそも、まだ頷いてもらっていないしな)
一美は声には出さずにうなる。
萌の気持ちが自分にあることは彼も確信しているが、プロポーズに対して良い返事がもらえることを確信しているかと言えば――どうだろう。
こんなにも自信が揺らぐのは、彼にとって初めての経験だった。
その心の内を曝け出して頼ってきて欲しいと一美は思っているのに、萌はなかなかそうしようとはしない。確かに、彼に対してだけは、他の者には見せないような、拗ねた顔や怒った顔も見せてくれる。だが、まだ足りない。もっと、彼女を近くに引き寄せたいのだ。
弱くて、強くて、そして弱い、萌。
彼女の中には、何かが深く根を下ろしている。それは判り始めているが、では、いったいどこまで掘り下げればその先端が見えてくるのかは、予想もつかない。
果たして、掘り出すことが正しいことなのかどうかも。
萌の心の中に潜むものを取り出して、彼女の目の前に突き出すことが必要なのか、それとも、埋め立てて覆い隠してしまうことの方がいいのだろうか。
こういう分野は、苦手だ。
だが避けては通れない。
一美は、また、小さくため息をついた。
採血予定の子を処置室の中で待ちながら、一美はぼんやりとそう考えた。
何がどう、とは、一美もはっきりとは言えない。
ただ、最近の彼女と一緒にいると、歯車が一つずつずれていっているような、そこはかとない違和感を覚えるのだ。
変わらず仕事はこなしているし、普通に笑う。だが、時折ふと、視線が落ちる。
何が彼女の中で引っかかっているのだろう――それは、プロポーズの返事がもらえないことと、関係があるのだろうか。
恐らく、そうに違いない。
一美が小さくため息を落としたちょうどその時、子どもの手を引いた武藤師長が入ってくる。患児は五歳の男の子で、このくらいの年齢になると、しっかりと言い聞かせてやればたいていのことは理解して聞き入れてくれる。その子も顔は強張っているものの、泣き叫んだり暴れたりすることなく、おとなしく処置台の上に寝転んでジッと腕を差し出した。
「強いな。ジッとしていたら、一回で終わるからな。泣いてもいいから動かんでくれよ?」
目を覗き込んでそう言い聞かせると、子どもは小さく頷いた。
「よし、頑張れ」
そう励ましておいて、手早く処置を進め、淀みのない手付きで患児の採血をする。針が刺さる瞬間に微かに腕がピクついたが、そんなのは何の障害にもならない。
「もう終わるぞ」
一美のその声に、武藤師長は絶妙なタイミングで絆創膏をあてがい、手際よく彼から受け取った血液の処理をしていく。そうして、さっさと片付けて、処置台から降りた子どもの手を取った。
今、この処置室の中には、一美と武藤師長と、患児の三人のみだった。
「なあ、師長」
一美は、部屋を出て行きかけた武藤師長に、何気ない口調でそう声をかける。いかにも、何でもない世間話、という雰囲気で。
「はい?」
「最近、小宮山さんはどう?」
「どうって? まあ、仕事はちゃんとやってますよ」
それだけで終わる。
もう少し何かあるだろう、と思いつつも、一美はそれ以上突っ込めなかった。武藤師長は黙り込んだ彼を放ってそのまま処置室を出て行きかけて、入り口のところで肩越しに一美を振り返ると、ニッと笑う。
「師長のあたしとしては、別に、あの子がちゃんと仕事をしてくれさえすれば、いいんですからね。それ以外のことは、先生の担当ですから」
それだけ言い置いて、彼女は子どもを連れて出て行った。
残された一美は、手を洗いながら渋面になる。武藤師長は何かに気付いている筈だが、傍観するつもりらしい。
人が動こうとしないのは、何かを恐れているからだ。
では、萌が恐れているものの根源は、いったい何なのだろう。
それが単なるマリッジブルーではないことは、確かだ。
(そもそも、まだ頷いてもらっていないしな)
一美は声には出さずにうなる。
萌の気持ちが自分にあることは彼も確信しているが、プロポーズに対して良い返事がもらえることを確信しているかと言えば――どうだろう。
こんなにも自信が揺らぐのは、彼にとって初めての経験だった。
その心の内を曝け出して頼ってきて欲しいと一美は思っているのに、萌はなかなかそうしようとはしない。確かに、彼に対してだけは、他の者には見せないような、拗ねた顔や怒った顔も見せてくれる。だが、まだ足りない。もっと、彼女を近くに引き寄せたいのだ。
弱くて、強くて、そして弱い、萌。
彼女の中には、何かが深く根を下ろしている。それは判り始めているが、では、いったいどこまで掘り下げればその先端が見えてくるのかは、予想もつかない。
果たして、掘り出すことが正しいことなのかどうかも。
萌の心の中に潜むものを取り出して、彼女の目の前に突き出すことが必要なのか、それとも、埋め立てて覆い隠してしまうことの方がいいのだろうか。
こういう分野は、苦手だ。
だが避けては通れない。
一美は、また、小さくため息をついた。
0
お気に入りに追加
215
あなたにおすすめの小説
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。


出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です
流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。
父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。
無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。
純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

元平民の義妹は私の婚約者を狙っている
カレイ
恋愛
伯爵令嬢エミーヌは父親の再婚によって義母とその娘、つまり義妹であるヴィヴィと暮らすこととなった。
最初のうちは仲良く暮らしていたはずなのに、気づけばエミーヌの居場所はなくなっていた。その理由は単純。
「エミーヌお嬢様は平民がお嫌い」だから。
そんな噂が広まったのは、おそらく義母が陰で「あの子が私を母親だと認めてくれないの!やっぱり平民の私じゃ……」とか、義妹が「時々エミーヌに睨まれてる気がするの。私は仲良くしたいのに……」とか言っているからだろう。
そして学園に入学すると義妹はエミーヌの婚約者ロバートへと近づいていくのだった……。

騎士の妻ではいられない
Rj
恋愛
騎士の娘として育ったリンダは騎士とは結婚しないと決めていた。しかし幼馴染みで騎士のイーサンと結婚したリンダ。結婚した日に新郎は非常召集され、新婦のリンダは結婚を祝う宴に一人残された。二年目の結婚記念日に戻らない夫を待つリンダはもう騎士の妻ではいられないと心を決める。
全23話。
2024/1/29 全体的な加筆修正をしました。話の内容に変わりはありません。
イーサンが主人公の続編『騎士の妻でいてほしい 』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/96163257/36727666)があります。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる