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第二章:すれちがい
13-2
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本日三度目に病棟へ顔を出し、やはり求める姿が見当たらなくて、一美は首をかしげた。
ようやく、道子の忠告に従おうと心に決めて、朝からずっと萌を探していたのだ――今晩、話し合おう、と伝える為に。
ここ二日ほど携帯電話の電源は切られているし、メールを送っても丸一日返事がない。おそらく、一度も電源を入れていないのだろう。
仕方がないので勤務中に捕まえようと思ったのだが、病棟内でも一向に見かけない。
勤務表を見ると今日は日勤が入っていることになっているはずだ。
何か急用で出勤してきていないのか、あるいは他の病棟のヘルプに行っているのか。自分の病棟が暇だと、他の病棟に手伝いに行ったり、その需要もなければ休みになったりと、看護師の勤務は、時々そんなことがある。
一美は武藤師長に歩み寄る。
「ちょっと、いいかな」
「何ですか?」
何やら書類をチェックしていた武藤師長は、彼の呼びかけに顔を上げる。
「ああ、その、今日は小宮山さんは?」
「小宮山、ですか? ……どんな御用で?」
殆ど睨み付けているかのような眼差しを向けてくる武藤師長に、彼女はいったいどこまで事情を知っているのだろうかと一美は考えを巡らせてみたが、そのポーカーフェイスからはさっぱり読み取ることができない。
「ちょっと、私用だ。一言伝えるだけでいいんだ」
「一言、ねぇ」
ジトリと見てくる武藤に、一美は居心地が悪くなる。
「やっぱり、いい。出てきた時に話すから」
本当は一刻も早く話をしたかったが、止むを得ない。今晩、自宅にでも寄ってみよう。
そう頭を切り替えて立ち去ろうとした一美を、武藤師長の台詞が引き止めた。
「彼女は実家に帰りましたよ」
「実家……? 帰った……?」
ピタリと立ち止まり、振り返る。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、言葉の通りです」
「夏季休暇か? いったい、いつまで? いつ帰って来るんだ?」
「さあ……」
「さあって、そんな適当な。帰ってくるんだろう?」
「どうでしょうねぇ」
武藤師長はのらりくらりと一美をかわしていく。
萌がそんなふうに前触れもなく仕事を辞めるとは思えない。こんな、何の考えもなく突然に辞めるとは。
また戻ってくるに違いないと思っていても、一美の胸はざわついた。
もしも――もしも、彼女が仕事を辞めたとしたら、今、それを通じて辛うじてつながっている糸すら、プツリと切れてしまうのだ。
萌と、何の関係もなくなってしまう。
新しいつながりを懸命に模索している時だというのに、そんなことはとうてい許せなかった。
やはり、何としても彼女と直接話をしなければならない。
そう決意を新たにした一美に、武藤師長が冷ややかな声を投げかけてくる。
「ねぇ、先生。結局、先生はあの子をどうしたいんです?」
「え?」
「あの子はあたしの部下で、それに加えて、親友から預かった大事な子でもあるんですよ。物珍しさで手を出すなら、もう止めてくださいな」
「そんなつもりはない」
きっぱりと即答した一美を、武藤師長は鼻で笑い飛ばす。
「気付いておられないなら、自分の行動もわかっていない若造だって事ですね」
「どういう意味だ」
流石にムッとして、一美は眉根を寄せる。だが、鋭い彼の眼差しにも、師長はまったく怯む気配はなかった。
同じように険しい目を、彼に向けてくる。
「あの子は、見た目ほど簡単な子じゃありません。あの子に必要なのは、いちゃつくだけの男じゃなくて、あの子を包んで支えてやれるような存在なんですよ」
その台詞に、一美は苛立った。
言われなくても、嫌というほど思い知っている。彼もそれが解かり始めたからこそ、自分がその存在になりたいと思ったのだ。
一美と武藤師長は、言葉もなく視線を戦わせる。どちらも一歩も引かない構えだった。
瞬き一つせずに、一美の中を探ろうとしてくる武藤に受けて立つ。
やがて、先にその目から力を抜いたのは、武藤師長の方だった。小さく息をついて一枚の紙片に何かを書き付け、差し出してくる。
一美が受け取ると、そこには『クスノキの家』と書かれており、他に住所と電話番号もあった。名称からしてどこかの施設だが、健人《けんと》が送られたところだろうか。だが、そうだとしても、彼女が今これを持ちだしてくる理由が判らない。
「何だ?」
「あの子の『実家』」
言われて、もう一度、手の中の紙切れに目を落とす。そして、再び武藤師長に目をやった。
「これ……」
「そういうことです。これ以上のことは、あたしの口からは言えません」
「わかった」
一美はその紙を丁寧に折りたたむと財布の中にしまう。そこに書かれていたことは彼の意表を突きはしたが、だからと言って、何が変わるわけでもない。
「ありがとう」
短く、そう礼を言うと、彼女は片手をひらりと振ってよこした。そして、話はおしまいとばかりにまた書類に向き直る。
必要最低限の情報は仕入れることができた一美も、踵を返して歩き出した。
一刻でも早く、萌がいる生活に戻りたい。
だが、ただ傍に置くだけではダメなのだ。それでは前と同じになる。
今度は、萌が何を望んでいるのかをきっちり訊いていこう。「解からない」と言い続けるのではなく。
今だって、萌のことについては解からないことだらけだ。表面的なことも、内面的なことも。
二人の『先』がどうなっているかも判らないけれど、取り敢えずは、彼女を知ることから始めようと、思った。
ようやく、道子の忠告に従おうと心に決めて、朝からずっと萌を探していたのだ――今晩、話し合おう、と伝える為に。
ここ二日ほど携帯電話の電源は切られているし、メールを送っても丸一日返事がない。おそらく、一度も電源を入れていないのだろう。
仕方がないので勤務中に捕まえようと思ったのだが、病棟内でも一向に見かけない。
勤務表を見ると今日は日勤が入っていることになっているはずだ。
何か急用で出勤してきていないのか、あるいは他の病棟のヘルプに行っているのか。自分の病棟が暇だと、他の病棟に手伝いに行ったり、その需要もなければ休みになったりと、看護師の勤務は、時々そんなことがある。
一美は武藤師長に歩み寄る。
「ちょっと、いいかな」
「何ですか?」
何やら書類をチェックしていた武藤師長は、彼の呼びかけに顔を上げる。
「ああ、その、今日は小宮山さんは?」
「小宮山、ですか? ……どんな御用で?」
殆ど睨み付けているかのような眼差しを向けてくる武藤師長に、彼女はいったいどこまで事情を知っているのだろうかと一美は考えを巡らせてみたが、そのポーカーフェイスからはさっぱり読み取ることができない。
「ちょっと、私用だ。一言伝えるだけでいいんだ」
「一言、ねぇ」
ジトリと見てくる武藤に、一美は居心地が悪くなる。
「やっぱり、いい。出てきた時に話すから」
本当は一刻も早く話をしたかったが、止むを得ない。今晩、自宅にでも寄ってみよう。
そう頭を切り替えて立ち去ろうとした一美を、武藤師長の台詞が引き止めた。
「彼女は実家に帰りましたよ」
「実家……? 帰った……?」
ピタリと立ち止まり、振り返る。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、言葉の通りです」
「夏季休暇か? いったい、いつまで? いつ帰って来るんだ?」
「さあ……」
「さあって、そんな適当な。帰ってくるんだろう?」
「どうでしょうねぇ」
武藤師長はのらりくらりと一美をかわしていく。
萌がそんなふうに前触れもなく仕事を辞めるとは思えない。こんな、何の考えもなく突然に辞めるとは。
また戻ってくるに違いないと思っていても、一美の胸はざわついた。
もしも――もしも、彼女が仕事を辞めたとしたら、今、それを通じて辛うじてつながっている糸すら、プツリと切れてしまうのだ。
萌と、何の関係もなくなってしまう。
新しいつながりを懸命に模索している時だというのに、そんなことはとうてい許せなかった。
やはり、何としても彼女と直接話をしなければならない。
そう決意を新たにした一美に、武藤師長が冷ややかな声を投げかけてくる。
「ねぇ、先生。結局、先生はあの子をどうしたいんです?」
「え?」
「あの子はあたしの部下で、それに加えて、親友から預かった大事な子でもあるんですよ。物珍しさで手を出すなら、もう止めてくださいな」
「そんなつもりはない」
きっぱりと即答した一美を、武藤師長は鼻で笑い飛ばす。
「気付いておられないなら、自分の行動もわかっていない若造だって事ですね」
「どういう意味だ」
流石にムッとして、一美は眉根を寄せる。だが、鋭い彼の眼差しにも、師長はまったく怯む気配はなかった。
同じように険しい目を、彼に向けてくる。
「あの子は、見た目ほど簡単な子じゃありません。あの子に必要なのは、いちゃつくだけの男じゃなくて、あの子を包んで支えてやれるような存在なんですよ」
その台詞に、一美は苛立った。
言われなくても、嫌というほど思い知っている。彼もそれが解かり始めたからこそ、自分がその存在になりたいと思ったのだ。
一美と武藤師長は、言葉もなく視線を戦わせる。どちらも一歩も引かない構えだった。
瞬き一つせずに、一美の中を探ろうとしてくる武藤に受けて立つ。
やがて、先にその目から力を抜いたのは、武藤師長の方だった。小さく息をついて一枚の紙片に何かを書き付け、差し出してくる。
一美が受け取ると、そこには『クスノキの家』と書かれており、他に住所と電話番号もあった。名称からしてどこかの施設だが、健人《けんと》が送られたところだろうか。だが、そうだとしても、彼女が今これを持ちだしてくる理由が判らない。
「何だ?」
「あの子の『実家』」
言われて、もう一度、手の中の紙切れに目を落とす。そして、再び武藤師長に目をやった。
「これ……」
「そういうことです。これ以上のことは、あたしの口からは言えません」
「わかった」
一美はその紙を丁寧に折りたたむと財布の中にしまう。そこに書かれていたことは彼の意表を突きはしたが、だからと言って、何が変わるわけでもない。
「ありがとう」
短く、そう礼を言うと、彼女は片手をひらりと振ってよこした。そして、話はおしまいとばかりにまた書類に向き直る。
必要最低限の情報は仕入れることができた一美も、踵を返して歩き出した。
一刻でも早く、萌がいる生活に戻りたい。
だが、ただ傍に置くだけではダメなのだ。それでは前と同じになる。
今度は、萌が何を望んでいるのかをきっちり訊いていこう。「解からない」と言い続けるのではなく。
今だって、萌のことについては解からないことだらけだ。表面的なことも、内面的なことも。
二人の『先』がどうなっているかも判らないけれど、取り敢えずは、彼女を知ることから始めようと、思った。
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