天使と狼

トウリン

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第二章:すれちがい

10-1

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 健人けんとの出発は、三日後に迫っていた。
 彼の母、幸子さちこと児童相談所の職員との面談も進み、今日か明日にでも、健人が養護施設に入ることを彼女に伝えることになっていると、もえは聞いている。
 幸子が同意すれば良いのだけれど、もしも養護施設に預けることを拒否するならば、法にのっとって強制的に保護することになってしまう。
 こんな間際まで伝えずにいたということは、きっと、彼女の反応は良くないのだろう。
 児童相談員は健人の家の周囲で聞き込みを重ね、幸子と面談を繰り返し、その結果、今の彼女に健人を育てることは無理だと判断した。
 幸子は明らかなアルコール依存症だというのに、本人は断固としてそれを認めようとはしない。健人の状態についても、体格が小さいのは稼ぎが少なくて充分な食事を与えられないからで、身体に残る傷は躾のためにやったのだと言い張っているという。まずはアルコール依存症を何とかしなければ、健人と暮らさせることは難しい。

 健人の表情は随分と明るくなって、まだおしゃべりはしないけれど、今も同年代の男の子二人とプレイルームで遊んでいる。
 萌は少し離れた所から彼らを見守りながら、幸子が彼としばらく距離を置くことに同意してくれることを祈る。
 できたら、穏便に事を運んで欲しい――幸子の態度によっては、面会すらできなくなってしまうから。
 健人の担当になってから色々調べたけれど、今の法律は子どもを守る為ならかなり厳しい処置も赦してしまう。親が拒んでも強制的に子どもを養護施設に入れることもできるし、親に対して接近禁止を言い渡すこともできる。場合によっては、親権を取り上げることもできてしまうという。
 そんなことには、なって欲しくなかった。絶対に。

 小さく溜息をつくと萌は時計に目を落とし、そろそろ安静時間になるのを確かめる。そうして、楽しそうに遊んでいる子ども達に声をかけた。
「みんな、時間だよ。お部屋に戻ってお休みしよう」
「あ、萌ちゃんだ」
「はぁい」
 電車の模型で遊んでいた少年達は萌のその声に元気よく返事をすると、散らばっていた玩具を箱に片付け始めた。
 健人も声での返事はなかったけれど、てきぱきと模型を箱に入れていく。

 キレイに仕舞い終わった子ども達は、それぞれに部屋に戻っていく。
「行こっか」
 最後に残った健人の手を引いて、萌は彼の部屋に向かった――向かおうとして、突如廊下に響いた金切り声に、健人が足をすくませる。

「あの子はどこよ!?」

 萌はハッとその方向に目を走らせた。
 廊下の先にいるのは、病衣を来た若い女性だ。彼女も萌達に気付き、固まった。と、次の瞬間、殆ど走る速度で真っ直ぐに二人に向かってくる。
 萌と繋いでいる健人の手にギュッと力が入り、爪が彼女の指に食い込んだ。

「ママ……」

 萌の後ろにいる健人が、震える声で囁く。彼の声を聞いたのは初めてだったけれど、それを喜ぶ暇はなかった。

 病室に逃げ込んで、守衛が来るのを待つべきだ。
 そう思ったけれども、萌は踏み止まった。しっかりと、健人の手を握り返して。

「ちょっと、その子を返してよ! 今すぐ家に帰るんだから!」
 痩せたその女性――健人の母、幸子は、ギラギラと光る目で萌を睨み付けてくる。それを真っ直ぐに見返して、萌は彼女と健人との間の壁になるべく踏ん張った。

「下田さん? まだベッド上安静を指示されてらっしゃるでしょう? 病棟に戻ってお休みください」
 穏やかな、低めた声で、萌は言う。だが、幸子は険しい目付きで彼女を睨み付けてきた。
「イヤよ! その子を連れて退院するわ。今すぐ! 何よ、あの連中! あたしがその子を虐待してるって言うのよ!? 健人はあたしの子なんだから、あたしが育てるのよ!」
 そう言うなり健人に向かって伸ばしてくる腕を、萌は身体をずらして阻む。
「今のお母さんにはお渡しできません」
「どいてよ、何でよ、あたしの子よ!? あんた、何なのよ!」
 ヒステリックな悲鳴じみた幸子の声に、集まってきた病棟内の人が遠巻きで事態を窺っている。数名の看護師が駆け付けたけれど、それを、萌は目で制した。

 萌は、この取り乱した女性ではなく、その下にいる、本来の幸子と話をしたかった。それには、力づくで抑え込んではならない筈だ。
 萌の目配せを受けて、看護師たちは、集まった患者たちをそれぞれの病室へと誘導する。

 じきにその場には、再び萌と幸子、そして健人の三人だけとなった。
「下田さん――お母さん。今のお母さんには、健人君を世話するだけの元気さが足りてないんです。ねえ、ご自身でもお判りでしょう? 自分のことだけで精一杯なことが」
「あたしは、ちゃんとやれてるわ! ちゃんと育ててる!」
 ギラギラと光る目が、萌を射抜く。
 今にも飛びかかってきそうな幸子をしっかりと見つめながら、萌は頷いた。

「そうですね、健人君は優しい、とてもいい子です。賢いし。こんな優しい健人君に育てたのは、お母さんですよね」
「でしょう? だから、ほら、返してよ」

 今度は、猫撫で声。
 激昂から一転して静穏へ。

 その落差が、幸子の精神状態が正常だとは、とてもではないが思わせてはくれなかった。萌に据えられている彼女の両目は、手負いの獣のような狂おしい光を放っている。
 だから、萌は首を振り、同じ言葉を繰り返した。

「いいえ、今のお母さんにはお渡しできないんです。まずは、お母さんが元気になってください。それからです」
 その返事に、幸子は、キッと眉を吊り上げる。

 そして。

 パシン、と、鋭い音が廊下に響き渡る。
 次の瞬間、萌の頬は熱くなり、すぐにそれはジンジンとした痛みに変わった。
 明日には腫れてくるであろうほどの打撃だったけれど、彼女は怯むことなく、ジッと幸子を見つめる。
 冷静な萌に対して、叩いた幸子の方が、目を見開いて呆然としていた。

 多分、いつもそうなのだろうと、萌は思う。

 激情に駆られて健人に手を上げて、彼を傷付けてしまってから後悔して。
 そして自己嫌悪に呑み込まれて酒に溺れて、もっと正しい判断ができなくなる。
 そんな連鎖は外からの手で断ち切ってやらないと、抜け出せやしない。

 言葉のない幸子を、萌は首をかしげて見つめ、説く。
「ねえ、お母さん。わたしたちは、健人君だけを助けようとしているんじゃないんです。健人君だけじゃなくて、お母さんも、助けたいんです」
「あたし……?」
「そうです。お母さんだって本当は解かってらっしゃるんでしょう? このままじゃダメだって」
 そう、このまま突き進めば、先は見えている。それは明るいものには成り得ない。そんなのは、絶対に許せない。

 萌の視線を浴びながら、不意に幸子は、糸が切れた操り人形のようにヘタヘタとその場に座り込んだ。両手を床に突いて、俯いてしまう。
 小さくなったその姿は、彼女の方こそ歩き疲れた幼い子どものようだった。
 萌は振り向いて、健人を見下ろす。
「ごめんね、健人君。ちょっと、手を放してもいい?」
 健人は萌を見て、母親を見て、また萌に視線を戻すと、しっかりと頷いた。萌は、クシャッと彼の頭を撫でてから、そっと手を解く。

「お母さん?」
 膝を突いて、覗き込むようにして萌は囁く。
 幸子は床に縮こまったまま、微動だにしない。
 少しためらった後、萌は彼女の背に手を置いた。今度は、その背がビクリと震える。

「……」

 幸子が、伏せた顔で、くぐもった声を出した。よく聞き取れなくて、萌は耳を近付ける。
「あたし……ダメだから、終わりにしようと思ったのよ? 二人で、もう終わりにしようって。だから、車に乗って、いこうとしたのに……」
 震える声で呟かれたその『終わり』がどんなものなのか、萌は知りたくなかった。これまで家から出したことのない健人を連れて、どこに行こうとしていたのかなど。でも、少なくとも、その『終わり』だけは迎えさせたくないと思う。

「独りきりで頑張ろうとしないで、もっと、色んな人の手を借りましょうよ。お母さんと健人君のことを助けたいと思っている人は、たくさんいるんですよ?」
「助け? ウソよ。健人を取り上げて、あたしを独りにするんだわ」
「違います。独りにはしません。お母さんの方が、こちらの出した手を取ってくれたら」
 萌の言葉に、幸子が顔を上げる。頬は涙でグシャグシャに濡れていて、その目は途方に暮れた色を浮かべていた。

「手……?」
「はい。児童相談所の人たちだって、お母さんと健人君の両方を助ける為に来てるんです。健人君を取り上げることが本当の目的じゃないんです。二人に幸せになってもらおうって、思ってるんです。みんな、お母さんが見てくれるのを、待ってるんですよ?」

「……ホント?」

 彼女が、ぎこちない口調で、短く訊く。それに対して、萌は深く頷いた。
「ええ、絶対に、独りきりにはしません」
「あたし、独りはイヤなの」
「そうですね、わたしも独りはイヤです。誰かに傍にいて欲しい」
「あたしには、もう健人しかいないの」
「だから、二人でちゃんと生きていけるようになりましょうよ。終わりにするんじゃなくて。ね?」
 萌はニコリと微笑む。打たれた左の頬が引きつって痛みを訴えたけれど、構わずに、笑みを浮かべた。
 幸子はその笑顔を亡羊とした表情で見つめ、そして、萌の後ろにいる健人に目を移す。何度か瞬きをして、ようやくそこにいるのが誰なのかが解かったかのように、フッと目の焦点が合った。

「太ったね。普通の子みたくなった」
 そう言って、クシャリと顔を歪める。
「あたし、全然できてなかった。全然、ダメだったんだ」
 ポロポロと涙が零れ落ちていく幸子の頬を見つめながら、萌はそんなことはない、と言ってやりたくなる。子どもを見捨ててしまう親もいるのに、幸子は頑張ろうとしたではないか。
 けれども、萌にはかける為の言葉がなかった。どんなふうに言ってあげたらいいのか、判らない。

 萌は手を上げて、幸子の髪を撫でる。いつか健人が彼女にしてくれたように。

 前髪に触れた手に、幸子が視線を上げる。
「あのね、わたしも、悲しかった時に健人君にこうしてもらいました。健人君には、お母さんがしてあげたんですよね?」
 淡い笑みを浮かべながらそう言うと、幸子が何度か瞬きをした。
「わたし、健人君に元気をもらったんですよ?」
「……そっか……」
 幸子は半分泣き顔のままで微かに笑って、呟くようにポツリとこぼす。そうして、萌の後ろに佇む健人に目を向けた。

「ごめんね、健人」

 萌には、背後にいる健人が幸子のその言葉にどんな反応を見せたのかは見えなかった。けれど、彼女がふと浮かべた表情で、今の健人の顔がどんなものなのかを想像することは、できた。
 萌が立ち上がって、遠くからこちらの様子を窺っていた看護師たちに目をやると、待っていたように一斉に近付いてくる。彼女たちに連れられて、幸子は自分の病棟に帰っていく。
 途中、肩越しに振り返った幸子が健人に小さく手を振って寄越すと、彼は、それに手を上げて応えた。

 健人は幸子の姿が廊下の角を曲がって消えてからも、しばらくそちらを見つめたままだった。やがて小さな溜息をついて、萌を見上げる。彼女の顔を見ると、一瞬目を丸くして自分の頬を指差した。
「あはは。腫れてる? ちょっと痛いや。でも、大丈夫」
 笑うと、余計に痛い。それでも、笑いたい気分だった。
 萌はしゃがんで健人と目の高さを合わせる。
「健人君、お母さんと一緒に頑張ろうね。お母さん、きっとちゃんと帰ってきてくれるから、待ってようね」
 その言葉に、健人も笑って頷いた。そしてたどたどしい口調で、言う。

「うん、まってる」

 萌は満面の笑みを浮かべると、両手を伸ばして健人の髪をクシャクシャにかき混ぜた。
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