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第一章:はじまり
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「もうこんな時間か」
何気なく時計を見上げて、思わず一美はそう呟いた。
時刻は二十一時をまわっている。
面倒くさいのと気が乗らなかったのとで伸ばし伸ばしにしていた書類仕事を始めて、いつの間にやら三時間が以上が過ぎていた。
一美はパソコンをシャットダウンして肩を回す。
こういった、診察以外の業務が意外に時間を取るのだ。
そして、ヤル気になるのにも時間がかかる。
一つ一つはたいした手間ではないが、とにかく数が多い。書いても書いても翌日には新しいものが手元に回されてくる。
特に、小児科における繁忙期である冬が、これから本番を迎えるから、患者の数も増えるだろう。そうするとまた、それに比例して書類の数も増える。
だが、明日以降の事は明日以降の事。
とにかくひとまずのノルマはこなした彼は、帰り支度をする。
一美は着替えを終えると医局を出て、シンと静まり返った廊下を歩いて職員用出入り口に向かった。と、そこで思いもよらない人物と行き会う。
「小宮山さん」
そういえば、看護師の交代時間だったか、と一美は時計に目を走らせた。
萌は目を丸くして彼を見上げてくる。看護師の私服は華やかなものであることが多いが、彼女はハイネックのシャツにダウンジャケットを羽織り、下はジーパンにスニーカーという軽装だ。
その素朴な装いは彼女に似合っていると言えば似合っているが、彼ならもっと違う服を着せるだろう。
何の脈絡もなくそんなことを一美が考えていると、萌が屈託なく返してくる。
「岩崎先生。お疲れ様です。今までお仕事ですか?」
「ああ、ちょっと、書類を……」
「大変ですねぇ」
しみじみとした口調でそう言った萌に、一美は苦笑する。彼女こそ十二時間の勤務を終え、「お疲れ様」だと思うのだが。
「君も今帰りか。電車通勤?」
「はい、地下鉄で、五駅先です。駅からは、歩いて五分くらいなんですけど」
「へえ……」
二人は連れ立って歩きながら、そんなやり取りをする。
彼女がこんな時間に独りで地下鉄に乗るのかと思うと、なんとなく一美の胸の奥がざわめいた。
それなりに混んでいるだろうし、何より、酔っ払いなども多そうだ。五駅と言えば二十分もかからないだろうが、それでも、なんとなく不安になる。
他愛のない会話をつなげながら歩いていると、いつの間にやら駅に着いていた。
「じゃあ、わたしは下りの方なので」
一美は、上りで一駅分だ。乗る電車は反対方向になる。
ペコリと頭を下げて改札をくぐろうとした萌に、一美は頭よりも口が先に動いていた。
「食事、付き合ってくれないか?」
「はい?」
萌が、怪訝な顔で振り返る。
「俺の夕食はまだなんだ。時間があるなら何かつままないか?」
「もしかして、独りで食べるのがイヤな人なんですか?」
意外な『弱点』を見つけたとばかりに、萌の瞳が面白そうに煌めく。
「まあ、そんなところだ」
一美は、濁しつつ答えた。
が、実際は、そんなことはない。
むしろ、彼は食事時に誰かがいる方が嫌な性質である。しかし、萌の後ろ姿を見たら、とっさに声をかけてしまっていた。
「終電までまだ時間ありますし、いいですよ。……でも、割り勘ですから」
「いや、俺が出すよ。誘ったのは俺だし」
「わたし、奢られるの、あんまり好きじゃないんです。お給料ももらってるし……あ、でも、高いところはだめですよ? この間のとこみたいじゃなくて、もっと普通なお店にしてください」
先日萌とリコを連れて行ったのは、一美が女性を連れて良く行くレストランだった。
大抵の相手には喜ばれる店に連れて行った筈なのだが、どうやら萌には不評だったらしい。もっとも、あの店では看護師の財布には少々きついだろうから、「割り勘で」と言うからには選択肢から外さざるを得ないだろう。
「じゃあ、居酒屋とか」
「あ、わたし行ったことないんで、行ってみたいです」
目を輝かせた萌の言葉に、一美はこっそりとある意味感心する。
成人しているというのに、居酒屋未体験。
流石、里見高校出身というべきか。
「なら、近所にいいのがあるから、そこにするか」
「はい!」
パッと笑みを浮かべたその顔は、先日のレストランの時よりも、よほど嬉しそうだ。萌のその笑顔に、一美はいつにない満足感を覚える。
萌の帰りは遅くなってしまうが、その時は一美が送ってやればいい。
そう思うと、何故か彼の心の中も晴れやかになった気がした。
何気なく時計を見上げて、思わず一美はそう呟いた。
時刻は二十一時をまわっている。
面倒くさいのと気が乗らなかったのとで伸ばし伸ばしにしていた書類仕事を始めて、いつの間にやら三時間が以上が過ぎていた。
一美はパソコンをシャットダウンして肩を回す。
こういった、診察以外の業務が意外に時間を取るのだ。
そして、ヤル気になるのにも時間がかかる。
一つ一つはたいした手間ではないが、とにかく数が多い。書いても書いても翌日には新しいものが手元に回されてくる。
特に、小児科における繁忙期である冬が、これから本番を迎えるから、患者の数も増えるだろう。そうするとまた、それに比例して書類の数も増える。
だが、明日以降の事は明日以降の事。
とにかくひとまずのノルマはこなした彼は、帰り支度をする。
一美は着替えを終えると医局を出て、シンと静まり返った廊下を歩いて職員用出入り口に向かった。と、そこで思いもよらない人物と行き会う。
「小宮山さん」
そういえば、看護師の交代時間だったか、と一美は時計に目を走らせた。
萌は目を丸くして彼を見上げてくる。看護師の私服は華やかなものであることが多いが、彼女はハイネックのシャツにダウンジャケットを羽織り、下はジーパンにスニーカーという軽装だ。
その素朴な装いは彼女に似合っていると言えば似合っているが、彼ならもっと違う服を着せるだろう。
何の脈絡もなくそんなことを一美が考えていると、萌が屈託なく返してくる。
「岩崎先生。お疲れ様です。今までお仕事ですか?」
「ああ、ちょっと、書類を……」
「大変ですねぇ」
しみじみとした口調でそう言った萌に、一美は苦笑する。彼女こそ十二時間の勤務を終え、「お疲れ様」だと思うのだが。
「君も今帰りか。電車通勤?」
「はい、地下鉄で、五駅先です。駅からは、歩いて五分くらいなんですけど」
「へえ……」
二人は連れ立って歩きながら、そんなやり取りをする。
彼女がこんな時間に独りで地下鉄に乗るのかと思うと、なんとなく一美の胸の奥がざわめいた。
それなりに混んでいるだろうし、何より、酔っ払いなども多そうだ。五駅と言えば二十分もかからないだろうが、それでも、なんとなく不安になる。
他愛のない会話をつなげながら歩いていると、いつの間にやら駅に着いていた。
「じゃあ、わたしは下りの方なので」
一美は、上りで一駅分だ。乗る電車は反対方向になる。
ペコリと頭を下げて改札をくぐろうとした萌に、一美は頭よりも口が先に動いていた。
「食事、付き合ってくれないか?」
「はい?」
萌が、怪訝な顔で振り返る。
「俺の夕食はまだなんだ。時間があるなら何かつままないか?」
「もしかして、独りで食べるのがイヤな人なんですか?」
意外な『弱点』を見つけたとばかりに、萌の瞳が面白そうに煌めく。
「まあ、そんなところだ」
一美は、濁しつつ答えた。
が、実際は、そんなことはない。
むしろ、彼は食事時に誰かがいる方が嫌な性質である。しかし、萌の後ろ姿を見たら、とっさに声をかけてしまっていた。
「終電までまだ時間ありますし、いいですよ。……でも、割り勘ですから」
「いや、俺が出すよ。誘ったのは俺だし」
「わたし、奢られるの、あんまり好きじゃないんです。お給料ももらってるし……あ、でも、高いところはだめですよ? この間のとこみたいじゃなくて、もっと普通なお店にしてください」
先日萌とリコを連れて行ったのは、一美が女性を連れて良く行くレストランだった。
大抵の相手には喜ばれる店に連れて行った筈なのだが、どうやら萌には不評だったらしい。もっとも、あの店では看護師の財布には少々きついだろうから、「割り勘で」と言うからには選択肢から外さざるを得ないだろう。
「じゃあ、居酒屋とか」
「あ、わたし行ったことないんで、行ってみたいです」
目を輝かせた萌の言葉に、一美はこっそりとある意味感心する。
成人しているというのに、居酒屋未体験。
流石、里見高校出身というべきか。
「なら、近所にいいのがあるから、そこにするか」
「はい!」
パッと笑みを浮かべたその顔は、先日のレストランの時よりも、よほど嬉しそうだ。萌のその笑顔に、一美はいつにない満足感を覚える。
萌の帰りは遅くなってしまうが、その時は一美が送ってやればいい。
そう思うと、何故か彼の心の中も晴れやかになった気がした。
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