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第二章:すれちがい
14-1
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十八時に仕事を終えて、車を走らせること約二時間。
今、一美は萌がいるという養護施設『クスノキの家』の前に立っていた。
遅い時間になるのは判っていたから、今日訪問する旨は事前に連絡を入れてある。ただし、結局萌の携帯電話はつながらないままだった為、話をしたのはこの施設の理事長である関根優子という人物とだけだ。
武藤師長の親友でもあるというこの女性は、一美の言葉を聞くと「お待ちしています」とだけ答え、電話を切ってしまった。一美が行くことを彼女が萌に伝えてくれたかどうかは、不明だ。
一美が会いに行くことを聞かされたとしたら、その時、萌はいったいどんな反応を示したのだろう。
喜んだのだろうか。
それとも、彼が着く前に逃げようと思ったのだろうか。
逆に、知らされていないとしたら、突然に訪れた一美を見て、どんな顔をするだろう。
一美には、自分が彼女を傷付けたという自覚がある――それはもう、イヤというほどに。
ほんの一欠けらの気持ちも入っていなかったとはいえ、萌を拒絶する言葉をぶつけてしまったのだ。
(さっさと帰れと言われるかもしれないな)
だが、何を言われようがどんなことになろうが、彼に引くつもりはない。
説得にどれだけ時間がかかろうとも、萌を連れて帰るのだ。
一美は覚悟を決めて『クスノキの家』の事務所の玄関をくぐる。入ってすぐのカウンターには、この時間にも拘らず女性が一人座っていた。
彼女は一美を見るとニッコリと微笑む。
「すみません、岩崎一美と申しますが……こちらの関根さんとお会いする約束をしている者です」
「ああ、お話は伺っておりますので、理事長室へご案内します。どうぞ」
そう言って歩き出した彼女の後を、一美は追う。
事務所の中はひっそりとして暗く、人気もなかった。おそらく、彼の為に開けていてくれたのだろう。
「こちらですよ」
女性は立ち止まると、一枚の扉を手で示す。
「ありがとう」
会釈をした一美に、彼女は訳知り顔で微笑んだ。
「頑張ってね」
何を、と問う間を一美に与えず、彼女は来た廊下をさっさと戻って行ってしまった。
いったい、どんな人物が待ち構えているというのか――武藤師長の親友だというくらいだから、かなりの曲者なのかもしれない。
一美は手を上げて、扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
まるで校長室に入る中学生のようだと思いながらも、一美はドアを開けた。
「いらっしゃい」
迎えたのは、柔和な声だ。ソファから立ち上がった女性は、ふっくらとして、いかにも優しいお母さん然としている。
予想とは違った彼女の雰囲気に、一美は拍子抜けするのを禁じ得なかった。
「どうかなさいまして? こちらへお座りくださいな」
外見通りの優しそうな声で、彼女は自分の向かいのソファを示した。一美は足を進めると、会釈を一つしてそこに腰を下ろす。
「私はここの理事長をしております、関根優子と申します」
「岩崎一美です。小宮山さんとは同じ職場で働いています」
「存じておりますわ。美恵さんから、お噂も色々と」
予想通りに武藤師長の名前が出てきて、一美は内心で苦虫を噛み潰す。いったい、どんな『噂』をされたことやら。
口調や物腰はソフトだが、彼に注がれる優子の目付きから、推して知るべし、だ。
一美は小さく咳払いをして、言う。
「職場の同僚、ということもありますが、個人的なお付き合いもさせていただいています」
その台詞に、優子の目がきらりと光った。
「現在形、ですの?」
「はい?」
「今も、お付き合いを続けていらっしゃるおつもりですか?」
「私は、そのつもりです」
きっぱりと、一美は断言する。だが、それで「はい、そうですか、では連れてきます」とは当然ならず、優子は穏やかな――だがそこの知れない微笑みを浮かべて小さく首をかしげた。
「そうですか。それなら、何故、あの子は突然ここに帰ってきたりしたのでしょう? あの子はこの『クスノキの家』を卒業した身。少し顔を見せに来たというだけならわかります。でも、他の子ならともかく、あの子が自分からしばらく居させて欲しいというなんて、余程のことがあったとしか思えません。そんな時に離れてしまうだなんて、本当にお付き合いなさってらっしゃると声を大にすることができまして?」
口調は穏やかだ。だが、一美には「どの面下げてそんなことを言っているのか」と糾弾されているように思われてならない。
「それに関しては、少し齟齬が――いえ、私が言葉を誤りました。おそらく、彼女がこちらに帰ってきた原因も、それです」
突き刺さる優子の視線を、一美は真っ向から受け止める。
「私は、小宮山さん――萌を、傷付けました。そして、彼女は去って行った。でも、私は終わりにしたくないんです。もう一度、挽回するチャンスが欲しい」
「あなたはご自分にそれを与えられるだけの価値があると思われますの?」
「判りません。ただ、その価値があるかどうかは、萌に決めて欲しい」
それを最後に、一美は口を閉ざす。
静寂の中、優子と一美の眼差しが絡み合った。どちらも、ほんの僅かばかりも逸らすことなく、瞬きをすることもない。
自分自身の言うべきことは言い終えた一美は、優子が口を開くのをジッと待つ。
乾いた目がひりついてきた頃、ふと優子が目蓋を下ろし、小さくため息をついた。
そうして、彼女は背筋を伸ばし、再び一美の目を見据えると、語り出す。
「あの子は、萌は、本当にいい子なんです。とても」
それは、言われるまでもなく、一美も良く知っている。
そんな気もちが顔に出ていたのか、優子は宥めるように苦笑した。そして、でも、と続ける。
「でも、深く付き合うには、難しい子だと思います」
「何故?」
一美は、今から優子が話そうとしていることは、彼がいつも萌に対して抱いていた微かな違和感の答えになるであろうことを察する。無意識に、膝の上に置いた両手を握り締めた。
今、一美は萌がいるという養護施設『クスノキの家』の前に立っていた。
遅い時間になるのは判っていたから、今日訪問する旨は事前に連絡を入れてある。ただし、結局萌の携帯電話はつながらないままだった為、話をしたのはこの施設の理事長である関根優子という人物とだけだ。
武藤師長の親友でもあるというこの女性は、一美の言葉を聞くと「お待ちしています」とだけ答え、電話を切ってしまった。一美が行くことを彼女が萌に伝えてくれたかどうかは、不明だ。
一美が会いに行くことを聞かされたとしたら、その時、萌はいったいどんな反応を示したのだろう。
喜んだのだろうか。
それとも、彼が着く前に逃げようと思ったのだろうか。
逆に、知らされていないとしたら、突然に訪れた一美を見て、どんな顔をするだろう。
一美には、自分が彼女を傷付けたという自覚がある――それはもう、イヤというほどに。
ほんの一欠けらの気持ちも入っていなかったとはいえ、萌を拒絶する言葉をぶつけてしまったのだ。
(さっさと帰れと言われるかもしれないな)
だが、何を言われようがどんなことになろうが、彼に引くつもりはない。
説得にどれだけ時間がかかろうとも、萌を連れて帰るのだ。
一美は覚悟を決めて『クスノキの家』の事務所の玄関をくぐる。入ってすぐのカウンターには、この時間にも拘らず女性が一人座っていた。
彼女は一美を見るとニッコリと微笑む。
「すみません、岩崎一美と申しますが……こちらの関根さんとお会いする約束をしている者です」
「ああ、お話は伺っておりますので、理事長室へご案内します。どうぞ」
そう言って歩き出した彼女の後を、一美は追う。
事務所の中はひっそりとして暗く、人気もなかった。おそらく、彼の為に開けていてくれたのだろう。
「こちらですよ」
女性は立ち止まると、一枚の扉を手で示す。
「ありがとう」
会釈をした一美に、彼女は訳知り顔で微笑んだ。
「頑張ってね」
何を、と問う間を一美に与えず、彼女は来た廊下をさっさと戻って行ってしまった。
いったい、どんな人物が待ち構えているというのか――武藤師長の親友だというくらいだから、かなりの曲者なのかもしれない。
一美は手を上げて、扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
まるで校長室に入る中学生のようだと思いながらも、一美はドアを開けた。
「いらっしゃい」
迎えたのは、柔和な声だ。ソファから立ち上がった女性は、ふっくらとして、いかにも優しいお母さん然としている。
予想とは違った彼女の雰囲気に、一美は拍子抜けするのを禁じ得なかった。
「どうかなさいまして? こちらへお座りくださいな」
外見通りの優しそうな声で、彼女は自分の向かいのソファを示した。一美は足を進めると、会釈を一つしてそこに腰を下ろす。
「私はここの理事長をしております、関根優子と申します」
「岩崎一美です。小宮山さんとは同じ職場で働いています」
「存じておりますわ。美恵さんから、お噂も色々と」
予想通りに武藤師長の名前が出てきて、一美は内心で苦虫を噛み潰す。いったい、どんな『噂』をされたことやら。
口調や物腰はソフトだが、彼に注がれる優子の目付きから、推して知るべし、だ。
一美は小さく咳払いをして、言う。
「職場の同僚、ということもありますが、個人的なお付き合いもさせていただいています」
その台詞に、優子の目がきらりと光った。
「現在形、ですの?」
「はい?」
「今も、お付き合いを続けていらっしゃるおつもりですか?」
「私は、そのつもりです」
きっぱりと、一美は断言する。だが、それで「はい、そうですか、では連れてきます」とは当然ならず、優子は穏やかな――だがそこの知れない微笑みを浮かべて小さく首をかしげた。
「そうですか。それなら、何故、あの子は突然ここに帰ってきたりしたのでしょう? あの子はこの『クスノキの家』を卒業した身。少し顔を見せに来たというだけならわかります。でも、他の子ならともかく、あの子が自分からしばらく居させて欲しいというなんて、余程のことがあったとしか思えません。そんな時に離れてしまうだなんて、本当にお付き合いなさってらっしゃると声を大にすることができまして?」
口調は穏やかだ。だが、一美には「どの面下げてそんなことを言っているのか」と糾弾されているように思われてならない。
「それに関しては、少し齟齬が――いえ、私が言葉を誤りました。おそらく、彼女がこちらに帰ってきた原因も、それです」
突き刺さる優子の視線を、一美は真っ向から受け止める。
「私は、小宮山さん――萌を、傷付けました。そして、彼女は去って行った。でも、私は終わりにしたくないんです。もう一度、挽回するチャンスが欲しい」
「あなたはご自分にそれを与えられるだけの価値があると思われますの?」
「判りません。ただ、その価値があるかどうかは、萌に決めて欲しい」
それを最後に、一美は口を閉ざす。
静寂の中、優子と一美の眼差しが絡み合った。どちらも、ほんの僅かばかりも逸らすことなく、瞬きをすることもない。
自分自身の言うべきことは言い終えた一美は、優子が口を開くのをジッと待つ。
乾いた目がひりついてきた頃、ふと優子が目蓋を下ろし、小さくため息をついた。
そうして、彼女は背筋を伸ばし、再び一美の目を見据えると、語り出す。
「あの子は、萌は、本当にいい子なんです。とても」
それは、言われるまでもなく、一美も良く知っている。
そんな気もちが顔に出ていたのか、優子は宥めるように苦笑した。そして、でも、と続ける。
「でも、深く付き合うには、難しい子だと思います」
「何故?」
一美は、今から優子が話そうとしていることは、彼がいつも萌に対して抱いていた微かな違和感の答えになるであろうことを察する。無意識に、膝の上に置いた両手を握り締めた。
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