天使と狼

トウリン

文字の大きさ
上 下
21 / 92
第一章:はじまり

10-2

しおりを挟む
 昼休み、一美かずよしはコートと缶コーヒーを手に、屋上の扉を開けた。
 外は寒いが、それだけに出る者がいないので、静かな場所に行きたいと思った時には第一候補に挙がる。

 彼の狙い通り、屋上に人影は無い――と思ったが、一人、いた。

 その一人に気づいた時、一美にはそれが誰なのか一瞬で知れた。そして、踵を返して中に戻るべきか否か、迷う。
 だが、両腕を手すりに載せて前髪を冷たい風に揺らしながら遠くを見つめているその眼差しに、心が傾いた。

 ――クソ、放っておいてくれと言われただろう。

 一美は自分を罵るが、さりとて、あんな目をしている彼女をそのままにしておくことなど、とうていできない。

 意を決して、一歩を踏み出す。

「小宮山さん」
 彼の呼びかけにもえはビクリと肩を震わせ、振り返った。ついさっきまでその目にあった寂しげな色は、すでに完璧に隠されている。
「岩崎先生」
 彼女は屈託のない笑みを浮かべ、一美を見上げてくる。その笑顔が、何故か彼の心に突き刺さった。

 悲しいのなら、泣けばいい。
 つらいことがあるなら、誰かにすがればいいのだ。
 何故、そうやって自分の中に押し込めて隠してしまうのか。

 そんな、苛立ちにも似た気持ちを押し殺し、一美は手にしていたコートを萌の肩にかけてやる。カーディガン一枚では、寒風を防ぐことはできていない筈だ。
 そうして、慎重に距離を取った。
 傍に行きたいという気持ちを宥め、近くはなり過ぎない、ギリギリの距離を。

 コートを着せかけられ、束の間ホッと頬を緩めた彼女だったが、すぐに我に返ったように瞬きをする
「先生? これ、ご自分で着られるおつもりだったんでしょう?」
 言いながら慌てて脱ごうとする彼女に、肩をすくめてみせる。
「意外と寒くないな、今日は。邪魔だから掛けておいてくれ」
「でも……いえ、ありがとうございます」
 断固として受け取らないかと思われたが、彼女は素直に彼のコートに包《くる》まった。チラリと横目で見ると、彼が着ても膝下まであるものだけに、裾は床に着きそうだ。

 思わず小さく笑いを漏らした一美に、萌は怪訝そうな目を向けてくる。
「何ですか?」
「いや……てるてる坊主みたいだな、と」
 一美の率直な感想に、萌は口を曲げた。
「身長が違うんだから、しょうがないじゃないですか。先生が大きすぎるんですよ」
「悪い」
「好きで背が低いんじゃありませんから」
「食べる割には、伸びなかったんだな」
「ジャンプしたり、努力もしました」
 そう言って、プイと横を向く。
 だが、彼女の台詞で小さいのがピョンピョンと跳んでいる姿を想像してしまった一美は、込み上げてくる笑いを噛み殺すのに一苦労だった。まるでウサギのダンスだ――似合い過ぎる。

 頭上で行なわれている我慢大会に気付いていない萌は、柵に手を掛けて空を見つめながら一美に問いかけてくる。
「先生も屋上によく来るんですか?」
「時々な。……君は?」
「わたしは、結構来ます。こういう……都会って空が見えないから、高いところに来たくなります」
「都会か? このくらいで?」
「わたしが育ったところは、少なくとも、横を向いたら空が見えます。ここは真上を向かないと見えないでしょう? それに、見えても狭いし」
「海といい、空といい、結構田舎なんだな」
「わたしからすると、そっちが普通なんですけどねぇ」

 今の萌は穏やかで寛いでいる感じで――以前のように、彼女を近くに感じる。特に意味の無い、他愛の無い会話に過ぎないのに、心地良い。
 こんなふうに萌と話していると、一美の心の中は、凪いだ海のようになる――時々、大嵐になる時もあるが。
 だが、そんなふうに感じた一美は、ふとあることに気が付いた。

 萌が以前のように話しているということは、彼に対する気持ちがなくなったということなのだろうか。
 そう思うと一美の胸の中に細波が立つ。
 元に戻ることを望んでいたというのに、彼女の気持ちが消えたのかもしれないという考えは、何故か気に食わなかった。
 その矛盾に、一美は戸惑う。
 隣を見下ろすと、萌は変わらず空を眺めていた。

 彼は、無性にその目を自分に向けさせたくなる。そして、思った。
 あの時のように抱き締めたら、また、自分への気持ちがよみがえるのだろうか、と。

 一美は視線を空に投げ、両手を硬く握り締める。その馬鹿げた考えを封じ込めるように。

「岩崎先生?」
 不意に届いたその声に、一美はハッと我に返る。視線を下げれば、丁寧にたたんだコートを差し出して、萌が見上げていた。
「これ、ありがとうございました。暖かかったです。わたし、もう戻らないと」
「ああ……」
 受け取る時に、微かに指先が触れる。

「じゃあ、お先に失礼します」
 ペコンと頭を下げて、萌は小走りで去って行く。

 いともあっさりと。

 彼女の姿が消え失せて、それと共に一美の中からポカリと何かが失われたような気がする。急に気温まで下がったように感じられて、彼はブルリと身震いした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

竜人のつがいへの執着は次元の壁を越える

たま
恋愛
次元を超えつがいに恋焦がれるストーカー竜人リュートさんと、うっかりリュートのいる異世界へ落っこちた女子高生結の絆されストーリー その後、ふとした喧嘩らか、自分達が壮大な計画の歯車の1つだったことを知る。 そして今、最後の歯車はまずは世界の幸せの為に動く!

伯爵閣下の褒賞品

夏菜しの
恋愛
 長い戦争を終わらせた英雄は、新たな爵位と領地そして金銭に家畜と様々な褒賞品を手に入れた。  しかしその褒賞品の一つ。〝妻〟の存在が英雄を悩ませる。  巨漢で強面、戦ばかりで女性の扱いは分からない。元来口下手で気の利いた話も出来そうにない。いくら国王陛下の命令とは言え、そんな自分に嫁いでくるのは酷だろう。  互いの体裁を取り繕うために一年。 「この離縁届を預けておく、一年後ならば自由にしてくれて構わない」  これが英雄の考えた譲歩だった。  しかし英雄は知らなかった。  選ばれたはずの妻が唯一希少な好みの持ち主で、彼女は選ばれたのではなく自ら志願して妻になったことを……  別れたい英雄と、別れたくない褒賞品のお話です。 ※設定違いの姉妹作品「伯爵閣下の褒章品(あ)」を公開中。  よろしければ合わせて読んでみてください。

私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした

さこの
恋愛
 幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。  誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。  数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。  お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。  片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。  お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……  っと言った感じのストーリーです。

【短編】悪役令嬢と蔑まれた私は史上最高の遺書を書く

とによ
恋愛
婚約破棄され、悪役令嬢と呼ばれ、いじめを受け。 まさに不幸の役満を食らった私――ハンナ・オスカリウスは、自殺することを決意する。 しかし、このままただで死ぬのは嫌だ。なにか私が生きていたという爪痕を残したい。 なら、史上最高に素晴らしい出来の遺書を書いて、自殺してやろう! そう思った私は全身全霊で遺書を書いて、私の通っている魔法学園へと自殺しに向かった。 しかし、そこで謎の美男子に見つかってしまい、しまいには遺書すら読まれてしまう。 すると彼に 「こんな遺書じゃダメだね」 「こんなものじゃ、誰の記憶にも残らないよ」 と思いっきりダメ出しをされてしまった。 それにショックを受けていると、彼はこう提案してくる。 「君の遺書を最高のものにしてみせる。その代わり、僕の研究を手伝ってほしいんだ」 これは頭のネジが飛んでいる彼について行った結果、彼と共に歴史に名を残してしまう。 そんなお話。

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

無価値な私はいらないでしょう?

火野村志紀
恋愛
いっそのこと、手放してくださった方が楽でした。 だから、私から離れようと思うのです。

辺境伯へ嫁ぎます。

アズやっこ
恋愛
私の父、国王陛下から、辺境伯へ嫁げと言われました。 隣国の王子の次は辺境伯ですか… 分かりました。 私は第二王女。所詮国の為の駒でしかないのです。 例え父であっても国王陛下には逆らえません。 辺境伯様… 若くして家督を継がれ、辺境の地を護っています。 本来ならば第一王女のお姉様が嫁ぐはずでした。 辺境伯様も10歳も年下の私を妻として娶らなければいけないなんて可哀想です。 辺境伯様、大丈夫です。私はご迷惑はおかけしません。 それでも、もし、私でも良いのなら…こんな小娘でも良いのなら…貴方を愛しても良いですか?貴方も私を愛してくれますか? そんな望みを抱いてしまいます。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ 設定はゆるいです。  (言葉使いなど、優しい目で読んで頂けると幸いです)  ❈ 誤字脱字等教えて頂けると幸いです。  (出来れば望ましいと思う字、文章を教えて頂けると嬉しいです)

不憫な侯爵令嬢は、王子様に溺愛される。

猫宮乾
恋愛
 再婚した父の元、継母に幽閉じみた生活を強いられていたマリーローズ(私)は、父が没した事を契機に、結婚して出ていくように迫られる。皆よりも遅く夜会デビューし、結婚相手を探していると、第一王子のフェンネル殿下が政略結婚の話を持ちかけてくる。他に行く場所もない上、自分の未来を切り開くべく、同意したマリーローズは、その後後宮入りし、正妃になるまでは婚約者として過ごす事に。その内に、フェンネルの優しさに触れ、溺愛され、幸せを見つけていく。※pixivにも掲載しております(あちらで完結済み)。

処理中です...