天使と狼

トウリン

文字の大きさ
上 下
51 / 92
第二章:すれちがい

14-1

しおりを挟む
 十八時に仕事を終えて、車を走らせること約二時間。
 今、一美かずよしもえがいるという養護施設『クスノキの家』の前に立っていた。
 遅い時間になるのは判っていたから、今日訪問する旨は事前に連絡を入れてある。ただし、結局萌の携帯電話はつながらないままだった為、話をしたのはこの施設の理事長である関根優子せきね ゆうこという人物とだけだ。
 武藤師長の親友でもあるというこの女性は、一美の言葉を聞くと「お待ちしています」とだけ答え、電話を切ってしまった。一美が行くことを彼女が萌に伝えてくれたかどうかは、不明だ。

 一美が会いに行くことを聞かされたとしたら、その時、萌はいったいどんな反応を示したのだろう。

 喜んだのだろうか。
 それとも、彼が着く前に逃げようと思ったのだろうか。
 逆に、知らされていないとしたら、突然に訪れた一美を見て、どんな顔をするだろう。

 一美には、自分が彼女を傷付けたという自覚がある――それはもう、イヤというほどに。
 ほんの一欠けらの気持ちも入っていなかったとはいえ、萌を拒絶する言葉をぶつけてしまったのだ。

(さっさと帰れと言われるかもしれないな)
 だが、何を言われようがどんなことになろうが、彼に引くつもりはない。
 説得にどれだけ時間がかかろうとも、萌を連れて帰るのだ。
 一美は覚悟を決めて『クスノキの家』の事務所の玄関をくぐる。入ってすぐのカウンターには、この時間にも拘らず女性が一人座っていた。

 彼女は一美を見るとニッコリと微笑む。
「すみません、岩崎一美と申しますが……こちらの関根さんとお会いする約束をしている者です」
「ああ、お話は伺っておりますので、理事長室へご案内します。どうぞ」
 そう言って歩き出した彼女の後を、一美は追う。
 事務所の中はひっそりとして暗く、人気もなかった。おそらく、彼の為に開けていてくれたのだろう。
「こちらですよ」
 女性は立ち止まると、一枚の扉を手で示す。
「ありがとう」
 会釈をした一美に、彼女は訳知り顔で微笑んだ。
「頑張ってね」
 何を、と問う間を一美に与えず、彼女は来た廊下をさっさと戻って行ってしまった。

 いったい、どんな人物が待ち構えているというのか――武藤師長の親友だというくらいだから、かなりの曲者なのかもしれない。

 一美は手を上げて、扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
 まるで校長室に入る中学生のようだと思いながらも、一美はドアを開けた。
「いらっしゃい」
 迎えたのは、柔和な声だ。ソファから立ち上がった女性は、ふっくらとして、いかにも優しいお母さん然としている。
 予想とは違った彼女の雰囲気に、一美は拍子抜けするのを禁じ得なかった。

「どうかなさいまして? こちらへお座りくださいな」
 外見通りの優しそうな声で、彼女は自分の向かいのソファを示した。一美は足を進めると、会釈を一つしてそこに腰を下ろす。
「私はここの理事長をしております、関根優子と申します」
「岩崎一美です。小宮山さんとは同じ職場で働いています」
「存じておりますわ。美恵みえさんから、お噂も色々と」
 予想通りに武藤師長の名前が出てきて、一美は内心で苦虫を噛み潰す。いったい、どんな『噂』をされたことやら。
 口調や物腰はソフトだが、彼に注がれる優子の目付きから、推して知るべし、だ。

 一美は小さく咳払いをして、言う。
「職場の同僚、ということもありますが、個人的なお付き合いもさせていただいています」
 その台詞に、優子の目がきらりと光った。
「現在形、ですの?」
「はい?」
「今も、お付き合いを続けていらっしゃるおつもりですか?」
「私は、そのつもりです」
 きっぱりと、一美は断言する。だが、それで「はい、そうですか、では連れてきます」とは当然ならず、優子は穏やかな――だがそこの知れない微笑みを浮かべて小さく首をかしげた。
「そうですか。それなら、何故、あの子は突然ここに帰ってきたりしたのでしょう? あの子はこの『クスノキの家』を卒業した身。少し顔を見せに来たというだけならわかります。でも、他の子ならともかく、あの子が自分からしばらく居させて欲しいというなんて、余程のことがあったとしか思えません。そんな時に離れてしまうだなんて、本当にお付き合いなさってらっしゃると声を大にすることができまして?」
 口調は穏やかだ。だが、一美には「どの面下げてそんなことを言っているのか」と糾弾されているように思われてならない。

「それに関しては、少し齟齬が――いえ、私が言葉を誤りました。おそらく、彼女がこちらに帰ってきた原因も、それです」
 突き刺さる優子の視線を、一美は真っ向から受け止める。
「私は、小宮山さん――萌を、傷付けました。そして、彼女は去って行った。でも、私は終わりにしたくないんです。もう一度、挽回するチャンスが欲しい」
「あなたはご自分にそれを与えられるだけの価値があると思われますの?」
「判りません。ただ、その価値があるかどうかは、萌に決めて欲しい」
 それを最後に、一美は口を閉ざす。

 静寂の中、優子と一美の眼差しが絡み合った。どちらも、ほんの僅かばかりも逸らすことなく、瞬きをすることもない。
 自分自身の言うべきことは言い終えた一美は、優子が口を開くのをジッと待つ。
 乾いた目がひりついてきた頃、ふと優子が目蓋を下ろし、小さくため息をついた。
 そうして、彼女は背筋を伸ばし、再び一美の目を見据えると、語り出す。

「あの子は、萌は、本当にいい子なんです。とても」
 それは、言われるまでもなく、一美も良く知っている。
 そんな気もちが顔に出ていたのか、優子は宥めるように苦笑した。そして、でも、と続ける。

「でも、深く付き合うには、難しい子だと思います」
「何故?」
 一美は、今から優子が話そうとしていることは、彼がいつも萌に対して抱いていた微かな違和感の答えになるであろうことを察する。無意識に、膝の上に置いた両手を握り締めた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】人嫌いで有名な塔の魔術師を餌付けしてしまいました

仙桜可律
恋愛
夜の酒場には恋の芽が溢れている。 場違いな苦い顔で座っているフードを被った男性。 魔術師として王城で働いているフレデリックだ。幼い頃から研究を続け、人の感情に敏感になりすぎていた。一人で塔に籠り、一切人との関わりを遮断していたのだが、精神魔法についての考察が弱すぎると指摘されてしまった。 「お酒は要りません、社会勉強として他人の恋を見に来ました」 そんなことを真顔で言う。 店で働くアメリアは、なんだか彼が気になってしまって……。 「絶対この人、悪い女に騙される……!」 生真面目魔術師 × 世話好き看板娘 2/6 タイトル変更しました 酔菜亭『エデン』シリーズ。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる

マチバリ
恋愛
 貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。  数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。 書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。

婚約者の様子がおかしいので尾行したら、隠し妻と子供がいました

Kouei
恋愛
婚約者の様子がおかしい… ご両親が事故で亡くなったばかりだと分かっているけれど…何かがおかしいわ。 忌明けを過ぎて…もう2か月近く会っていないし。 だから私は婚約者を尾行した。 するとそこで目にしたのは、婚約者そっくりの小さな男の子と美しい女性と一緒にいる彼の姿だった。 まさかっ 隠し妻と子供がいたなんて!!! ※誤字脱字報告ありがとうございます。 ※この作品は、他サイトにも投稿しています。

貴方にはもう何も期待しません〜夫は唯の同居人〜

きんのたまご
恋愛
夫に何かを期待するから裏切られた気持ちになるの。 もう期待しなければ裏切られる事も無い。

憧れの騎士さまと、お見合いなんです

絹乃
恋愛
年の差で体格差の溺愛話。大好きな騎士、ヴィレムさまとお見合いが決まった令嬢フランカ。その前後の甘い日々のお話です。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

処理中です...