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第一章:はじまり
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半覚醒状態の一美の胸の辺りで、何かがもそもそと動いた。
(……くすぐったいな)
いったい何だろうと訝しみながら、彼は目蓋を開ける。
視線を落としてみると、腕の中には誰かがいた。自分に限ってまさか男の筈はないから、女だ。
誰だっけ?
そう思った瞬間に、全てを思い出す。
――小宮山萌だ。
ハッと気付くと、一美の首にしがみついていた腕はもうなく、小さく丸まっている彼女をただ一方的に彼が抱き締めているだけになっている。
この状況は、かなりまずかった。ここで萌が目を覚ましたらどんな事態に陥るかは、容易に予想できる。
一美は慎重に腕を動かし、萌の下になっていた右腕を引き抜く。
彼女の体重がもろにかかる状態ではなかった為か、幸いにして、腕は痺れていなかった。
解放した右手を萌の左側に突き、もう片方の手を彼女の右側に突く。
そうしておいて、ソロリと身体を引こうとし――
――まずい。
思わず、一美は心の中でそう呟く。
その、一見、まさに覆い被さらんばかりの体勢となったその時に、彼の下で萌がパチリと目を開けたのだ。
眠気でぼんやりとした眼差しが、一美を見上げている。
「……え?」
「おはよう」
その挨拶を口にするには、まだ外は暗い。
だが、他に言うこともなく、一美は彼女にそう声をかけた。
「おはようござ――……え?」
反射で返しかけた彼女だったが、皆まで言わずに口ごもる。
そして、次の瞬間。
「えぇえ!? ――ッ!」
「ィテッ」
勢いよく跳ね起きた萌の頭と彼女の上にあった一美の顎とが、ゴツッといい音を立てて衝突した。
「ッたぁ……」
「あぁッ! ごめんなさい! スミマセン!」
見事な頭突きを顎先に食らって仰け反った一美に、萌が身を乗り出して平謝りする。
「いや……」
微妙に後ろめたい一美は、この騒動で先ほどの状況が萌の頭の中から薄らぎつつあることをこそ、歓迎した。
だが、当然のことながら彼女はそれほど抜けてはおらず、周囲を一度見回した後、おずおずと、といった風情で彼に問いかけてくる。
「……でも、ここ、どこですか? なんで、わたしはここに……?」
「覚えてないわけ?」
「お店で、お休みの日に何をしているか、というのをお話ししました、よね? で、先生が、車で海に連れて行ってくださるって、言ってくださいました……?」
「ああ」
そこまでは彼女の記憶もクリアらしいが、どうやら泣き始めた辺りからあやふやになっているようだ。
「その後、好きな映画のお話をして……えぇと……」
子どもの様にベッドの上にぺたりと座り、何とか記憶を振り絞ろうと、萌は頭を抱えている。
その姿に、一美は思わずため息をついた。
「頭痛はないの?」
「え? あ、はい、痛くないです」
「それは大丈夫なのか。でも、君さぁ、酒は飲まない方がいいと思うぞ」
「わたし、何かしたんですか?」
彼女は今にも泣きだしそうな、情けない顔になる。
それを目にした一美は、無性に突きまわしたくなった。
――あるいは、潰れんばかりに、抱き締めたく。
昨日の泣き顔ではそんなふうに思わなかったというのに、両者の違いはいったい何なのだろうかと、彼は内心で首をかしげる。
即答しない一美に、萌が不安そうに呼びかける。
「岩崎先生?」
「ああ、酔っぱらった挙句に寝ちゃったんだよ。揺すっても起きなかった」
「ウソ!?」
「ホント」
「……ッ、すみません……」
萌は、クシャクシャの髪でがっくりとうなだれた。
その様子に、昨晩うずくまってしまった彼女の名残はない。すっかり普段通りの萌だった。
酒を呑んで愚痴って、吹っ切れたわけではない筈だ。
そう簡単にいくわけがない。
けれども、今の彼女からは、その内心の葛藤はほんのわずかも読み取れなかった。
萌は昨晩一美のことを『強い』と言ったが、それは彼女の方にこそ、相応しいのではなかろうか。
こんなふうに隠しおおせることができる彼女を、彼は決して弱いとは思えなかった。
昨夜の彼女の涙は、一美の中だけのものにしておくべきなのだろう。そう思えて、彼は、さりげなく話をずらしていく。
「でも、グラス半分くらいしか飲んでなかっただろ? 今まで、こういうことなかったわけ?」
「お酒、飲んだことがなかったので……本当に、記憶が跳ぶものなんですね」
感心したようにそう言った萌に、一美は天を仰ぎたくなった。そして、彼女が初めて酒を飲んだ時に一緒にいたのが自分で良かったと、しみじみと思う。
もしもリコが企画する合コンの席や何かだったら、今頃どんな事態を迎えていたことか。
「普通は跳ばないよ。それもあんな量で。君に酒は合ってない。二度と飲むなよ?」
「……はい……」
迷惑をかけた相手に言われれば、頷くしかないだろう。萌は幼い子どものようにコクリとする。
そんな彼女に、そう言えば、と、一美は伝えておかなければならないことを思いだした。
「ところで、一応言っておくが、俺は何もしていないからな」
何しろダメな噂が先行しまくっている彼の事だ。一晩同衾したとなれば、彼女も色々心配になる筈だ。
「はい?」
「同じベッドにはいたが、何もしていないから」
一美の言葉に、萌はふと微笑んだ。
彼女の『笑顔』は何度も見たが、『微笑み』は少ない。そしてその笑みは、彼に何かを感じさせた。
その正体を見極める前に、萌が言う。今度は、アハハと声を出して笑いながら。
「解かってます。そんなの、当たり前じゃないですか」
「そうか……」
彼女の台詞の意味するところは彼のことを信頼しているということなのか、それともまた別のものなのか、一美は判断しかねた。そして、悩む彼をよそに、萌はベッドを下りる。
「あ、もう六時になりますね。電車動いていますから、わたし、一度帰ります。昨日のお店とここのホテルと、半分出します」
「別に構わない」
「構わなくないですよ。わたしの所為なんですから」
「最初に食事に誘ったのは俺だろ?」
「それは関係ないです」
むぅっと唇を引き結んだ萌を、一美も眉間にしわを寄せて見返した。
時々、彼女は妙に頑なになる。
こういう時は、笑って「ありがとうございます!」でいい筈だろうと、一美は思うのだが。朗《ろう》だったら、それだけで世界一周旅行にすら連れて行くかもしれない。
独立心旺盛なのは称賛するべき要素ではある。しかし、一美は、今は何故かそれに不満を覚えた。
「高いぞ」
「いくらですか?」
訊かれて、一美は正直な値段を言った。それを耳にした萌は、一瞬言葉を失った後、おずおずと彼に尋ねる。
「……分割でも、いいですか?」
まったく、頑固だ。
さてどうしたものかと一美は考える。
「じゃあ、時々また食事に付き合ってくれ」
「はい?」
「また、食事の相手をしてくれよ。君の時間がある時でいいから」
「そんなのだめですよ。全然釣り合わないじゃないですか」
勢い良く首を振る萌に、一美は肩をすくめて見せる。
「君の時間を割いてもらうわけだしね」
「でも、わたしだって楽しみました」
「ろくに覚えていないのに?」
「……覚えている範囲では」
と、少々気まずそうに萌は視線を逸らした。
そこに、肝心なことを覚えてないぞと心の中でツッコんで、一美は話を締めくくる。
「たいていの女性は、黙って奢らせてくれるもんだよ。特に、こちらが奢ると言った時はな。その方が男のメンツが立つだろう? 第一、俺の方が遥かに年上なんだから、年長者の見栄ってもんもあるんだよ」
最後の一文を口にして、微妙に自分自身の中に引っ掛かりを感じたが、一美はそれを無視する。
一方で、萌にとっては、そのセリフが一番効果があったようだった。
「確かに……わたしも年下と割り勘は、嫌かもしれません。――先生から見たら、わたしなんて子どもみたいなものですよね」
「え?」
終盤の言葉は彼女の口の中で呟かれ、まるで彼女自身に言い聞かせているようだった。はっきり聞こえず問い返した一美に、萌はどこか彼女らしくない笑みを浮かべながら首を振った。
「何でもないです。でも……そんなに、独りがイヤなんですね」
萌は何やらまだ誤解しているようだが、一美にとってはその方が都合が良さそうなのでそのままに放っておくことにした。適当に頷いて、顎をしゃくる
「まあな。ほら、先に洗面所使えよ」
「お先にどうぞ?」
――まったく。
「いいから、先に行けって」
「はい……」
何から何まで、調子が狂う。
洗面所に入って行った萌の背中を見送って一美はベッドの上にドッカリと腰を落とすと、小さくため息をついた。
*
それから、一美と萌は時々食事を共にした。
週に一回か二回。二人の帰宅時間が合った時に、たいていは一美の方から声をかける。
朗やリコが付いてくる時もあったし、二人きりの時もあった。
萌の主張を聞き入れて、大抵はラーメン屋やファミリーレストラン、大衆居酒屋などばかりで、当初は警戒していたリコも、あまりに『デート』らしくない店を選択する二人に、むしろ、半ば呆れたような目を向けるようになっていった。
そして、海にも行った。
一美が車を走らせ、海岸線に沿って伸びる道を行き、海が見えている間中、萌は一言もしゃべらない。ジッと、砂浜だか水平線だかを見つめているだけだ。
そんな姿に、彼女の生まれ育ったところは海が近いのだろうかと考えて、一美は、自分は彼女の事をほとんど知らないのだという事実に気が付いた。
これまで付き合ってきた相手は、一美が訊きもしないのに勝手に女の方から喋ってくれたから、彼から働きかける必要はなかったのだ。
いざ質問しようとしても、どんなふうに問いかけたらいいのかが思い浮かばず、そうこうするうちに、彼女が「ここがいい」と声を上げ、結局確かめられずに終わってしまった。
萌が待ち望んでいた砂浜に下りると、冬だというのに裸足になって、あまつさえ、足だけとはいえ海にも入った。
そんなこともあろうかと車に入れておいたバスタオルを手渡しながら「風邪でも引いたらどうするのか」と言った一美に、萌は「丈夫なんです」と笑っただけだった。
傍から見ても、本人たちにしても、それは男女というよりも兄妹のような関係だった。
萌といると、彼女が何を望んでいるのか、彼女が喜んでいるのか、それだけが気になってしまう。
――女といて、『自分がどうしたいか』ではなく、『相手が何をしたいのか』を考えながら過ごすのは、これもまた、一美にとって初めての事だった。
(……くすぐったいな)
いったい何だろうと訝しみながら、彼は目蓋を開ける。
視線を落としてみると、腕の中には誰かがいた。自分に限ってまさか男の筈はないから、女だ。
誰だっけ?
そう思った瞬間に、全てを思い出す。
――小宮山萌だ。
ハッと気付くと、一美の首にしがみついていた腕はもうなく、小さく丸まっている彼女をただ一方的に彼が抱き締めているだけになっている。
この状況は、かなりまずかった。ここで萌が目を覚ましたらどんな事態に陥るかは、容易に予想できる。
一美は慎重に腕を動かし、萌の下になっていた右腕を引き抜く。
彼女の体重がもろにかかる状態ではなかった為か、幸いにして、腕は痺れていなかった。
解放した右手を萌の左側に突き、もう片方の手を彼女の右側に突く。
そうしておいて、ソロリと身体を引こうとし――
――まずい。
思わず、一美は心の中でそう呟く。
その、一見、まさに覆い被さらんばかりの体勢となったその時に、彼の下で萌がパチリと目を開けたのだ。
眠気でぼんやりとした眼差しが、一美を見上げている。
「……え?」
「おはよう」
その挨拶を口にするには、まだ外は暗い。
だが、他に言うこともなく、一美は彼女にそう声をかけた。
「おはようござ――……え?」
反射で返しかけた彼女だったが、皆まで言わずに口ごもる。
そして、次の瞬間。
「えぇえ!? ――ッ!」
「ィテッ」
勢いよく跳ね起きた萌の頭と彼女の上にあった一美の顎とが、ゴツッといい音を立てて衝突した。
「ッたぁ……」
「あぁッ! ごめんなさい! スミマセン!」
見事な頭突きを顎先に食らって仰け反った一美に、萌が身を乗り出して平謝りする。
「いや……」
微妙に後ろめたい一美は、この騒動で先ほどの状況が萌の頭の中から薄らぎつつあることをこそ、歓迎した。
だが、当然のことながら彼女はそれほど抜けてはおらず、周囲を一度見回した後、おずおずと、といった風情で彼に問いかけてくる。
「……でも、ここ、どこですか? なんで、わたしはここに……?」
「覚えてないわけ?」
「お店で、お休みの日に何をしているか、というのをお話ししました、よね? で、先生が、車で海に連れて行ってくださるって、言ってくださいました……?」
「ああ」
そこまでは彼女の記憶もクリアらしいが、どうやら泣き始めた辺りからあやふやになっているようだ。
「その後、好きな映画のお話をして……えぇと……」
子どもの様にベッドの上にぺたりと座り、何とか記憶を振り絞ろうと、萌は頭を抱えている。
その姿に、一美は思わずため息をついた。
「頭痛はないの?」
「え? あ、はい、痛くないです」
「それは大丈夫なのか。でも、君さぁ、酒は飲まない方がいいと思うぞ」
「わたし、何かしたんですか?」
彼女は今にも泣きだしそうな、情けない顔になる。
それを目にした一美は、無性に突きまわしたくなった。
――あるいは、潰れんばかりに、抱き締めたく。
昨日の泣き顔ではそんなふうに思わなかったというのに、両者の違いはいったい何なのだろうかと、彼は内心で首をかしげる。
即答しない一美に、萌が不安そうに呼びかける。
「岩崎先生?」
「ああ、酔っぱらった挙句に寝ちゃったんだよ。揺すっても起きなかった」
「ウソ!?」
「ホント」
「……ッ、すみません……」
萌は、クシャクシャの髪でがっくりとうなだれた。
その様子に、昨晩うずくまってしまった彼女の名残はない。すっかり普段通りの萌だった。
酒を呑んで愚痴って、吹っ切れたわけではない筈だ。
そう簡単にいくわけがない。
けれども、今の彼女からは、その内心の葛藤はほんのわずかも読み取れなかった。
萌は昨晩一美のことを『強い』と言ったが、それは彼女の方にこそ、相応しいのではなかろうか。
こんなふうに隠しおおせることができる彼女を、彼は決して弱いとは思えなかった。
昨夜の彼女の涙は、一美の中だけのものにしておくべきなのだろう。そう思えて、彼は、さりげなく話をずらしていく。
「でも、グラス半分くらいしか飲んでなかっただろ? 今まで、こういうことなかったわけ?」
「お酒、飲んだことがなかったので……本当に、記憶が跳ぶものなんですね」
感心したようにそう言った萌に、一美は天を仰ぎたくなった。そして、彼女が初めて酒を飲んだ時に一緒にいたのが自分で良かったと、しみじみと思う。
もしもリコが企画する合コンの席や何かだったら、今頃どんな事態を迎えていたことか。
「普通は跳ばないよ。それもあんな量で。君に酒は合ってない。二度と飲むなよ?」
「……はい……」
迷惑をかけた相手に言われれば、頷くしかないだろう。萌は幼い子どものようにコクリとする。
そんな彼女に、そう言えば、と、一美は伝えておかなければならないことを思いだした。
「ところで、一応言っておくが、俺は何もしていないからな」
何しろダメな噂が先行しまくっている彼の事だ。一晩同衾したとなれば、彼女も色々心配になる筈だ。
「はい?」
「同じベッドにはいたが、何もしていないから」
一美の言葉に、萌はふと微笑んだ。
彼女の『笑顔』は何度も見たが、『微笑み』は少ない。そしてその笑みは、彼に何かを感じさせた。
その正体を見極める前に、萌が言う。今度は、アハハと声を出して笑いながら。
「解かってます。そんなの、当たり前じゃないですか」
「そうか……」
彼女の台詞の意味するところは彼のことを信頼しているということなのか、それともまた別のものなのか、一美は判断しかねた。そして、悩む彼をよそに、萌はベッドを下りる。
「あ、もう六時になりますね。電車動いていますから、わたし、一度帰ります。昨日のお店とここのホテルと、半分出します」
「別に構わない」
「構わなくないですよ。わたしの所為なんですから」
「最初に食事に誘ったのは俺だろ?」
「それは関係ないです」
むぅっと唇を引き結んだ萌を、一美も眉間にしわを寄せて見返した。
時々、彼女は妙に頑なになる。
こういう時は、笑って「ありがとうございます!」でいい筈だろうと、一美は思うのだが。朗《ろう》だったら、それだけで世界一周旅行にすら連れて行くかもしれない。
独立心旺盛なのは称賛するべき要素ではある。しかし、一美は、今は何故かそれに不満を覚えた。
「高いぞ」
「いくらですか?」
訊かれて、一美は正直な値段を言った。それを耳にした萌は、一瞬言葉を失った後、おずおずと彼に尋ねる。
「……分割でも、いいですか?」
まったく、頑固だ。
さてどうしたものかと一美は考える。
「じゃあ、時々また食事に付き合ってくれ」
「はい?」
「また、食事の相手をしてくれよ。君の時間がある時でいいから」
「そんなのだめですよ。全然釣り合わないじゃないですか」
勢い良く首を振る萌に、一美は肩をすくめて見せる。
「君の時間を割いてもらうわけだしね」
「でも、わたしだって楽しみました」
「ろくに覚えていないのに?」
「……覚えている範囲では」
と、少々気まずそうに萌は視線を逸らした。
そこに、肝心なことを覚えてないぞと心の中でツッコんで、一美は話を締めくくる。
「たいていの女性は、黙って奢らせてくれるもんだよ。特に、こちらが奢ると言った時はな。その方が男のメンツが立つだろう? 第一、俺の方が遥かに年上なんだから、年長者の見栄ってもんもあるんだよ」
最後の一文を口にして、微妙に自分自身の中に引っ掛かりを感じたが、一美はそれを無視する。
一方で、萌にとっては、そのセリフが一番効果があったようだった。
「確かに……わたしも年下と割り勘は、嫌かもしれません。――先生から見たら、わたしなんて子どもみたいなものですよね」
「え?」
終盤の言葉は彼女の口の中で呟かれ、まるで彼女自身に言い聞かせているようだった。はっきり聞こえず問い返した一美に、萌はどこか彼女らしくない笑みを浮かべながら首を振った。
「何でもないです。でも……そんなに、独りがイヤなんですね」
萌は何やらまだ誤解しているようだが、一美にとってはその方が都合が良さそうなのでそのままに放っておくことにした。適当に頷いて、顎をしゃくる
「まあな。ほら、先に洗面所使えよ」
「お先にどうぞ?」
――まったく。
「いいから、先に行けって」
「はい……」
何から何まで、調子が狂う。
洗面所に入って行った萌の背中を見送って一美はベッドの上にドッカリと腰を落とすと、小さくため息をついた。
*
それから、一美と萌は時々食事を共にした。
週に一回か二回。二人の帰宅時間が合った時に、たいていは一美の方から声をかける。
朗やリコが付いてくる時もあったし、二人きりの時もあった。
萌の主張を聞き入れて、大抵はラーメン屋やファミリーレストラン、大衆居酒屋などばかりで、当初は警戒していたリコも、あまりに『デート』らしくない店を選択する二人に、むしろ、半ば呆れたような目を向けるようになっていった。
そして、海にも行った。
一美が車を走らせ、海岸線に沿って伸びる道を行き、海が見えている間中、萌は一言もしゃべらない。ジッと、砂浜だか水平線だかを見つめているだけだ。
そんな姿に、彼女の生まれ育ったところは海が近いのだろうかと考えて、一美は、自分は彼女の事をほとんど知らないのだという事実に気が付いた。
これまで付き合ってきた相手は、一美が訊きもしないのに勝手に女の方から喋ってくれたから、彼から働きかける必要はなかったのだ。
いざ質問しようとしても、どんなふうに問いかけたらいいのかが思い浮かばず、そうこうするうちに、彼女が「ここがいい」と声を上げ、結局確かめられずに終わってしまった。
萌が待ち望んでいた砂浜に下りると、冬だというのに裸足になって、あまつさえ、足だけとはいえ海にも入った。
そんなこともあろうかと車に入れておいたバスタオルを手渡しながら「風邪でも引いたらどうするのか」と言った一美に、萌は「丈夫なんです」と笑っただけだった。
傍から見ても、本人たちにしても、それは男女というよりも兄妹のような関係だった。
萌といると、彼女が何を望んでいるのか、彼女が喜んでいるのか、それだけが気になってしまう。
――女といて、『自分がどうしたいか』ではなく、『相手が何をしたいのか』を考えながら過ごすのは、これもまた、一美にとって初めての事だった。
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