42 / 92
第二章:すれちがい
9-2
しおりを挟む
小児科医局にいるのは、一美と祐里香の二人きりだった。彼女はパソコンで学会発表の為のスライドを作っていて、キーボードを叩く音が静かに響いている。
読んでいた学会雑誌を閉じると、一美は何気ない口調で切り出した。こんな女々しい真似はしたくないが、一晩考えてみてもさっぱり解答が見つからなかったのだから、仕方がない。
「ちょっと訊いてもいいか?」
「何ですか?」
手を止めて、祐里香はクルリと椅子を回転させる。一美を見た彼女は、怪訝そうに眉をひそめていた。それも当然のことで、彼が祐里香に『質問』だなんて、恐らく初めてのことだろう。
一美は言葉を選びつつ、問いを投げかけた。
「仮に……仮に、だな。別れ話を切り出して、それをすんなり『はい、そうですか』と受けたとしたら、その女性は何を考えていると思う?」
「小宮山さんと別れたんですか!?」
ズバリと切り替えしてきた祐里香に、一美もまた即答する。
「別れてない」
「じゃ、誰の話です?」
「だから、『仮に』と言っただろう」
小さく咳払いをしながらそう言った一美を、祐里香はどこか愉快そうに見やった。朗といい、彼女といい、何故こうも『お見通し』感があるのだろう。一美は眉間に皺を寄せたが、祐里香はどこ吹く風で答える。
「まあ、それなら『仮に』でいいですけど? ええと、『仮に』、別れ話を切り出したらあっさり『うん』と言われてしまったら?」
彼女はそこで口を閉じ、そして、ニッコリと笑った。
「そりゃ、気がないってことじゃないですか?」
ザックリと切り伏せられ、一美は言葉に詰まる。憮然とした彼を充分に眺めた後、祐里香は思い付いたように付け足した。
「あ、そうそう。私の友達には、別れるのがイヤだから最初から男と付き合わないって子もいましたよ? すっごいネガティブですよね」
『ネガティブ』
萌にはこの上なく似つかわしくない単語だ。
だが、一美は本当にそうだろうかと思い直す。彼女は一見明るく前向きで、この世にイヤなことなど何もない、と言わんばかりだ。にも拘らず、そこにはいつも微かな違和感が付いてまわった。
その違和感の正体を知ることができれば、萌を理解することができるのだろうか。
返事もせずに黙りこんだ一美に、祐里香はやれやれというように首を振りつつパソコンに向き直った。
参考になったような、なっていないような答えをもらって、一美はむっつりと考え込む。
頭を下げて謝れば、恐らく萌はすんなりと聞き入れるだろう。
そして、元通り。
それは本当に『元通り』であって、即ち、また同じことを繰り返すということだ。萌にまとわり付く違和感は消えず、彼女との間に感じる距離も消えない。
萌を理解したいと思う。
その奥にあるものを知って、すれ違うことなく彼女と向き合いたいと、一美は心の底から思う。
それには、恐らく、彼自身も変わらなければならないのだろう。
付き合っている相手のことを理解したいとか、自分を変えなければいけないとか。
そんな考えを持つようになるとは、一美は夢にも思っていなかった。
こんなふうに想う相手に出逢ったことが幸運なのか不運なのかは彼にも判らない。
それでも、萌を手放そうとは思えないのだ。
彼女を傍に置いておく為の方法はまだ手に入れていないままだったが、そう遠くならないうちに迎えに行くのは、彼の中での決定事項だった。
読んでいた学会雑誌を閉じると、一美は何気ない口調で切り出した。こんな女々しい真似はしたくないが、一晩考えてみてもさっぱり解答が見つからなかったのだから、仕方がない。
「ちょっと訊いてもいいか?」
「何ですか?」
手を止めて、祐里香はクルリと椅子を回転させる。一美を見た彼女は、怪訝そうに眉をひそめていた。それも当然のことで、彼が祐里香に『質問』だなんて、恐らく初めてのことだろう。
一美は言葉を選びつつ、問いを投げかけた。
「仮に……仮に、だな。別れ話を切り出して、それをすんなり『はい、そうですか』と受けたとしたら、その女性は何を考えていると思う?」
「小宮山さんと別れたんですか!?」
ズバリと切り替えしてきた祐里香に、一美もまた即答する。
「別れてない」
「じゃ、誰の話です?」
「だから、『仮に』と言っただろう」
小さく咳払いをしながらそう言った一美を、祐里香はどこか愉快そうに見やった。朗といい、彼女といい、何故こうも『お見通し』感があるのだろう。一美は眉間に皺を寄せたが、祐里香はどこ吹く風で答える。
「まあ、それなら『仮に』でいいですけど? ええと、『仮に』、別れ話を切り出したらあっさり『うん』と言われてしまったら?」
彼女はそこで口を閉じ、そして、ニッコリと笑った。
「そりゃ、気がないってことじゃないですか?」
ザックリと切り伏せられ、一美は言葉に詰まる。憮然とした彼を充分に眺めた後、祐里香は思い付いたように付け足した。
「あ、そうそう。私の友達には、別れるのがイヤだから最初から男と付き合わないって子もいましたよ? すっごいネガティブですよね」
『ネガティブ』
萌にはこの上なく似つかわしくない単語だ。
だが、一美は本当にそうだろうかと思い直す。彼女は一見明るく前向きで、この世にイヤなことなど何もない、と言わんばかりだ。にも拘らず、そこにはいつも微かな違和感が付いてまわった。
その違和感の正体を知ることができれば、萌を理解することができるのだろうか。
返事もせずに黙りこんだ一美に、祐里香はやれやれというように首を振りつつパソコンに向き直った。
参考になったような、なっていないような答えをもらって、一美はむっつりと考え込む。
頭を下げて謝れば、恐らく萌はすんなりと聞き入れるだろう。
そして、元通り。
それは本当に『元通り』であって、即ち、また同じことを繰り返すということだ。萌にまとわり付く違和感は消えず、彼女との間に感じる距離も消えない。
萌を理解したいと思う。
その奥にあるものを知って、すれ違うことなく彼女と向き合いたいと、一美は心の底から思う。
それには、恐らく、彼自身も変わらなければならないのだろう。
付き合っている相手のことを理解したいとか、自分を変えなければいけないとか。
そんな考えを持つようになるとは、一美は夢にも思っていなかった。
こんなふうに想う相手に出逢ったことが幸運なのか不運なのかは彼にも判らない。
それでも、萌を手放そうとは思えないのだ。
彼女を傍に置いておく為の方法はまだ手に入れていないままだったが、そう遠くならないうちに迎えに行くのは、彼の中での決定事項だった。
0
お気に入りに追加
215
あなたにおすすめの小説
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。


出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です
流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。
父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。
無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。
純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

元平民の義妹は私の婚約者を狙っている
カレイ
恋愛
伯爵令嬢エミーヌは父親の再婚によって義母とその娘、つまり義妹であるヴィヴィと暮らすこととなった。
最初のうちは仲良く暮らしていたはずなのに、気づけばエミーヌの居場所はなくなっていた。その理由は単純。
「エミーヌお嬢様は平民がお嫌い」だから。
そんな噂が広まったのは、おそらく義母が陰で「あの子が私を母親だと認めてくれないの!やっぱり平民の私じゃ……」とか、義妹が「時々エミーヌに睨まれてる気がするの。私は仲良くしたいのに……」とか言っているからだろう。
そして学園に入学すると義妹はエミーヌの婚約者ロバートへと近づいていくのだった……。
夫と息子は私が守ります!〜呪いを受けた夫とワケあり義息子を守る転生令嬢の奮闘記〜
梵天丸
恋愛
グリーン侯爵家のシャーロットは、妾の子ということで本妻の子たちとは差別化され、不遇な扱いを受けていた。
そんなシャーロットにある日、いわくつきの公爵との結婚の話が舞い込む。
実はシャーロットはバツイチで元保育士の転生令嬢だった。そしてこの物語の舞台は、彼女が愛読していた小説の世界のものだ。原作の小説には4行ほどしか登場しないシャーロットは、公爵との結婚後すぐに離婚し、出戻っていた。しかしその後、シャーロットは30歳年上のやもめ子爵に嫁がされた挙げ句、愛人に殺されるという不遇な脇役だった。
悲惨な末路を避けるためには、何としても公爵との結婚を長続きさせるしかない。
しかし、嫁いだ先の公爵家は、極寒の北国にある上、夫である公爵は魔女の呪いを受けて目が見えない。さらに公爵を始め、公爵家の人たちはシャーロットに対してよそよそしく、いかにも早く出て行って欲しいという雰囲気だった。原作のシャーロットが耐えきれずに離婚した理由が分かる。しかし、実家に戻れば、悲惨な末路が待っている。シャーロットは図々しく居座る計画を立てる。
そんなある日、シャーロットは城の中で公爵にそっくりな子どもと出会う。その子どもは、公爵のことを「お父さん」と呼んだ。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
【完結】私たち白い結婚だったので、離婚してください
楠結衣
恋愛
田舎の薬屋に生まれたエリサは、薬草が大好き。薬草を摘みに出掛けると、怪我をした一匹の子犬を助ける。子犬だと思っていたら、領主の息子の狼獣人ヒューゴだった。
ヒューゴとエリサは、一緒に薬草採取に出掛ける日々を送る。そんなある日、魔王復活の知らせが世界を駆け抜け、神託によりヒューゴが勇者に選ばれることに。
ヒューゴが出立の日、エリサは自身の恋心に気づいてヒューゴに告白したところ二人は即結婚することに……!
「エリサを泣かせるなんて、絶対許さない」
「エリサ、愛してる!」
ちょっぴり鈍感で薬草を愛するヒロインが、一途で愛が重たい変態風味な勇者に溺愛されるお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる