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第二章:すれちがい
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日曜日の昼下がり。
ソファの背もたれに肘を乗せて、一美は掃除にいそしむ道子の背中を眺めていた。
彼にとってのいわゆる『母親像』は道子だ。
食事を作り、洗濯をし、掃除をし、学校であった話を聴く。
世の母親がするであろうことを、一美が赤ん坊の頃から、道子が担ってきた。だから、母親とはこういうもの、というイメージをある程度は想起することができる。
では、父親はどうだろう。
こちらは、思い浮かべようとしても、出てこない。
一般的には、父親とは一家を養う存在とされている筈だ。
外で働き、金を稼ぐ。
だが、一美の家族構成において母親の立場にある一香は、家事育児は一つもしないが父親と同じくらいの稼ぎ手で、その伝で言ったら母親も『父親』になる。その上、父親の美彦の方が年下の為か、あるいは婿養子だった為か、色々な場面でイニシアチブを取るのも一香の方だった。
なら、稼ぐ以外には、父親とは何をする?
キャッチボールか? 子どもを遊園地にでも連れて行く?
――一美は、美彦のそんな姿を見たことがない。
そもそも、両親の姿を家で見ることが殆どなかったのだが、一美が覚えている父親というものは、書斎で本を読むかパソコンに向かうかしている、背中だけだ。
理想の夫、理想の父親とは、どんなものなのか。
萌が望む『家庭』とはどのようなものなのか、さっぱり想像もつかない。
一美は小さく溜息をつく。
と。
「そんなに見つめられたら、穴が開きますよ」
不意に、道子がそんな声を上げた。
彼女は一美に背を向けたままだというのに、色々なことにすぐ気付く。それは一美が小さい頃からそうで、彼女の背中には目が付いているに違いないと思ったものだ。
「さっきから何なんですか、いったい」
掃除機のスウィッチを切って振り返った道子が、そう訊いてくる。一美は少々ごまかすように咳払いをして、ソファから立ち上がって彼女に向き直った。
「ああ、その……」
何とか適切な言葉を探し出そうとして口ごもった。
道子は急かそうとせずに、彼が次の言葉を発するのを待っている。
一美の世話をしていた頃から、道子はいつもそうだった。子どもの頃、言いたいことが多すぎて空回りしてしまう彼を、辛抱強く待ってくれたものだった。
道子は家政婦をしているから、色々な家庭に接していて、『一般的な家庭』にも造詣が深いに違いない。
もっとも、この日本で家政婦を頼むという時点で標準からはやや外れてしまうのかもしれないが、そこのところは目をつぶろう。
一美は突拍子もない質問にならないように、言葉を選ぶ。
「あなたから見て、うちの家族はどうだと思う?」
「どう?」
「こう、『普通』とは違っていたでしょう?」
「さあ……『普通』がどういうものか、判りませんからねぇ」
道子は首をかしげてそう呟く。
その様子からは、本当にそう考えているのか、それともお茶を濁しているのかは判断できない。
一美は言葉を重ねる。
「他の家では、父親ってのは何をしているものなのかを、知りたいんだ。ごく普通の、父親ってものを」
「そんなことを知って、どうするんです?」
道子は、目を細めて一美を見つめてきた。彼の真意を探ろうとしているかのように。
まさか、それを目指して努力する、などとは、一美には口が裂けても言えやしない。
むっつりと押し黙ったままの彼に、道子は肩をすくめた。
「決まりきったものなんてないですよ。どんな形が幸せなのかだなんて、多分、誰にも判りません」
「だが……」
一美は萌に完璧なものを用意してやりたかった――彼女が望むものを、完璧な形で。
そうしなければ、迎えにいけない。
眉間に皺を寄せた彼に、道子は聞き分けのない子どもを見る目を向けて続ける。
「形が幸せを作るわけじゃないですよ。どんな形でも、それが幸せかどうかを決めるのは、その人たち自身ですから」
「それが、どんな家庭でも?」
「そうですね。少なくとも、私はそう思いますよ。要は、自分が幸せで、相手も幸せにできたらそれでいいんです」
『幸せ』。
シンプルな言葉だ。そして、抽象的で曖昧な。
美味いものを食べさせたらいいとか、服やアクセサリを買ってやったらいいとか、そんなふうに明確なことだったら、どんなに簡単だったろう。
だがしかし、残念ながら、萌にはそれが通用しない。解かりやすいもので解かりやすく喜んではくれないのだ。
考え込んだ一美に、道子が短い忠言を添える。
「一美さん。とにかく、話をなさい」
「え?」
「あのお嬢さんなんでしょう? まだ、仲直りしてらっしゃらなかったんですね? 言葉を交わさなかったら、理解し合うなんて不可能ですよ。喧嘩をしてもいいんです。黙ってしまうのが、一番いけません。とにかく、お話しなさい。とことんまで話して、それでもうまくいかなかったら、ご縁がなかったということです」
「……タイミングが掴めなかったんだ」
「そんなの待っていたら、どんどん気まずくなりますよ。即断即決、善は急げ、です」
道子はたいしたことではないように、さらりと言ってくれる。
「そんな簡単なことじゃない」
「簡単ですよ。一美さんが自分で難しくしているだけです」
仏頂面でそう答えた一美を、道子は一刀両断した。どこか呆れたような眼差しを、彼女は一美に注ぐ。喃語を口にするようになる前から面倒をみられていた道子が相手では、甚だ分が悪かった。
「恋愛なんて、当たって砕けろ、ですよ」
いともあっさりとそう言ってのけてくれた道子に、一美は内心でぼやく。
本当に砕けてしまったら、どうしてくれるのだ、と。
すでに一度失敗した身としては、無謀な行動には出られない。もう、一度彼女を傷付けたのだ。
二度目を自分に赦すことはできなかった。
絶対に。
ソファの背もたれに肘を乗せて、一美は掃除にいそしむ道子の背中を眺めていた。
彼にとってのいわゆる『母親像』は道子だ。
食事を作り、洗濯をし、掃除をし、学校であった話を聴く。
世の母親がするであろうことを、一美が赤ん坊の頃から、道子が担ってきた。だから、母親とはこういうもの、というイメージをある程度は想起することができる。
では、父親はどうだろう。
こちらは、思い浮かべようとしても、出てこない。
一般的には、父親とは一家を養う存在とされている筈だ。
外で働き、金を稼ぐ。
だが、一美の家族構成において母親の立場にある一香は、家事育児は一つもしないが父親と同じくらいの稼ぎ手で、その伝で言ったら母親も『父親』になる。その上、父親の美彦の方が年下の為か、あるいは婿養子だった為か、色々な場面でイニシアチブを取るのも一香の方だった。
なら、稼ぐ以外には、父親とは何をする?
キャッチボールか? 子どもを遊園地にでも連れて行く?
――一美は、美彦のそんな姿を見たことがない。
そもそも、両親の姿を家で見ることが殆どなかったのだが、一美が覚えている父親というものは、書斎で本を読むかパソコンに向かうかしている、背中だけだ。
理想の夫、理想の父親とは、どんなものなのか。
萌が望む『家庭』とはどのようなものなのか、さっぱり想像もつかない。
一美は小さく溜息をつく。
と。
「そんなに見つめられたら、穴が開きますよ」
不意に、道子がそんな声を上げた。
彼女は一美に背を向けたままだというのに、色々なことにすぐ気付く。それは一美が小さい頃からそうで、彼女の背中には目が付いているに違いないと思ったものだ。
「さっきから何なんですか、いったい」
掃除機のスウィッチを切って振り返った道子が、そう訊いてくる。一美は少々ごまかすように咳払いをして、ソファから立ち上がって彼女に向き直った。
「ああ、その……」
何とか適切な言葉を探し出そうとして口ごもった。
道子は急かそうとせずに、彼が次の言葉を発するのを待っている。
一美の世話をしていた頃から、道子はいつもそうだった。子どもの頃、言いたいことが多すぎて空回りしてしまう彼を、辛抱強く待ってくれたものだった。
道子は家政婦をしているから、色々な家庭に接していて、『一般的な家庭』にも造詣が深いに違いない。
もっとも、この日本で家政婦を頼むという時点で標準からはやや外れてしまうのかもしれないが、そこのところは目をつぶろう。
一美は突拍子もない質問にならないように、言葉を選ぶ。
「あなたから見て、うちの家族はどうだと思う?」
「どう?」
「こう、『普通』とは違っていたでしょう?」
「さあ……『普通』がどういうものか、判りませんからねぇ」
道子は首をかしげてそう呟く。
その様子からは、本当にそう考えているのか、それともお茶を濁しているのかは判断できない。
一美は言葉を重ねる。
「他の家では、父親ってのは何をしているものなのかを、知りたいんだ。ごく普通の、父親ってものを」
「そんなことを知って、どうするんです?」
道子は、目を細めて一美を見つめてきた。彼の真意を探ろうとしているかのように。
まさか、それを目指して努力する、などとは、一美には口が裂けても言えやしない。
むっつりと押し黙ったままの彼に、道子は肩をすくめた。
「決まりきったものなんてないですよ。どんな形が幸せなのかだなんて、多分、誰にも判りません」
「だが……」
一美は萌に完璧なものを用意してやりたかった――彼女が望むものを、完璧な形で。
そうしなければ、迎えにいけない。
眉間に皺を寄せた彼に、道子は聞き分けのない子どもを見る目を向けて続ける。
「形が幸せを作るわけじゃないですよ。どんな形でも、それが幸せかどうかを決めるのは、その人たち自身ですから」
「それが、どんな家庭でも?」
「そうですね。少なくとも、私はそう思いますよ。要は、自分が幸せで、相手も幸せにできたらそれでいいんです」
『幸せ』。
シンプルな言葉だ。そして、抽象的で曖昧な。
美味いものを食べさせたらいいとか、服やアクセサリを買ってやったらいいとか、そんなふうに明確なことだったら、どんなに簡単だったろう。
だがしかし、残念ながら、萌にはそれが通用しない。解かりやすいもので解かりやすく喜んではくれないのだ。
考え込んだ一美に、道子が短い忠言を添える。
「一美さん。とにかく、話をなさい」
「え?」
「あのお嬢さんなんでしょう? まだ、仲直りしてらっしゃらなかったんですね? 言葉を交わさなかったら、理解し合うなんて不可能ですよ。喧嘩をしてもいいんです。黙ってしまうのが、一番いけません。とにかく、お話しなさい。とことんまで話して、それでもうまくいかなかったら、ご縁がなかったということです」
「……タイミングが掴めなかったんだ」
「そんなの待っていたら、どんどん気まずくなりますよ。即断即決、善は急げ、です」
道子はたいしたことではないように、さらりと言ってくれる。
「そんな簡単なことじゃない」
「簡単ですよ。一美さんが自分で難しくしているだけです」
仏頂面でそう答えた一美を、道子は一刀両断した。どこか呆れたような眼差しを、彼女は一美に注ぐ。喃語を口にするようになる前から面倒をみられていた道子が相手では、甚だ分が悪かった。
「恋愛なんて、当たって砕けろ、ですよ」
いともあっさりとそう言ってのけてくれた道子に、一美は内心でぼやく。
本当に砕けてしまったら、どうしてくれるのだ、と。
すでに一度失敗した身としては、無謀な行動には出られない。もう、一度彼女を傷付けたのだ。
二度目を自分に赦すことはできなかった。
絶対に。
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