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第二章:すれちがい
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「じゃあ、お疲れさん!」
「お疲れ様でした」
夜勤が明け、萌はリコと声を掛け合って駅前で別れた。今晩は一美の家に行く約束をしているので、それまでに少しやっておきたいことがある。寝ておいた方がいいのは判っているけれど、するべきことを先送りにするのはあまり好きではなかった。
萌は、小さく欠伸を噛み殺す。
徹夜したことは何度もあるから、きっと今晩ももつ筈。
日が高くなり始めた青い空を見上げると、一瞬、クラリとした。
*
六時を少し過ぎた頃になって玄関のインターホンが鳴る。
モニターを見なくても外にいるのが誰なのかは判っているから、一美はそのまま玄関の扉を開いた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
彼の姿を認めて、萌が嬉しそうな笑顔になる。何というか、顔を見ただけでそんな反応を見せられると、どうにも面映い。
一美は身を引いて彼女を玄関に入れてやり、扉を閉めた。
と、萌の足がそこで止まり、うつむいている。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
彼女の視線は、足元――玄関にキレイに揃えて置かれている一組の女性用の靴に向けられている。
「ああ、一度は会わせておこうと思ってな。おいで」
そう言い置いて一美は先に立って歩き出し、ダイニングに入るとカウンター越しにキッチンへ声をかけた。そこでは一人の女性が、甲斐甲斐しく立ち働いている。
「道子さん」
「はい? まあ、その方ですか」
キッチンの中にいた六十代半ばほどのふくよかなその女性は萌に目を留め、笑顔でそう訊いてくる。
一美は後ろにいた萌の背中に手を添えて、エプロンで手を拭きながら出てきた女性に向けて、押し出した。
萌はその中年の女性にペコリと頭を下げると、次いで戸惑ったように一美を振り返る。
「こんばんは……えぇと……」
「彼女は園山道子さんだ。俺が中学を卒業するまで世話をしてくれていた。今は時々こうやって家のことをしに来てくれている。道子さん、こちらは付き合っている女性で、小宮山萌だ」
そっと萌の背に手を添えると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「初めまして、小宮山萌です」
少し緊張気味の萌に、道子は目を細める。
「まあ、フフ、可愛らしい方。はじめまして、園山道子です。一美さんが私にお付き合いしている方を紹介してくださるなんて、初めてじゃないですか。私、一美さんのおしめまで取り替えてたんですよ。それに……」
「道子さん、昔話はいいから、食事の準備に戻ってください」
「まあ。いいですよ、こんなおばさん放っておいて、仲良くお過ごしくださいな」
そう言って話の腰を折った一美を軽く睨み、萌には優しく笑いかけると、彼女はキッチンに戻っていった。
萌を促してソファに腰掛けると、すぐに道子がコーヒーを載せた盆を手にやってくる。一美と萌の前にそれぞれコーヒーをおろすと、またニッコリと笑顔になった。
「じゃあ、おじゃまさま。食事ができたら声をおかけしますよ。ああ、一美さんがおいたをしたら、声をお上げなさいな。ちゃんと叱ってあげますから」
イタズラっぽくそう残して去って行く道子の背中を見送って、萌がクスクスと笑う。久し振りに見る仕事場以外での寛いだ彼女に、一美の頬も自然と緩んだ。
「優しそうな人ですね。お手伝いさんとか、ですか?」
「というより、ベビーシッターだな。うちは両親が働いていたから、俺の面倒を彼女に頼んでいたんだ。ある程度成長したら、家政婦になったが」
「ご両親もお医者さんですか?」
「ああ、まあな。忙しくしている」
肩をすくめて、一美は短く答える。彼の家族については、それほど話す事はない。
早々に切り上げて、他の話題へと転向する。
「君の担当のあの子は、どんな調子だ? 時々見かけると、体重は増えてきたようだが」
「健人君ですか? はい! 元気になってきました。最近は、何となく、笑ったような顔をしてくれることもあるんです。お話はまだしてくれないんだけど……でも、そのうち、おしゃべりもしてくれるようになると思うんです」
目を輝かせてそう話す萌は、心の底から嬉しそうだ。
一美と一緒にいても滅多に見せることのない喜びに満ち満ちた表情に、彼は少し――本当にほんの少しだけ、複雑な心境になったが、まあ萌が良いのならそれでいいかとも思う。
「もう、施設に行く日にちや受け入れ先も決まってきているんだろう?」
「はい。さよならになってしまうけど……健人君にとっては、良いことですから」
「そうか……寂しくないのか?」
「え、あ……寂しい、ですよ?」
一美は隣に座る彼女を横目で見下ろしたが、そんなふうには見えない。
あれほど可愛がっていても、別れはあまりつらいものではないようだった。自分の寂しさよりも彼の幸せを……というよりも、もっと単純に、彼が幸せならそれでいい、という感じだ。そこには、彼女自身がどう感じているかということは、含まれていない気がする。
何となく胸の奥がざわついて、一美は萌の方に腕を回して引き寄せた。
「先生?」
道子が近くにいるというのに突然抱き寄せられた萌は、戸惑ったように彼を見上げてくる。こんなふうに距離を縮めても、彼女を手に入れている気持ちにはなれないのは、何故なのだろう。
ふと、朗との遣り取りを思い出した。
彼が言うようにしたら、もっと萌を近くに感じることができるようになるのだろうか。
――こうやって抱き締めるだけではなく、もっと、深く触れ合えば。
知らずのうちに手に力が入っていたのか、萌が身じろぎする。
「ああ、悪い」
呟いて、力を緩めた。
「先生、どうかしたんですか?」
「……いや、別に」
怪訝そうな眼差しで一美を見上げてくる萌に、首を振る。そして、頭を下げて彼女の唇に軽いキスを落とす。
「……道子さんが、いるのに……」
「料理に夢中で気付かないさ。それに、ソファの背で隠れて見えやしない」
そう答えて、もう一度顔を寄せたが、小さな手で押しやられた。
「ダメですよ」
萌は両手を突っ張って一美から身体を離すと、子ども達をたしなめる時のような眼差しで彼を睨み付けてくる。
「先生、何か変ですよ」
「そうか? 普通だろ」
「そうかなぁ……」
一美は小さく笑いをこぼして、もう一度彼女を引き寄せる。萌が諦めたように小さく息をつくと、身体の力を抜いたのが判った。
そこに、タイミングよく道子の声がかかる。
「さあ、お夕飯ができましたよ。仲が良いのはいいですが、先に食べちゃってくださいな」
その瞬間、パッと萌の頬に朱が散って、弾かれたように一美から身を引き剥がした。
やれやれと腰を上げると、一美は萌の手を取って立ち上がらせる。
「行こうか。彼女の食事は美味いよ」
取り敢えずは、腹ごしらえだった。
「お疲れ様でした」
夜勤が明け、萌はリコと声を掛け合って駅前で別れた。今晩は一美の家に行く約束をしているので、それまでに少しやっておきたいことがある。寝ておいた方がいいのは判っているけれど、するべきことを先送りにするのはあまり好きではなかった。
萌は、小さく欠伸を噛み殺す。
徹夜したことは何度もあるから、きっと今晩ももつ筈。
日が高くなり始めた青い空を見上げると、一瞬、クラリとした。
*
六時を少し過ぎた頃になって玄関のインターホンが鳴る。
モニターを見なくても外にいるのが誰なのかは判っているから、一美はそのまま玄関の扉を開いた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
彼の姿を認めて、萌が嬉しそうな笑顔になる。何というか、顔を見ただけでそんな反応を見せられると、どうにも面映い。
一美は身を引いて彼女を玄関に入れてやり、扉を閉めた。
と、萌の足がそこで止まり、うつむいている。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
彼女の視線は、足元――玄関にキレイに揃えて置かれている一組の女性用の靴に向けられている。
「ああ、一度は会わせておこうと思ってな。おいで」
そう言い置いて一美は先に立って歩き出し、ダイニングに入るとカウンター越しにキッチンへ声をかけた。そこでは一人の女性が、甲斐甲斐しく立ち働いている。
「道子さん」
「はい? まあ、その方ですか」
キッチンの中にいた六十代半ばほどのふくよかなその女性は萌に目を留め、笑顔でそう訊いてくる。
一美は後ろにいた萌の背中に手を添えて、エプロンで手を拭きながら出てきた女性に向けて、押し出した。
萌はその中年の女性にペコリと頭を下げると、次いで戸惑ったように一美を振り返る。
「こんばんは……えぇと……」
「彼女は園山道子さんだ。俺が中学を卒業するまで世話をしてくれていた。今は時々こうやって家のことをしに来てくれている。道子さん、こちらは付き合っている女性で、小宮山萌だ」
そっと萌の背に手を添えると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「初めまして、小宮山萌です」
少し緊張気味の萌に、道子は目を細める。
「まあ、フフ、可愛らしい方。はじめまして、園山道子です。一美さんが私にお付き合いしている方を紹介してくださるなんて、初めてじゃないですか。私、一美さんのおしめまで取り替えてたんですよ。それに……」
「道子さん、昔話はいいから、食事の準備に戻ってください」
「まあ。いいですよ、こんなおばさん放っておいて、仲良くお過ごしくださいな」
そう言って話の腰を折った一美を軽く睨み、萌には優しく笑いかけると、彼女はキッチンに戻っていった。
萌を促してソファに腰掛けると、すぐに道子がコーヒーを載せた盆を手にやってくる。一美と萌の前にそれぞれコーヒーをおろすと、またニッコリと笑顔になった。
「じゃあ、おじゃまさま。食事ができたら声をおかけしますよ。ああ、一美さんがおいたをしたら、声をお上げなさいな。ちゃんと叱ってあげますから」
イタズラっぽくそう残して去って行く道子の背中を見送って、萌がクスクスと笑う。久し振りに見る仕事場以外での寛いだ彼女に、一美の頬も自然と緩んだ。
「優しそうな人ですね。お手伝いさんとか、ですか?」
「というより、ベビーシッターだな。うちは両親が働いていたから、俺の面倒を彼女に頼んでいたんだ。ある程度成長したら、家政婦になったが」
「ご両親もお医者さんですか?」
「ああ、まあな。忙しくしている」
肩をすくめて、一美は短く答える。彼の家族については、それほど話す事はない。
早々に切り上げて、他の話題へと転向する。
「君の担当のあの子は、どんな調子だ? 時々見かけると、体重は増えてきたようだが」
「健人君ですか? はい! 元気になってきました。最近は、何となく、笑ったような顔をしてくれることもあるんです。お話はまだしてくれないんだけど……でも、そのうち、おしゃべりもしてくれるようになると思うんです」
目を輝かせてそう話す萌は、心の底から嬉しそうだ。
一美と一緒にいても滅多に見せることのない喜びに満ち満ちた表情に、彼は少し――本当にほんの少しだけ、複雑な心境になったが、まあ萌が良いのならそれでいいかとも思う。
「もう、施設に行く日にちや受け入れ先も決まってきているんだろう?」
「はい。さよならになってしまうけど……健人君にとっては、良いことですから」
「そうか……寂しくないのか?」
「え、あ……寂しい、ですよ?」
一美は隣に座る彼女を横目で見下ろしたが、そんなふうには見えない。
あれほど可愛がっていても、別れはあまりつらいものではないようだった。自分の寂しさよりも彼の幸せを……というよりも、もっと単純に、彼が幸せならそれでいい、という感じだ。そこには、彼女自身がどう感じているかということは、含まれていない気がする。
何となく胸の奥がざわついて、一美は萌の方に腕を回して引き寄せた。
「先生?」
道子が近くにいるというのに突然抱き寄せられた萌は、戸惑ったように彼を見上げてくる。こんなふうに距離を縮めても、彼女を手に入れている気持ちにはなれないのは、何故なのだろう。
ふと、朗との遣り取りを思い出した。
彼が言うようにしたら、もっと萌を近くに感じることができるようになるのだろうか。
――こうやって抱き締めるだけではなく、もっと、深く触れ合えば。
知らずのうちに手に力が入っていたのか、萌が身じろぎする。
「ああ、悪い」
呟いて、力を緩めた。
「先生、どうかしたんですか?」
「……いや、別に」
怪訝そうな眼差しで一美を見上げてくる萌に、首を振る。そして、頭を下げて彼女の唇に軽いキスを落とす。
「……道子さんが、いるのに……」
「料理に夢中で気付かないさ。それに、ソファの背で隠れて見えやしない」
そう答えて、もう一度顔を寄せたが、小さな手で押しやられた。
「ダメですよ」
萌は両手を突っ張って一美から身体を離すと、子ども達をたしなめる時のような眼差しで彼を睨み付けてくる。
「先生、何か変ですよ」
「そうか? 普通だろ」
「そうかなぁ……」
一美は小さく笑いをこぼして、もう一度彼女を引き寄せる。萌が諦めたように小さく息をつくと、身体の力を抜いたのが判った。
そこに、タイミングよく道子の声がかかる。
「さあ、お夕飯ができましたよ。仲が良いのはいいですが、先に食べちゃってくださいな」
その瞬間、パッと萌の頬に朱が散って、弾かれたように一美から身を引き剥がした。
やれやれと腰を上げると、一美は萌の手を取って立ち上がらせる。
「行こうか。彼女の食事は美味いよ」
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