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第一章:はじまり
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昼休み、一美はコートと缶コーヒーを手に、屋上の扉を開けた。
外は寒いが、それだけに出る者がいないので、静かな場所に行きたいと思った時には第一候補に挙がる。
彼の狙い通り、屋上に人影は無い――と思ったが、一人、いた。
その一人に気づいた時、一美にはそれが誰なのか一瞬で知れた。そして、踵を返して中に戻るべきか否か、迷う。
だが、両腕を手すりに載せて前髪を冷たい風に揺らしながら遠くを見つめているその眼差しに、心が傾いた。
――クソ、放っておいてくれと言われただろう。
一美は自分を罵るが、さりとて、あんな目をしている彼女をそのままにしておくことなど、とうていできない。
意を決して、一歩を踏み出す。
「小宮山さん」
彼の呼びかけに萌はビクリと肩を震わせ、振り返った。ついさっきまでその目にあった寂しげな色は、すでに完璧に隠されている。
「岩崎先生」
彼女は屈託のない笑みを浮かべ、一美を見上げてくる。その笑顔が、何故か彼の心に突き刺さった。
悲しいのなら、泣けばいい。
つらいことがあるなら、誰かにすがればいいのだ。
何故、そうやって自分の中に押し込めて隠してしまうのか。
そんな、苛立ちにも似た気持ちを押し殺し、一美は手にしていたコートを萌の肩にかけてやる。カーディガン一枚では、寒風を防ぐことはできていない筈だ。
そうして、慎重に距離を取った。
傍に行きたいという気持ちを宥め、近くはなり過ぎない、ギリギリの距離を。
コートを着せかけられ、束の間ホッと頬を緩めた彼女だったが、すぐに我に返ったように瞬きをする
「先生? これ、ご自分で着られるおつもりだったんでしょう?」
言いながら慌てて脱ごうとする彼女に、肩をすくめてみせる。
「意外と寒くないな、今日は。邪魔だから掛けておいてくれ」
「でも……いえ、ありがとうございます」
断固として受け取らないかと思われたが、彼女は素直に彼のコートに包《くる》まった。チラリと横目で見ると、彼が着ても膝下まであるものだけに、裾は床に着きそうだ。
思わず小さく笑いを漏らした一美に、萌は怪訝そうな目を向けてくる。
「何ですか?」
「いや……てるてる坊主みたいだな、と」
一美の率直な感想に、萌は口を曲げた。
「身長が違うんだから、しょうがないじゃないですか。先生が大きすぎるんですよ」
「悪い」
「好きで背が低いんじゃありませんから」
「食べる割には、伸びなかったんだな」
「ジャンプしたり、努力もしました」
そう言って、プイと横を向く。
だが、彼女の台詞で小さいのがピョンピョンと跳んでいる姿を想像してしまった一美は、込み上げてくる笑いを噛み殺すのに一苦労だった。まるでウサギのダンスだ――似合い過ぎる。
頭上で行なわれている我慢大会に気付いていない萌は、柵に手を掛けて空を見つめながら一美に問いかけてくる。
「先生も屋上によく来るんですか?」
「時々な。……君は?」
「わたしは、結構来ます。こういう……都会って空が見えないから、高いところに来たくなります」
「都会か? このくらいで?」
「わたしが育ったところは、少なくとも、横を向いたら空が見えます。ここは真上を向かないと見えないでしょう? それに、見えても狭いし」
「海といい、空といい、結構田舎なんだな」
「わたしからすると、そっちが普通なんですけどねぇ」
今の萌は穏やかで寛いでいる感じで――以前のように、彼女を近くに感じる。特に意味の無い、他愛の無い会話に過ぎないのに、心地良い。
こんなふうに萌と話していると、一美の心の中は、凪いだ海のようになる――時々、大嵐になる時もあるが。
だが、そんなふうに感じた一美は、ふとあることに気が付いた。
萌が以前のように話しているということは、彼に対する気持ちがなくなったということなのだろうか。
そう思うと一美の胸の中に細波が立つ。
元に戻ることを望んでいたというのに、彼女の気持ちが消えたのかもしれないという考えは、何故か気に食わなかった。
その矛盾に、一美は戸惑う。
隣を見下ろすと、萌は変わらず空を眺めていた。
彼は、無性にその目を自分に向けさせたくなる。そして、思った。
あの時のように抱き締めたら、また、自分への気持ちがよみがえるのだろうか、と。
一美は視線を空に投げ、両手を硬く握り締める。その馬鹿げた考えを封じ込めるように。
「岩崎先生?」
不意に届いたその声に、一美はハッと我に返る。視線を下げれば、丁寧にたたんだコートを差し出して、萌が見上げていた。
「これ、ありがとうございました。暖かかったです。わたし、もう戻らないと」
「ああ……」
受け取る時に、微かに指先が触れる。
「じゃあ、お先に失礼します」
ペコンと頭を下げて、萌は小走りで去って行く。
いともあっさりと。
彼女の姿が消え失せて、それと共に一美の中からポカリと何かが失われたような気がする。急に気温まで下がったように感じられて、彼はブルリと身震いした。
外は寒いが、それだけに出る者がいないので、静かな場所に行きたいと思った時には第一候補に挙がる。
彼の狙い通り、屋上に人影は無い――と思ったが、一人、いた。
その一人に気づいた時、一美にはそれが誰なのか一瞬で知れた。そして、踵を返して中に戻るべきか否か、迷う。
だが、両腕を手すりに載せて前髪を冷たい風に揺らしながら遠くを見つめているその眼差しに、心が傾いた。
――クソ、放っておいてくれと言われただろう。
一美は自分を罵るが、さりとて、あんな目をしている彼女をそのままにしておくことなど、とうていできない。
意を決して、一歩を踏み出す。
「小宮山さん」
彼の呼びかけに萌はビクリと肩を震わせ、振り返った。ついさっきまでその目にあった寂しげな色は、すでに完璧に隠されている。
「岩崎先生」
彼女は屈託のない笑みを浮かべ、一美を見上げてくる。その笑顔が、何故か彼の心に突き刺さった。
悲しいのなら、泣けばいい。
つらいことがあるなら、誰かにすがればいいのだ。
何故、そうやって自分の中に押し込めて隠してしまうのか。
そんな、苛立ちにも似た気持ちを押し殺し、一美は手にしていたコートを萌の肩にかけてやる。カーディガン一枚では、寒風を防ぐことはできていない筈だ。
そうして、慎重に距離を取った。
傍に行きたいという気持ちを宥め、近くはなり過ぎない、ギリギリの距離を。
コートを着せかけられ、束の間ホッと頬を緩めた彼女だったが、すぐに我に返ったように瞬きをする
「先生? これ、ご自分で着られるおつもりだったんでしょう?」
言いながら慌てて脱ごうとする彼女に、肩をすくめてみせる。
「意外と寒くないな、今日は。邪魔だから掛けておいてくれ」
「でも……いえ、ありがとうございます」
断固として受け取らないかと思われたが、彼女は素直に彼のコートに包《くる》まった。チラリと横目で見ると、彼が着ても膝下まであるものだけに、裾は床に着きそうだ。
思わず小さく笑いを漏らした一美に、萌は怪訝そうな目を向けてくる。
「何ですか?」
「いや……てるてる坊主みたいだな、と」
一美の率直な感想に、萌は口を曲げた。
「身長が違うんだから、しょうがないじゃないですか。先生が大きすぎるんですよ」
「悪い」
「好きで背が低いんじゃありませんから」
「食べる割には、伸びなかったんだな」
「ジャンプしたり、努力もしました」
そう言って、プイと横を向く。
だが、彼女の台詞で小さいのがピョンピョンと跳んでいる姿を想像してしまった一美は、込み上げてくる笑いを噛み殺すのに一苦労だった。まるでウサギのダンスだ――似合い過ぎる。
頭上で行なわれている我慢大会に気付いていない萌は、柵に手を掛けて空を見つめながら一美に問いかけてくる。
「先生も屋上によく来るんですか?」
「時々な。……君は?」
「わたしは、結構来ます。こういう……都会って空が見えないから、高いところに来たくなります」
「都会か? このくらいで?」
「わたしが育ったところは、少なくとも、横を向いたら空が見えます。ここは真上を向かないと見えないでしょう? それに、見えても狭いし」
「海といい、空といい、結構田舎なんだな」
「わたしからすると、そっちが普通なんですけどねぇ」
今の萌は穏やかで寛いでいる感じで――以前のように、彼女を近くに感じる。特に意味の無い、他愛の無い会話に過ぎないのに、心地良い。
こんなふうに萌と話していると、一美の心の中は、凪いだ海のようになる――時々、大嵐になる時もあるが。
だが、そんなふうに感じた一美は、ふとあることに気が付いた。
萌が以前のように話しているということは、彼に対する気持ちがなくなったということなのだろうか。
そう思うと一美の胸の中に細波が立つ。
元に戻ることを望んでいたというのに、彼女の気持ちが消えたのかもしれないという考えは、何故か気に食わなかった。
その矛盾に、一美は戸惑う。
隣を見下ろすと、萌は変わらず空を眺めていた。
彼は、無性にその目を自分に向けさせたくなる。そして、思った。
あの時のように抱き締めたら、また、自分への気持ちがよみがえるのだろうか、と。
一美は視線を空に投げ、両手を硬く握り締める。その馬鹿げた考えを封じ込めるように。
「岩崎先生?」
不意に届いたその声に、一美はハッと我に返る。視線を下げれば、丁寧にたたんだコートを差し出して、萌が見上げていた。
「これ、ありがとうございました。暖かかったです。わたし、もう戻らないと」
「ああ……」
受け取る時に、微かに指先が触れる。
「じゃあ、お先に失礼します」
ペコンと頭を下げて、萌は小走りで去って行く。
いともあっさりと。
彼女の姿が消え失せて、それと共に一美の中からポカリと何かが失われたような気がする。急に気温まで下がったように感じられて、彼はブルリと身震いした。
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