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第二章:すれちがい
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午後のひと時、看護師控え室では数名がお菓子を前に休憩に入っていた。
メンバーは萌とリコ、それにベテランの川西と萌よりも一年先輩の伊東の四人で、和気藹々と取り留めのない雑談を交わしていた。
「この間、彼氏が夜勤明けにデートに誘ってきたんですよね。そんなの、無理じゃないですか。もう、ゆっくり寝かせてよって感じで。そうしたら、彼、怒っちゃって。メールしても返事くれないんですよ? 子どもっていうか、何ていうか」
伊東の愚痴に、リコが頷く。
「そうそう、そんな事言ったって、疲れてるんだからしょうがないじゃないってね」
「男なんてそんなもんよぉ。結婚してみなさいな、大きな息子ができるようなものなんだから」
「川西さんって、結婚何年目ですか?」
「二十年くらいね」
「長いですねぇ」
「でしょ? 若い頃は、夜勤で夜に家を留守にしたりすると、結構拗ねてたわ」
「仕事なのに?」
「そうなのよ。ホント、子どもでしょ?」
呆れたようなリコに、川西がカラカラと笑った。
「まあ、でもねぇ、やきもち妬いてくれるうちがハナよ? 今じゃ何にも言わないわ。もう、女としては見られてないって感じ」
「確かに、放置されると寂しいかもです」
「程々がいいですよね」
川西の言葉に伊東とリコが賛同すると、三人は互いに顔を見合わせて頷く。それは共感に満ちた笑みだったが、そこの場で、彼女たちのやり取りに、一人、萌は入り込めずにいた。
何となく、リコたちの会話が心のどこかに引っかかる。
――何も言わないのは、わたしの為、だよね?
手元のコーヒーに視線を落として、心の中でそう呟く。自問というよりも、確認したかった。
ふと振り返ってみると、もう二週間ほど一美と会話らしい会話をしていない気がする。仕事以外のことを話したのは、この間、彼が抱き締めてくれたあの時くらいかもしれない。触れ合ったのも、そうだ。
でも、一美は何も言ってこない。
それはきっと、萌のやりたいことをさせようとしてくれているのに違いない。そう思うのに。
今の三人の会話を耳にするまでは全然疑っていなかったことが、ちょっと揺らいでしまう。
「あれ、萌? どうかした?」
黙りこくっている萌を、リコが怪訝そうな顔で覗き込む。
「あ、何でもないです。ちょっと考え事を。わたし、そろそろ行かないと」
「え? 休憩時間、まだ残ってるけど」
「健人君に、絵本を読んであげる約束してるんです」
「休み時間使って?」
眉をひそめたリコに、萌は慌てて首を振る。
「仕事っていうわけじゃないですから。……ですよね?」
「あんたは、また……」
「まずいですか? 勤務既定に引っかかっちゃいますか?」
ハタとその可能性に思い当たって、萌は眉をひそめて確かめるようにそう訊ねた。リコは渋い顔でかぶりを振る。
「そういうんじゃないんだけどさ。よく岩崎先生が黙ってるね――って、もしかして……最近、プライベートで逢ってないの?」
「え、あ、はい……」
ハッと気付いたようにそう訊いてきたリコに、思わず萌は素直に頷いてしまう。彼女のその反応に、リコは渋面になって溜息をついた。
「まったく、あの人、何考えてんだろ。もっとガッチリ捕まえとけってのよね。何か勘違いしてるわ」
ブツブツと呟く声の意味は、萌にはよく理解できなかった。が、一美が悪く言われているようなのは、確かな気がする。
「あの、岩崎先生はわたしがしたいことをさせてくれてるだけですよ?」
「そんな張り合いのないの、彼氏失格でしょ。あんたも、仕事熱心なのはいいけど、もっと違うものにも重きを置きなさいよ」
ビシッと人差し指を突き付けてくるリコに、萌は恐る恐る答える。
「でも、仕事、大事ですよね?」
「大事だけど、それを一番にするのはどうよ」
「一番っていうわけじゃ……」
「でも、彼氏が二の次なんでしょ?」
二の次に、しているのだろうか――しているのかもしれない。でも、今はそれでも仕方がないと思う。
黙り込んだ萌に、リコは「まさか」という顔で訊いてきた。
「この二週間、連絡取らずってことはないよね?」
その時の萌の顔は言葉よりも雄弁で、リコは「信じられない」と言わんばかりにぐるりと目を回す。
「せめてメールぐらいは送ってやりなさいよ」
「でも、用がないですよ?」
「用がなくても何でもいいのよ。今何してる? とか、わたしご飯食べてるよ、とか」
「そんなことで、いいんですか?」
「いいの! 彼氏彼女の間なら、そういうくだらない会話でもいいのよ。許されるの」
自ら『くだらない』と言い切って力説するリコを、伊東が後押しする。
「あたしも、めっちゃどうでもいいこと送ったりしますよ。今観てるテレビウケる、とか。そこから会話が始まったりしますもん。気付いたら、一時間くらい経ってたり」
「でしょ? 会える時間がないだけ、やることはやらないと、だよね」
盛り上がるリコと伊東に、萌はポツンと置き去りにされた気分になる。誰かと付き合ったことも、誰かが付き合っている話も、今まで耳にすることがなかった萌には、その分野における『常識』が足りないのかもしれない。
「そんなもんですか……」
「そう、そんなもん。ていうか、マメに連絡取っておかないと、相手はあの岩崎先生なんだからさぁ。もっと、自分のことアピールしないと」
「判りました、やってみます」
萌はコクリと頷く。そして、今度こそ立ち上がった。
「もう行かないと。健人君と、約束してるんです」
「わかった、わかった。でも、ホントに、あの子に掛ける気持ちの十分の一くらいは、岩崎先生にも向けてあげなさいよ?」
「はい……じゃぁ、お先に失礼します」
そう言ってペコンと頭を下げて、萌は控室を後にした。途中でプレイルームに寄って絵本を仕入れることを忘れずに、健人の病室へと向かう。
道中で、リコの言ったことを反芻しながら。
健人に向ける気持ちと、一美に向ける気持ちとは、全然違うものだ。健人に掛ける気持ちの十分の一、と言われてもどう分けていいのか判らない。そもそも、萌は一美を必要としているけれども、多分、一美はそうではないだろうし。「ご飯食べてます」なんていうメールに彼が応じている姿なんて、想像できなかった。
やっぱり、しない方がいいような気がする。
病棟の廊下は短くて、そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、すぐに健人の病室に到着してしまう。その扉の前で萌は深呼吸一つして頭を切り替えて、部屋のドアをノックした。
「健人君、絵本だよ」
顔を覗かせると、彼はベッドの上でお絵描きをしていた手を止めて視線を上げてきた。この二週間で随分と子どもらしい丸みを取り戻した頬が、微かに緩む。そんなわずかな表情の変化を見せてくれるようになったのは、ようやく最近のことだ。それに、前は触れられるのも嫌がっていたけれど、それも薄れつつある。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった。待った?」
萌の言葉に、健人は声なく首を振る。言葉で受け答えしてくれることはまだないけれど、こうやって、頷いたりすることで意思表示をするようにはなってきていた。
「何描いたの?」
声をかけながら萌はベッドに歩み寄り、スケッチブックを覗き込む。そこにあるのは、黒と茶色と紫と――そんな色ばかりで描かれた、二人の人の姿だ。紙面の両端に佇む、一人は小さく、もう一人はそれよりも大きい。大きな方の人の顔は、グリグリと塗り潰されていた。健人の世界に住む『大きい人間』は限られている。
「健人君と……お母さんかな」
頭と、身体と、手足と。それがあるから辛うじて『人』だと判断できる、稚拙な、絵。暗い色で、見ていると、どこかを切り裂かれるような痛みが込み上げてくる。健人は首を縦にも横にも振ることなく、その絵をジッと見つめるだけだ。
健人自身、特に深く考えてその絵を描いたわけではないのだろう。ただ、思いつくままに手を動かしただけで。
「絵本、読もっか」
萌がそう声をかけると、彼はいそいそとスケッチブックやクレヨンを片付け始める。
持ってきたのは、健人が描いた絵とは対照的な、明るく温かな色合いのものだ。冒険を夢見て旅に出た男の子が、世界のあちこちを回って最後には家に帰ってくる、というストーリーで、健人くらいの年の男の子たちには人気がある。
健人も男の子が色々なものを見聞きするシーンでは、目を輝かせて絵本に見入っていた。その顔に、やっぱり男の子だなぁと萌は内心で笑みを漏らす。
「……そうしてマルクはお家に帰ってきました。扉を開けて飛び込むと、元気良く言いました。『ただいま!』 その声で振り返ったお母さんは目に涙を溜めてマルクを抱きしめました。大好きなお母さんはとってもいいにおいです。マルクはもう一度言いました。『ただいま』 そうして、ぎゅっと抱きついたのです。おしまい」
読み終えた萌は、本から視線を上げる。と、健人は顔を強張らせてジッと一点を――その絵を、睨み付けていた。
「健人君?」
名前を呼んでも、彼は萌を見ようとしない。ハッと、彼女は気付く。
――ああ、そうか。
萌はもう一度絵本に目を落とす。
そこに描かれているのは、子どもを抱き締める母親の絵。
この本を選んだのは間違いだったのだろうかと思いかけて、萌は心の中で首を振る。健人を色々なものから遠ざけることが正しい方法だとは、思えない。
「ねえ、健人君?」
名前を呼びながら、萌は彼の両頬を手のひらで包んで俯いたままの顔を上げさせる。覗き込んだその目にあるのは暗い闇の色だ。
「お母さんは、優しい?」
その問いに応えはない。
「お母さん、前は優しかった?」
今度は、健人の目が微かに揺れる。そして、少しの逡巡の後、微かに頷いた。
多分、本当にいい母親だったに違いない――生活に疲れ、酒に溺れるまでは。
萌は、ふと思った。
健人の母親の幸子は、彼を家から一歩も出していなかった。なのに、二人で車に乗って、いったいどこに行くつもりだったのだろう。どこを――何を目指していたのだろうか。
その時、一瞬だけ頭の中をよぎった考えを、萌は打ち消した。もしかしたら、事故を起こしたのは幸運だったのかもしれない。
萌は健人の視線をしっかりと捉えて、彼の中に深く染みとおるようにゆっくりと語りかけた。
「ねえ、健人君。お母さんはね、ホントはやっぱり優しいんだよ? でもね、今はちょっと疲れちゃってるの。疲れちゃってるとね、いろんなことが上手にできなくなっちゃうの。ちょっとの間、お母さんを休ませてあげようね? 元気になったら、また、前の優しいお母さんになるよ、きっと」
健人の眼差しは変わらない。ほんの少しだけ目の奥に小さな光がちらついたように見えたけれども、それはすぐに消え去ってしまった。
萌は、無性に健人を抱き締めたくて仕方がなくなる。抱き締めて、自分の中にあるモヤモヤした気持ちを、伝えたくなったのだ。
そうする代わりに、手を伸ばして彼の頭をクシャクシャと撫でる。
「さ、わたしはお仕事に戻らなきゃ」
立ち上がった萌を、健人は目で追いかけた。
「また後で来るからね」
笑顔を投げて部屋を出る。そして、扉を閉めると共にその笑みは消えた。
健人が親から離されて保護施設に入れられることは、もうほぼ決定事項になりつつある。けれど、きっといつかはまた一緒になれる筈だ――幸子がアルコール依存症を克服し、健人が彼女を受け入れれば。
萌は、その日が来ると信じたい。
(ううん、きっと、来る)
そう頷いて、歩き出す。
しばらく廊下を進んでから、ハタと先ほどの自分の気持ちを思い出した。
健人を無性に抱き締めたくなった、あの気持ちを。
思えば、一美も突然前触れなく萌を抱き締めてくることがある。もしかしたら、今の自分と同じ心境なのだろうかと、思った。言葉はなく、ただ抱き締めて温もりを感じ、温もりを与えたい、それだけ。
けれど、もしも自分と同じ気持ちで抱き締めてくるのなら、萌が健人に向ける想いと一美が萌に向ける想いとは、同じものなのだろうか。
――何だか、複雑な心境だ。
萌と健人の年齢差は十六歳。
萌と一美の年齢差は十二歳。
一美からしたら、萌のことなんて幼い子どものように見えているのかもしれない。
そう思ったら、地味に落ち込んだ。
年齢差が無ければ対等になれるのかと言えば、そうとは限らない気もするけれど、それでも、物理的に年が近ければもう少し何かが違っているのではないかと思ってしまう。
若干視線を落としつつ歩く萌は、ナースステーションの少し手前で、背後から呼び止められた。
「小宮山さん」
その声に、ドキリとする。一拍置いて、声の方へと向き直った。
少し離れたところにいた彼は、立ち止まった萌に足早に近付いてくる。
「岩崎先生」
目の前に立つ彼を見上げて応えた萌を、一美は渋い顔で見下ろしてきた。何故そんな顔をされるのかが判らず、中途半端な笑顔になってしまう。
愛想笑いがバレたのか、彼は余計に渋面になった。
一美の手が上がり、指先が萌の頬に触れる。と、かすめた程度でハタと我に返ったように彼はその手を止め、また下ろした。
そして、唐突に言い出す。
「明後日、うちにおいで」
「え?」
「その次の日は休みだろう? 久し振りに、うちで食事をしよう」
「あ、はい……」
お誘いなのに、何故にそんな顔なのかと思いつつも、萌は承諾の返事をする。彼は「よし」というふうに頷きを返してきた。
「じゃあ、また」
素っ気無くそう言って、一美は去って行く。その後姿を見送りながら、彼の指先の感触が微かに残る頬に手をやった。
わずかに留まっていた温もりは、もう、残っていない。
萌は何と無しに溜息をついて、本来の仕事に戻った。
メンバーは萌とリコ、それにベテランの川西と萌よりも一年先輩の伊東の四人で、和気藹々と取り留めのない雑談を交わしていた。
「この間、彼氏が夜勤明けにデートに誘ってきたんですよね。そんなの、無理じゃないですか。もう、ゆっくり寝かせてよって感じで。そうしたら、彼、怒っちゃって。メールしても返事くれないんですよ? 子どもっていうか、何ていうか」
伊東の愚痴に、リコが頷く。
「そうそう、そんな事言ったって、疲れてるんだからしょうがないじゃないってね」
「男なんてそんなもんよぉ。結婚してみなさいな、大きな息子ができるようなものなんだから」
「川西さんって、結婚何年目ですか?」
「二十年くらいね」
「長いですねぇ」
「でしょ? 若い頃は、夜勤で夜に家を留守にしたりすると、結構拗ねてたわ」
「仕事なのに?」
「そうなのよ。ホント、子どもでしょ?」
呆れたようなリコに、川西がカラカラと笑った。
「まあ、でもねぇ、やきもち妬いてくれるうちがハナよ? 今じゃ何にも言わないわ。もう、女としては見られてないって感じ」
「確かに、放置されると寂しいかもです」
「程々がいいですよね」
川西の言葉に伊東とリコが賛同すると、三人は互いに顔を見合わせて頷く。それは共感に満ちた笑みだったが、そこの場で、彼女たちのやり取りに、一人、萌は入り込めずにいた。
何となく、リコたちの会話が心のどこかに引っかかる。
――何も言わないのは、わたしの為、だよね?
手元のコーヒーに視線を落として、心の中でそう呟く。自問というよりも、確認したかった。
ふと振り返ってみると、もう二週間ほど一美と会話らしい会話をしていない気がする。仕事以外のことを話したのは、この間、彼が抱き締めてくれたあの時くらいかもしれない。触れ合ったのも、そうだ。
でも、一美は何も言ってこない。
それはきっと、萌のやりたいことをさせようとしてくれているのに違いない。そう思うのに。
今の三人の会話を耳にするまでは全然疑っていなかったことが、ちょっと揺らいでしまう。
「あれ、萌? どうかした?」
黙りこくっている萌を、リコが怪訝そうな顔で覗き込む。
「あ、何でもないです。ちょっと考え事を。わたし、そろそろ行かないと」
「え? 休憩時間、まだ残ってるけど」
「健人君に、絵本を読んであげる約束してるんです」
「休み時間使って?」
眉をひそめたリコに、萌は慌てて首を振る。
「仕事っていうわけじゃないですから。……ですよね?」
「あんたは、また……」
「まずいですか? 勤務既定に引っかかっちゃいますか?」
ハタとその可能性に思い当たって、萌は眉をひそめて確かめるようにそう訊ねた。リコは渋い顔でかぶりを振る。
「そういうんじゃないんだけどさ。よく岩崎先生が黙ってるね――って、もしかして……最近、プライベートで逢ってないの?」
「え、あ、はい……」
ハッと気付いたようにそう訊いてきたリコに、思わず萌は素直に頷いてしまう。彼女のその反応に、リコは渋面になって溜息をついた。
「まったく、あの人、何考えてんだろ。もっとガッチリ捕まえとけってのよね。何か勘違いしてるわ」
ブツブツと呟く声の意味は、萌にはよく理解できなかった。が、一美が悪く言われているようなのは、確かな気がする。
「あの、岩崎先生はわたしがしたいことをさせてくれてるだけですよ?」
「そんな張り合いのないの、彼氏失格でしょ。あんたも、仕事熱心なのはいいけど、もっと違うものにも重きを置きなさいよ」
ビシッと人差し指を突き付けてくるリコに、萌は恐る恐る答える。
「でも、仕事、大事ですよね?」
「大事だけど、それを一番にするのはどうよ」
「一番っていうわけじゃ……」
「でも、彼氏が二の次なんでしょ?」
二の次に、しているのだろうか――しているのかもしれない。でも、今はそれでも仕方がないと思う。
黙り込んだ萌に、リコは「まさか」という顔で訊いてきた。
「この二週間、連絡取らずってことはないよね?」
その時の萌の顔は言葉よりも雄弁で、リコは「信じられない」と言わんばかりにぐるりと目を回す。
「せめてメールぐらいは送ってやりなさいよ」
「でも、用がないですよ?」
「用がなくても何でもいいのよ。今何してる? とか、わたしご飯食べてるよ、とか」
「そんなことで、いいんですか?」
「いいの! 彼氏彼女の間なら、そういうくだらない会話でもいいのよ。許されるの」
自ら『くだらない』と言い切って力説するリコを、伊東が後押しする。
「あたしも、めっちゃどうでもいいこと送ったりしますよ。今観てるテレビウケる、とか。そこから会話が始まったりしますもん。気付いたら、一時間くらい経ってたり」
「でしょ? 会える時間がないだけ、やることはやらないと、だよね」
盛り上がるリコと伊東に、萌はポツンと置き去りにされた気分になる。誰かと付き合ったことも、誰かが付き合っている話も、今まで耳にすることがなかった萌には、その分野における『常識』が足りないのかもしれない。
「そんなもんですか……」
「そう、そんなもん。ていうか、マメに連絡取っておかないと、相手はあの岩崎先生なんだからさぁ。もっと、自分のことアピールしないと」
「判りました、やってみます」
萌はコクリと頷く。そして、今度こそ立ち上がった。
「もう行かないと。健人君と、約束してるんです」
「わかった、わかった。でも、ホントに、あの子に掛ける気持ちの十分の一くらいは、岩崎先生にも向けてあげなさいよ?」
「はい……じゃぁ、お先に失礼します」
そう言ってペコンと頭を下げて、萌は控室を後にした。途中でプレイルームに寄って絵本を仕入れることを忘れずに、健人の病室へと向かう。
道中で、リコの言ったことを反芻しながら。
健人に向ける気持ちと、一美に向ける気持ちとは、全然違うものだ。健人に掛ける気持ちの十分の一、と言われてもどう分けていいのか判らない。そもそも、萌は一美を必要としているけれども、多分、一美はそうではないだろうし。「ご飯食べてます」なんていうメールに彼が応じている姿なんて、想像できなかった。
やっぱり、しない方がいいような気がする。
病棟の廊下は短くて、そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、すぐに健人の病室に到着してしまう。その扉の前で萌は深呼吸一つして頭を切り替えて、部屋のドアをノックした。
「健人君、絵本だよ」
顔を覗かせると、彼はベッドの上でお絵描きをしていた手を止めて視線を上げてきた。この二週間で随分と子どもらしい丸みを取り戻した頬が、微かに緩む。そんなわずかな表情の変化を見せてくれるようになったのは、ようやく最近のことだ。それに、前は触れられるのも嫌がっていたけれど、それも薄れつつある。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった。待った?」
萌の言葉に、健人は声なく首を振る。言葉で受け答えしてくれることはまだないけれど、こうやって、頷いたりすることで意思表示をするようにはなってきていた。
「何描いたの?」
声をかけながら萌はベッドに歩み寄り、スケッチブックを覗き込む。そこにあるのは、黒と茶色と紫と――そんな色ばかりで描かれた、二人の人の姿だ。紙面の両端に佇む、一人は小さく、もう一人はそれよりも大きい。大きな方の人の顔は、グリグリと塗り潰されていた。健人の世界に住む『大きい人間』は限られている。
「健人君と……お母さんかな」
頭と、身体と、手足と。それがあるから辛うじて『人』だと判断できる、稚拙な、絵。暗い色で、見ていると、どこかを切り裂かれるような痛みが込み上げてくる。健人は首を縦にも横にも振ることなく、その絵をジッと見つめるだけだ。
健人自身、特に深く考えてその絵を描いたわけではないのだろう。ただ、思いつくままに手を動かしただけで。
「絵本、読もっか」
萌がそう声をかけると、彼はいそいそとスケッチブックやクレヨンを片付け始める。
持ってきたのは、健人が描いた絵とは対照的な、明るく温かな色合いのものだ。冒険を夢見て旅に出た男の子が、世界のあちこちを回って最後には家に帰ってくる、というストーリーで、健人くらいの年の男の子たちには人気がある。
健人も男の子が色々なものを見聞きするシーンでは、目を輝かせて絵本に見入っていた。その顔に、やっぱり男の子だなぁと萌は内心で笑みを漏らす。
「……そうしてマルクはお家に帰ってきました。扉を開けて飛び込むと、元気良く言いました。『ただいま!』 その声で振り返ったお母さんは目に涙を溜めてマルクを抱きしめました。大好きなお母さんはとってもいいにおいです。マルクはもう一度言いました。『ただいま』 そうして、ぎゅっと抱きついたのです。おしまい」
読み終えた萌は、本から視線を上げる。と、健人は顔を強張らせてジッと一点を――その絵を、睨み付けていた。
「健人君?」
名前を呼んでも、彼は萌を見ようとしない。ハッと、彼女は気付く。
――ああ、そうか。
萌はもう一度絵本に目を落とす。
そこに描かれているのは、子どもを抱き締める母親の絵。
この本を選んだのは間違いだったのだろうかと思いかけて、萌は心の中で首を振る。健人を色々なものから遠ざけることが正しい方法だとは、思えない。
「ねえ、健人君?」
名前を呼びながら、萌は彼の両頬を手のひらで包んで俯いたままの顔を上げさせる。覗き込んだその目にあるのは暗い闇の色だ。
「お母さんは、優しい?」
その問いに応えはない。
「お母さん、前は優しかった?」
今度は、健人の目が微かに揺れる。そして、少しの逡巡の後、微かに頷いた。
多分、本当にいい母親だったに違いない――生活に疲れ、酒に溺れるまでは。
萌は、ふと思った。
健人の母親の幸子は、彼を家から一歩も出していなかった。なのに、二人で車に乗って、いったいどこに行くつもりだったのだろう。どこを――何を目指していたのだろうか。
その時、一瞬だけ頭の中をよぎった考えを、萌は打ち消した。もしかしたら、事故を起こしたのは幸運だったのかもしれない。
萌は健人の視線をしっかりと捉えて、彼の中に深く染みとおるようにゆっくりと語りかけた。
「ねえ、健人君。お母さんはね、ホントはやっぱり優しいんだよ? でもね、今はちょっと疲れちゃってるの。疲れちゃってるとね、いろんなことが上手にできなくなっちゃうの。ちょっとの間、お母さんを休ませてあげようね? 元気になったら、また、前の優しいお母さんになるよ、きっと」
健人の眼差しは変わらない。ほんの少しだけ目の奥に小さな光がちらついたように見えたけれども、それはすぐに消え去ってしまった。
萌は、無性に健人を抱き締めたくて仕方がなくなる。抱き締めて、自分の中にあるモヤモヤした気持ちを、伝えたくなったのだ。
そうする代わりに、手を伸ばして彼の頭をクシャクシャと撫でる。
「さ、わたしはお仕事に戻らなきゃ」
立ち上がった萌を、健人は目で追いかけた。
「また後で来るからね」
笑顔を投げて部屋を出る。そして、扉を閉めると共にその笑みは消えた。
健人が親から離されて保護施設に入れられることは、もうほぼ決定事項になりつつある。けれど、きっといつかはまた一緒になれる筈だ――幸子がアルコール依存症を克服し、健人が彼女を受け入れれば。
萌は、その日が来ると信じたい。
(ううん、きっと、来る)
そう頷いて、歩き出す。
しばらく廊下を進んでから、ハタと先ほどの自分の気持ちを思い出した。
健人を無性に抱き締めたくなった、あの気持ちを。
思えば、一美も突然前触れなく萌を抱き締めてくることがある。もしかしたら、今の自分と同じ心境なのだろうかと、思った。言葉はなく、ただ抱き締めて温もりを感じ、温もりを与えたい、それだけ。
けれど、もしも自分と同じ気持ちで抱き締めてくるのなら、萌が健人に向ける想いと一美が萌に向ける想いとは、同じものなのだろうか。
――何だか、複雑な心境だ。
萌と健人の年齢差は十六歳。
萌と一美の年齢差は十二歳。
一美からしたら、萌のことなんて幼い子どものように見えているのかもしれない。
そう思ったら、地味に落ち込んだ。
年齢差が無ければ対等になれるのかと言えば、そうとは限らない気もするけれど、それでも、物理的に年が近ければもう少し何かが違っているのではないかと思ってしまう。
若干視線を落としつつ歩く萌は、ナースステーションの少し手前で、背後から呼び止められた。
「小宮山さん」
その声に、ドキリとする。一拍置いて、声の方へと向き直った。
少し離れたところにいた彼は、立ち止まった萌に足早に近付いてくる。
「岩崎先生」
目の前に立つ彼を見上げて応えた萌を、一美は渋い顔で見下ろしてきた。何故そんな顔をされるのかが判らず、中途半端な笑顔になってしまう。
愛想笑いがバレたのか、彼は余計に渋面になった。
一美の手が上がり、指先が萌の頬に触れる。と、かすめた程度でハタと我に返ったように彼はその手を止め、また下ろした。
そして、唐突に言い出す。
「明後日、うちにおいで」
「え?」
「その次の日は休みだろう? 久し振りに、うちで食事をしよう」
「あ、はい……」
お誘いなのに、何故にそんな顔なのかと思いつつも、萌は承諾の返事をする。彼は「よし」というふうに頷きを返してきた。
「じゃあ、また」
素っ気無くそう言って、一美は去って行く。その後姿を見送りながら、彼の指先の感触が微かに残る頬に手をやった。
わずかに留まっていた温もりは、もう、残っていない。
萌は何と無しに溜息をついて、本来の仕事に戻った。
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しかし、このままただで死ぬのは嫌だ。なにか私が生きていたという爪痕を残したい。
なら、史上最高に素晴らしい出来の遺書を書いて、自殺してやろう!
そう思った私は全身全霊で遺書を書いて、私の通っている魔法学園へと自殺しに向かった。
しかし、そこで謎の美男子に見つかってしまい、しまいには遺書すら読まれてしまう。
すると彼に
「こんな遺書じゃダメだね」
「こんなものじゃ、誰の記憶にも残らないよ」
と思いっきりダメ出しをされてしまった。
それにショックを受けていると、彼はこう提案してくる。
「君の遺書を最高のものにしてみせる。その代わり、僕の研究を手伝ってほしいんだ」
これは頭のネジが飛んでいる彼について行った結果、彼と共に歴史に名を残してしまう。
そんなお話。
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