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第二章:すれちがい
12-2
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「萌!」
昼休憩、屋上でぼんやりと外を眺めていた萌は、突然名前を呼ばれて振り返った。
入り口の前に立っているのは、リコと――何故か、朗だ。
「ちょっと、お昼ご飯も食べずに何やってるの?」
そう言いながら近付いてきたリコを、昨日の貢のことがあったから、萌はジトリと睨み付ける。けれどリコは、ケロリとした様子で笑い返してきた。
「昨日はどうだった? 楽しかった?」
「騙しましたね?」
「あはは、ごめんごめん。正直に言ったら、絶対ウンと言わないと思ったから」
「当たり前です」
「そんなに怒らないでよ。で、どうだった? 付き合うことになった?」
目を輝かせて訊いてくるリコに、萌はため息を禁じ得ない。
自分はいいとして、貢にはいい迷惑だったに違いないというのに。
だまし討ちであんなことをしておいて、全然悪びれた気配がないのが、信じられない。
「有り得ませんから」
「え、何で? あんた、岩崎先生と別れたんでしょう?」
不意打ち、だった。
薄々、勘付かれているだろうとは思っていたけれど、こんなふうにズバリと指摘されるとは思っていなかった。咄嗟に言葉を返すことができずに黙り込んだままの萌に、リコが続ける。
「そんなの、雰囲気で判っちゃうわよ。いくら普通にしててもね。元々、あんたと岩崎先生は合ってなかったのよ。無理があったの。……うまくいくのかも、と思った時もあったけど、やっぱりだったわね。こうなったら、早いところ、もっとぴったりくる人を見つけなきゃ。斉藤さんがダメなら、また合コンする?」
ヤル気満々なリコに、萌は首を振った。
「いいです、当分は。少し、気持ちを整理しようと思って」
「もう、まだ若いのに! 花の命は短いのよ?」
リコはグルリと目を回して呆れたような声を上げる。
きっと、「早く相手を見つけ」させたいのではなくて、「早く一美を忘れ」させたいのだろう。萌が落ち込んでいるのが判るから、早く彼のことを忘れさせたいのだ。
大げさな言い方だったけれども、彼女が自分のことを思って言ってくれているのが伝わってきて、萌は小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないの!」
リコは更に憤慨した声を上げる。
萌はといえば、彼女の剣幕に笑ってごまかすしかない。彼女の気持ちは嬉しいのだけれども、まだ気持ちを切り替えられないし……切り替えたくないと思っている自分が心の片隅にいる。
「ああ、もう! この世に男なんて星の数ほどいるってのに!」
「まあ、人類の半分は男性ですものね」
「そうじゃなくって!」
噛み合っていない女子二人のやり取りに割って入ったのは、朗だ。
「ちょっとゴメンよ」
彼のその声に、リコが今思い出した、と言わんばかりの声を上げる。
「あ、そうそう。有田先生が萌に話があるって……」
「そうなんだ。探してたんだよ」
彼は病棟で会えば必ず声をかけてくるけれど、わざわざ探してとなると、今までなかったことだ。今は整形外科の患者も担当していないし、いったいどんな用なのかと、萌は首をかしげて彼を見上げた。
「何でしょう?」
朗はいつものように人懐こい笑顔を返してくる。
「あのさ、実家に帰るって聞いたんだけど、それホント?」
「え、あ、はい……明日」
「ふうん」
朗は鼻で頷くと、しばし考え込むように口を閉ざした。そして、また、話し出す。
「一美とは、本当に、もう終わりにするつもり?」
萌は、薄く笑う。
「先生は、わたしなんかにはもったいない人です」
「そう? 結構、お似合いだったけどなぁ。……あいつってさ、とっかえひっかえ女の子と遊んでても、付き合ってはいなかったんだよね」
「え?」
キョトンとした萌に、朗はニッコリと笑う。
「多分、ちゃんと『お付き合い』したのは、萌ちゃんが初めてなんじゃないかな」
「でも、それならあの数々の武勇伝は何なんですか?」
眉をひそめたリコに、朗が肩をすくめた。
「だから、あれはあくまでも『遊んで』いただけだったんだよね、今思えば。あいつのはああいうやり方なのかな、と思ってたけど、そうじゃなかった。だって、彼女たちと萌ちゃんとじゃぁ、接し方が全然違うし」
「なんか、それってサイテイですよ」
「だよねぇ。あ、オレはちゃんと真剣に付き合ってるからね、どの子とも」
「有田先生もたいして変わりませんよ、それ」
リコの非難に満ちた眼差しを、朗はニッコリと笑ってかわす。そして、また萌に向き直った。
「あいつって、女の子といても、一度も『先』を考えたことがなかったんじゃないかな」
「『先』?」
「そ、『先』、『将来』、そんなもの。だから、いつでも別れられたんだ。最初っから、その場限りのつもりでいたから」
「それは……きっと、わたしでも同じです」
「そうかなぁ」
朗はそう呟くと、屋上の柵に歩み寄り、そこに寄りかかって遠くを眺めやる。しばらくは、そのままだった。
やがて彼の口から出た声は普段の軽い響きを取り去ったもので、萌は何となく背筋を伸ばしてしまう。
「あいつは、ビビってるんじゃないかなと思うんだ」
「ビビる……?」
その言葉は、一美にもっとも似つかわしくないもののように、萌には思えた。
萌の知っている彼は、いつでも落ち着いていて、自信に満ちていて、揺らぎがない。どっしりとしているところが、何よりも安心できたのだ。
納得がいかない萌をよそに、朗は続ける。
「あいつのウチって、私立の病院なんだよ。岩崎循環器病院って知ってるかい?」
「それって、まさか、あの……?」
この辺りの出身ではない萌にはわからず、朗の問いに答えたのは、リコだった。彼女は目を丸くしている。
「そう、あの。母親は心臓外科医、父親は循環器内科医。どちらも日本で十本の指に入る権威だね」
「そんなにすごい人なんですか?」
萌は呆気に取られてしまう。
振り返ってみれば、一美の口から両親についてのことが出たことは一度もなかった。もっとも、それは萌も同じだったけれど。
彼が家族に触れることがないのをいいことに、彼女も何も言わなかった――尋ねることも、話すことも、しなかったのだ。
萌の問いに、朗が振り返ってニヤリとする。
「もう、バリバリ。日本全国はおろか、世界を飛び回っているよ。自宅で過ごすのなんか、一年のうちで数日しかないんじゃないの? 今もまだ現役で、時々テレビにも出てるよ」
桁違いの家族構成に、萌は言葉もない。まるで雲の上の人だ。
ポカンとしている彼女を置いて、朗が続けた。
「そんなだから、あいつは、『普通の幸せ家族』ってヤツが思い浮かばないんじゃないかと思うんだ。だから、誰かと深く関わることを拒む。然るべき家族のあり方ってやつが判らないから、自分に家庭は作れない、そう思ってるんじゃないかな」
朗は柵に寄りかかって天を仰ぐ。
「でもさぁ、一美って結構父親向きじゃない? 萌ちゃんと一緒にいるあいつを見てたら、つくづくそう思ったよ」
頭を戻し、彼は真っ直ぐに萌を見つめて言う――説くように。
「あいつには、大事にする為の誰かが必要なんだと思うよ。でも、どうやって大事にしたらいいか判らないから、尻尾を巻いて逃げ出すんだ。『理想的な家庭』ってヤツがどんなものか判らないから、はなから作ろうとしない」
そうして、バカみたいだろ? と肩をすくめて寄越す。萌は朗から目を逸らし、顔を伏せた。
それをバカだと言うなら、萌も同じようなものだ。もっとも、彼女は一美の逆だけれども。
「わたしだって、『理想の家庭』なんて、知らないもの……」
知らないからこそ憧れる、というものもあるではないか。
口の中で消えた微かな呟きは、リコと朗には殆ど届かなかったようで、二人からは問いかけるような眼差しが向けられる。
萌はそれに小さく頭を振って返しただけだった。
二人の視線から逃れるように、萌は空を見上げる。そこには雲一つなく、彼女の心も空っぽになっていくように感じられた。
今は、まだ、多くのことは考えられない。
――考えたく、なかった。
昼休憩、屋上でぼんやりと外を眺めていた萌は、突然名前を呼ばれて振り返った。
入り口の前に立っているのは、リコと――何故か、朗だ。
「ちょっと、お昼ご飯も食べずに何やってるの?」
そう言いながら近付いてきたリコを、昨日の貢のことがあったから、萌はジトリと睨み付ける。けれどリコは、ケロリとした様子で笑い返してきた。
「昨日はどうだった? 楽しかった?」
「騙しましたね?」
「あはは、ごめんごめん。正直に言ったら、絶対ウンと言わないと思ったから」
「当たり前です」
「そんなに怒らないでよ。で、どうだった? 付き合うことになった?」
目を輝かせて訊いてくるリコに、萌はため息を禁じ得ない。
自分はいいとして、貢にはいい迷惑だったに違いないというのに。
だまし討ちであんなことをしておいて、全然悪びれた気配がないのが、信じられない。
「有り得ませんから」
「え、何で? あんた、岩崎先生と別れたんでしょう?」
不意打ち、だった。
薄々、勘付かれているだろうとは思っていたけれど、こんなふうにズバリと指摘されるとは思っていなかった。咄嗟に言葉を返すことができずに黙り込んだままの萌に、リコが続ける。
「そんなの、雰囲気で判っちゃうわよ。いくら普通にしててもね。元々、あんたと岩崎先生は合ってなかったのよ。無理があったの。……うまくいくのかも、と思った時もあったけど、やっぱりだったわね。こうなったら、早いところ、もっとぴったりくる人を見つけなきゃ。斉藤さんがダメなら、また合コンする?」
ヤル気満々なリコに、萌は首を振った。
「いいです、当分は。少し、気持ちを整理しようと思って」
「もう、まだ若いのに! 花の命は短いのよ?」
リコはグルリと目を回して呆れたような声を上げる。
きっと、「早く相手を見つけ」させたいのではなくて、「早く一美を忘れ」させたいのだろう。萌が落ち込んでいるのが判るから、早く彼のことを忘れさせたいのだ。
大げさな言い方だったけれども、彼女が自分のことを思って言ってくれているのが伝わってきて、萌は小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないの!」
リコは更に憤慨した声を上げる。
萌はといえば、彼女の剣幕に笑ってごまかすしかない。彼女の気持ちは嬉しいのだけれども、まだ気持ちを切り替えられないし……切り替えたくないと思っている自分が心の片隅にいる。
「ああ、もう! この世に男なんて星の数ほどいるってのに!」
「まあ、人類の半分は男性ですものね」
「そうじゃなくって!」
噛み合っていない女子二人のやり取りに割って入ったのは、朗だ。
「ちょっとゴメンよ」
彼のその声に、リコが今思い出した、と言わんばかりの声を上げる。
「あ、そうそう。有田先生が萌に話があるって……」
「そうなんだ。探してたんだよ」
彼は病棟で会えば必ず声をかけてくるけれど、わざわざ探してとなると、今までなかったことだ。今は整形外科の患者も担当していないし、いったいどんな用なのかと、萌は首をかしげて彼を見上げた。
「何でしょう?」
朗はいつものように人懐こい笑顔を返してくる。
「あのさ、実家に帰るって聞いたんだけど、それホント?」
「え、あ、はい……明日」
「ふうん」
朗は鼻で頷くと、しばし考え込むように口を閉ざした。そして、また、話し出す。
「一美とは、本当に、もう終わりにするつもり?」
萌は、薄く笑う。
「先生は、わたしなんかにはもったいない人です」
「そう? 結構、お似合いだったけどなぁ。……あいつってさ、とっかえひっかえ女の子と遊んでても、付き合ってはいなかったんだよね」
「え?」
キョトンとした萌に、朗はニッコリと笑う。
「多分、ちゃんと『お付き合い』したのは、萌ちゃんが初めてなんじゃないかな」
「でも、それならあの数々の武勇伝は何なんですか?」
眉をひそめたリコに、朗が肩をすくめた。
「だから、あれはあくまでも『遊んで』いただけだったんだよね、今思えば。あいつのはああいうやり方なのかな、と思ってたけど、そうじゃなかった。だって、彼女たちと萌ちゃんとじゃぁ、接し方が全然違うし」
「なんか、それってサイテイですよ」
「だよねぇ。あ、オレはちゃんと真剣に付き合ってるからね、どの子とも」
「有田先生もたいして変わりませんよ、それ」
リコの非難に満ちた眼差しを、朗はニッコリと笑ってかわす。そして、また萌に向き直った。
「あいつって、女の子といても、一度も『先』を考えたことがなかったんじゃないかな」
「『先』?」
「そ、『先』、『将来』、そんなもの。だから、いつでも別れられたんだ。最初っから、その場限りのつもりでいたから」
「それは……きっと、わたしでも同じです」
「そうかなぁ」
朗はそう呟くと、屋上の柵に歩み寄り、そこに寄りかかって遠くを眺めやる。しばらくは、そのままだった。
やがて彼の口から出た声は普段の軽い響きを取り去ったもので、萌は何となく背筋を伸ばしてしまう。
「あいつは、ビビってるんじゃないかなと思うんだ」
「ビビる……?」
その言葉は、一美にもっとも似つかわしくないもののように、萌には思えた。
萌の知っている彼は、いつでも落ち着いていて、自信に満ちていて、揺らぎがない。どっしりとしているところが、何よりも安心できたのだ。
納得がいかない萌をよそに、朗は続ける。
「あいつのウチって、私立の病院なんだよ。岩崎循環器病院って知ってるかい?」
「それって、まさか、あの……?」
この辺りの出身ではない萌にはわからず、朗の問いに答えたのは、リコだった。彼女は目を丸くしている。
「そう、あの。母親は心臓外科医、父親は循環器内科医。どちらも日本で十本の指に入る権威だね」
「そんなにすごい人なんですか?」
萌は呆気に取られてしまう。
振り返ってみれば、一美の口から両親についてのことが出たことは一度もなかった。もっとも、それは萌も同じだったけれど。
彼が家族に触れることがないのをいいことに、彼女も何も言わなかった――尋ねることも、話すことも、しなかったのだ。
萌の問いに、朗が振り返ってニヤリとする。
「もう、バリバリ。日本全国はおろか、世界を飛び回っているよ。自宅で過ごすのなんか、一年のうちで数日しかないんじゃないの? 今もまだ現役で、時々テレビにも出てるよ」
桁違いの家族構成に、萌は言葉もない。まるで雲の上の人だ。
ポカンとしている彼女を置いて、朗が続けた。
「そんなだから、あいつは、『普通の幸せ家族』ってヤツが思い浮かばないんじゃないかと思うんだ。だから、誰かと深く関わることを拒む。然るべき家族のあり方ってやつが判らないから、自分に家庭は作れない、そう思ってるんじゃないかな」
朗は柵に寄りかかって天を仰ぐ。
「でもさぁ、一美って結構父親向きじゃない? 萌ちゃんと一緒にいるあいつを見てたら、つくづくそう思ったよ」
頭を戻し、彼は真っ直ぐに萌を見つめて言う――説くように。
「あいつには、大事にする為の誰かが必要なんだと思うよ。でも、どうやって大事にしたらいいか判らないから、尻尾を巻いて逃げ出すんだ。『理想的な家庭』ってヤツがどんなものか判らないから、はなから作ろうとしない」
そうして、バカみたいだろ? と肩をすくめて寄越す。萌は朗から目を逸らし、顔を伏せた。
それをバカだと言うなら、萌も同じようなものだ。もっとも、彼女は一美の逆だけれども。
「わたしだって、『理想の家庭』なんて、知らないもの……」
知らないからこそ憧れる、というものもあるではないか。
口の中で消えた微かな呟きは、リコと朗には殆ど届かなかったようで、二人からは問いかけるような眼差しが向けられる。
萌はそれに小さく頭を振って返しただけだった。
二人の視線から逃れるように、萌は空を見上げる。そこには雲一つなく、彼女の心も空っぽになっていくように感じられた。
今は、まだ、多くのことは考えられない。
――考えたく、なかった。
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