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第二章:すれちがい
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一美の部屋に着くなり、「汚してしまうから」と、萌はワンピースからいつもの服に着替えてしまった。
文句を言う一美を完全無視して萌が夕食を作り、それを食べた。
後片付けも終わり、今は惰性で点けているテレビをのんびりと眺めているところだ。
三人掛けのソファの上で、一美の膝の上に座らせるようにして萌を自分の胸に寄りかからせている格好だが、今のようにリラックスさせられるようになるには、ひと月かかった。
人目のない部屋の中でキスをして、おずおずながら彼女がそのキスに応えるようになるには、更にひと月。
未だにそれ以上には進められていないのが、我ながら信じられない。
ぼんやりとそう思いながら柔らかな萌の髪をもてあそんでいると、不意に彼女が身じろぎをした。
「先生、大学の同窓会っていうことは、やっぱりみんなお医者さんなんですよね?」
一美の腕の中で首をひねるようにして振り返り、そう訊いてくる。
「まあ、殆どはそうだな。中には厚生省やら企業に勤めたヤツやらもいるが、だいたいは医者だ」
「小児科のお医者さんになった人って、どのくらいいるんですか?」
「まあ、多くは無いな。三人、だったか……その程度だ」
「少ないんですねぇ……でも、何で先生は小児科になったんですか?」
「さあね」
これはしばしば訊かれることなのだが、答えるのは意外に難しい。一美自身もはっきりした何かがあったわけではないのだ。
だが、ごまかされたと思ったらしい萌は、少し唇を尖らせる。
「教えたくないんですか?」
「そういうわけじゃないが……」
一美は少し迷いつつ、少なくとも自分の中にある考えを口に出す。
「子どものことでオタオタする親を見るのが好きなのかもな」
「いじわるですね」
「そうかもな」
肩をすくめてそう答えた一美に、萌はククッと小鳩が鳴くような小さな笑い声を漏らした。そして、柔らかく囁く。
「ウソです。やっぱり、先生は優しいです」
予想外の感想に、一美は返事をしそびれた。
同じことを言っても、たいていは『性格が悪い』と返されるのだが。
続ける言葉が見つからなくて、彼はただ萌の温もりと微かな重みとを噛み締めていた。
萌も、それ以上は何も言ってこず、部屋の中にはTVのドキュメント番組の語りとBGMだけが流れる。
そうやって無言のままでいると、やがて彼の腕の中で萌がコクリコクリと船をこぎ始めた。
それに気付いた一美は、その頭を自分の胸にもたれさせる。その身体に回した腕に力をこめると、彼女はクルリと寝返りを打って仔猫のように丸くなった。
胸元に感じる柔らかな寝息が心地良い。
男の腕の中でそんなに無防備になるものではないだろう、とは思っても、一美自身、彼女がそこにいるだけで、これまでに無い充足感に満たされてしまうのだ。
――ナニかしようという気が湧いてくる余地も無いほどに。
だから、いつものように、ただ、首を曲げて彼女の頭の天辺にかすめるようなキスを落とすだけにとどめる。
萌から与えられる心地良さに誘われて、一美もトロリとした眠りに墜ちていく。
こうやって抱き締めていても、気が付くと萌はいつの間にか姿を消してしまう。
彼が眠っている隙に、目覚めた彼女は家に帰ってしまうのだ。
彼には、それが不満だった。
以前、萌にはここに移るように言った事がある。
勤務が終わって遅い時間に電車に乗せるのも、他に誰もいない部屋に独りで帰すのも気が進まなかったからだ。
だが、それ以上に大きな理由は、ただ、彼女を傍に置いておきたいというものなのかもしれない。
何もしなくてもいい。
何も話さなくてもいい。
ただ、この腕の中に彼女の温もりがあれば、一美は自分でも不思議なほどに満足するのだ。
かつては、寝ている相手を置き去りにするのは一美の方だった。眠っている隙に姿を消されるとどんな気分になるのかということを、彼は萌によって初めて知らされた。
あやふやになっていく意識の底で、一美はぼんやりと彼女が常に近くにいる生活のことを考えた。
目覚めた時に、隣に彼女がいる生活のことを。
文句を言う一美を完全無視して萌が夕食を作り、それを食べた。
後片付けも終わり、今は惰性で点けているテレビをのんびりと眺めているところだ。
三人掛けのソファの上で、一美の膝の上に座らせるようにして萌を自分の胸に寄りかからせている格好だが、今のようにリラックスさせられるようになるには、ひと月かかった。
人目のない部屋の中でキスをして、おずおずながら彼女がそのキスに応えるようになるには、更にひと月。
未だにそれ以上には進められていないのが、我ながら信じられない。
ぼんやりとそう思いながら柔らかな萌の髪をもてあそんでいると、不意に彼女が身じろぎをした。
「先生、大学の同窓会っていうことは、やっぱりみんなお医者さんなんですよね?」
一美の腕の中で首をひねるようにして振り返り、そう訊いてくる。
「まあ、殆どはそうだな。中には厚生省やら企業に勤めたヤツやらもいるが、だいたいは医者だ」
「小児科のお医者さんになった人って、どのくらいいるんですか?」
「まあ、多くは無いな。三人、だったか……その程度だ」
「少ないんですねぇ……でも、何で先生は小児科になったんですか?」
「さあね」
これはしばしば訊かれることなのだが、答えるのは意外に難しい。一美自身もはっきりした何かがあったわけではないのだ。
だが、ごまかされたと思ったらしい萌は、少し唇を尖らせる。
「教えたくないんですか?」
「そういうわけじゃないが……」
一美は少し迷いつつ、少なくとも自分の中にある考えを口に出す。
「子どものことでオタオタする親を見るのが好きなのかもな」
「いじわるですね」
「そうかもな」
肩をすくめてそう答えた一美に、萌はククッと小鳩が鳴くような小さな笑い声を漏らした。そして、柔らかく囁く。
「ウソです。やっぱり、先生は優しいです」
予想外の感想に、一美は返事をしそびれた。
同じことを言っても、たいていは『性格が悪い』と返されるのだが。
続ける言葉が見つからなくて、彼はただ萌の温もりと微かな重みとを噛み締めていた。
萌も、それ以上は何も言ってこず、部屋の中にはTVのドキュメント番組の語りとBGMだけが流れる。
そうやって無言のままでいると、やがて彼の腕の中で萌がコクリコクリと船をこぎ始めた。
それに気付いた一美は、その頭を自分の胸にもたれさせる。その身体に回した腕に力をこめると、彼女はクルリと寝返りを打って仔猫のように丸くなった。
胸元に感じる柔らかな寝息が心地良い。
男の腕の中でそんなに無防備になるものではないだろう、とは思っても、一美自身、彼女がそこにいるだけで、これまでに無い充足感に満たされてしまうのだ。
――ナニかしようという気が湧いてくる余地も無いほどに。
だから、いつものように、ただ、首を曲げて彼女の頭の天辺にかすめるようなキスを落とすだけにとどめる。
萌から与えられる心地良さに誘われて、一美もトロリとした眠りに墜ちていく。
こうやって抱き締めていても、気が付くと萌はいつの間にか姿を消してしまう。
彼が眠っている隙に、目覚めた彼女は家に帰ってしまうのだ。
彼には、それが不満だった。
以前、萌にはここに移るように言った事がある。
勤務が終わって遅い時間に電車に乗せるのも、他に誰もいない部屋に独りで帰すのも気が進まなかったからだ。
だが、それ以上に大きな理由は、ただ、彼女を傍に置いておきたいというものなのかもしれない。
何もしなくてもいい。
何も話さなくてもいい。
ただ、この腕の中に彼女の温もりがあれば、一美は自分でも不思議なほどに満足するのだ。
かつては、寝ている相手を置き去りにするのは一美の方だった。眠っている隙に姿を消されるとどんな気分になるのかということを、彼は萌によって初めて知らされた。
あやふやになっていく意識の底で、一美はぼんやりと彼女が常に近くにいる生活のことを考えた。
目覚めた時に、隣に彼女がいる生活のことを。
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