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第三章:ほんとうの、はじまり
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「ああ、そうだ。店にはうちの親も来てるから」
駅前の通りを歩いていると、ふと思い出したというように、一美がそんなことを言い出した。
思わず足が止まった萌を、一美は「どうした?」と問いかけるような眼差しで振り返る。
彼が本当に判らないのか、それともとぼけているだけなのかを見抜くことは、萌には難しい。思わずマジマジと見つめて、間が抜けた声で返してしまう。
「……はい?」
今晩は、仕事の帰りにちょっと何かを食べるだけだった筈。そんな席に、『うちの親』なんて、いるわけがない。
萌はきっと聞き間違えたのだ、と自分の耳を疑いつつ――それを願いつつ、彼を見上げる。けれども一美は、まるでなんでもないことのように、続けた。
「父と母が、たまたま同時に身体が空いたんだ。一時間くらいだけらしいけどな。店で落ち合うことになっているから」
彼の声が呆然としている萌の右の耳から左の耳へと通り抜けていく。
――この自分が、一美のご両親に会う?
なぜ、一美は、こんなに普通の顔でそんなにとんでもないことを言えるのだろう。
我に返った萌は、きっぱりと断言した。
「無理です!」
「何故」
いかにも心外、というふうに訊き返してきた一美に、萌は必死で理由を考える。いや、考えるまでもなくたくさんある筈なのだけれど、どれを挙げたらいいのか判らない。
萌はうつむいて、もごもごと口ごもる。
「そんなの……だって……」
「別に、深く考えなくてもいいだろう? 俺たちは付き合って半年以上になるんだぞ? しかも、俺は君にプロポーズまでしている」
「それは――」
「ああ、その返事は焦らなくていいから。君が好きなだけ悩んでくれ。取り敢えず、今は時間がないから行くぞ」
澄ました顔でそう言うと、一美は彼女の手を引いてまた歩き出そうとする。
なんだか自信満々なその様子に、『あの言葉』を言われて以来、ずっとグズグズと考え続けている萌は、ちょっとムッとする。
(わたしばかりがおたおたしているなんて、ズルイ)
胸の中に湧き上がってくる反抗心のままに、萌は彼の背中にムスッと言葉を投げつけた。
「十年くらいかかったら、どうするんです?」
「は? ああ。それでも、まだ君は三十二だろ? 今時、三十代前半で初産なんて珍しくない。まあ、色々大変だから三十五は越して欲しくないけどな」
さっくりと返されて、萌はいっそうムキになる。
「じゃあ、その挙句、先生のことを振っちゃったら?」
萌にしたら爆弾発言だった筈なのに、一美はチラリと彼女を見下ろして、薄く笑った。
「できるなら、な」
そんなことには絶対にならないと確信しているようなその態度に、萌はムウッと唇を結ぶ。そんな彼女を見て、一美は堪えきれなくなったように小さな笑い声を漏らした。
自分が振られるなんて、少しも考えていないのだろうか。
萌は足を踏ん張ってその場に留まると、更に言い募る。
「ホントに、いいんですか?」
精一杯の力を込めて睨み付けた萌を、一美はジッと見つめてきた。そして、不意に彼女の手を持ち上げたかと思うと、抗う隙を与えずその指先にくちづける。
「!」
中指の辺りに柔らかな温もりを感じ、声をあげるより先に萌の頬は火を噴いたように熱くなる。
咄嗟に振り払おうとした手を、彼はぎゅっと握り締めた。そして、ニッと笑う。
その不敵な笑みに、萌は何だか頭の天辺からバリバリとかじられて、自分が無くなってしまうような気がした。何か言おうとしても、言葉が出てこない。
一美はふっと笑みを消したかと思うと、黙ったままの萌の目を見つめて同じ言葉を繰り返した。
「できるなら」
そして、手を繋いだまま歩き出す。
萌が彼に勝てるわけがない。
子どものように手を引かれ、彼女は一美の両親が待つ先へと向かうしか為す術はなかった。
駅前の通りを歩いていると、ふと思い出したというように、一美がそんなことを言い出した。
思わず足が止まった萌を、一美は「どうした?」と問いかけるような眼差しで振り返る。
彼が本当に判らないのか、それともとぼけているだけなのかを見抜くことは、萌には難しい。思わずマジマジと見つめて、間が抜けた声で返してしまう。
「……はい?」
今晩は、仕事の帰りにちょっと何かを食べるだけだった筈。そんな席に、『うちの親』なんて、いるわけがない。
萌はきっと聞き間違えたのだ、と自分の耳を疑いつつ――それを願いつつ、彼を見上げる。けれども一美は、まるでなんでもないことのように、続けた。
「父と母が、たまたま同時に身体が空いたんだ。一時間くらいだけらしいけどな。店で落ち合うことになっているから」
彼の声が呆然としている萌の右の耳から左の耳へと通り抜けていく。
――この自分が、一美のご両親に会う?
なぜ、一美は、こんなに普通の顔でそんなにとんでもないことを言えるのだろう。
我に返った萌は、きっぱりと断言した。
「無理です!」
「何故」
いかにも心外、というふうに訊き返してきた一美に、萌は必死で理由を考える。いや、考えるまでもなくたくさんある筈なのだけれど、どれを挙げたらいいのか判らない。
萌はうつむいて、もごもごと口ごもる。
「そんなの……だって……」
「別に、深く考えなくてもいいだろう? 俺たちは付き合って半年以上になるんだぞ? しかも、俺は君にプロポーズまでしている」
「それは――」
「ああ、その返事は焦らなくていいから。君が好きなだけ悩んでくれ。取り敢えず、今は時間がないから行くぞ」
澄ました顔でそう言うと、一美は彼女の手を引いてまた歩き出そうとする。
なんだか自信満々なその様子に、『あの言葉』を言われて以来、ずっとグズグズと考え続けている萌は、ちょっとムッとする。
(わたしばかりがおたおたしているなんて、ズルイ)
胸の中に湧き上がってくる反抗心のままに、萌は彼の背中にムスッと言葉を投げつけた。
「十年くらいかかったら、どうするんです?」
「は? ああ。それでも、まだ君は三十二だろ? 今時、三十代前半で初産なんて珍しくない。まあ、色々大変だから三十五は越して欲しくないけどな」
さっくりと返されて、萌はいっそうムキになる。
「じゃあ、その挙句、先生のことを振っちゃったら?」
萌にしたら爆弾発言だった筈なのに、一美はチラリと彼女を見下ろして、薄く笑った。
「できるなら、な」
そんなことには絶対にならないと確信しているようなその態度に、萌はムウッと唇を結ぶ。そんな彼女を見て、一美は堪えきれなくなったように小さな笑い声を漏らした。
自分が振られるなんて、少しも考えていないのだろうか。
萌は足を踏ん張ってその場に留まると、更に言い募る。
「ホントに、いいんですか?」
精一杯の力を込めて睨み付けた萌を、一美はジッと見つめてきた。そして、不意に彼女の手を持ち上げたかと思うと、抗う隙を与えずその指先にくちづける。
「!」
中指の辺りに柔らかな温もりを感じ、声をあげるより先に萌の頬は火を噴いたように熱くなる。
咄嗟に振り払おうとした手を、彼はぎゅっと握り締めた。そして、ニッと笑う。
その不敵な笑みに、萌は何だか頭の天辺からバリバリとかじられて、自分が無くなってしまうような気がした。何か言おうとしても、言葉が出てこない。
一美はふっと笑みを消したかと思うと、黙ったままの萌の目を見つめて同じ言葉を繰り返した。
「できるなら」
そして、手を繋いだまま歩き出す。
萌が彼に勝てるわけがない。
子どものように手を引かれ、彼女は一美の両親が待つ先へと向かうしか為す術はなかった。
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