天使と狼

トウリン

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第一章:はじまり

5-2

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 お見送りは、粛々と行なわれた。
 康太こうたが入院して二ヶ月という時間が過ぎている為もあるのか、家族が泣き叫んだり取り乱したりする姿を見せることは無かった。
 その場にいた一人一人が康太を抱き、声をかけ、そうして準備が整ったら、太一たいちがナースステーションに姿を現した。

「そろそろ行こうと思います」
 憔悴はしているが穏やかな眼差しで、彼はそう言った。
「わかりました。では、こちらが死亡診断書になります。死亡届は七日以内に役所に提出してください。……この度は、力及ばず――」
 そう言って頭を下げようとした一美かずよしはじめに、太一は首を振る。
「いいえ、こちらこそ、よくしていただきました。先生方にも、ですが、僕が仕事であまり付いていてやれなくても、看護師さんが康太のことも康子やすこのことも良く見てくれていたから、随分と助けてもらいました」
 そこで彼は目頭に手をやり、拭うと、微かに笑顔になった。

「小宮山さん、でしたっけ。彼女には本当にお世話になりました。ホントはね、彼女が康太に話しかけたり笑いかけたりしてくれてね、彼女があんまり普通にしているから、もしかしたらこの子はちゃんと元気になるんじゃないかって、思った時もありました。最初の頃はね」
 そこで太一は言葉を切り、小さく息をついた。
 口元には、淡い笑みが浮かんでいる。
「それが、希望になりました。多分、あれがなかったら、初めの二週間を乗り越えられなかったんじゃないかな。元気になる、元気になる、と思い続けて、でも、ある時点から、その気持ちは自然となくなりました――自然にね。そうしたら、こいつはただ僕たちと少しでも長く過ごす為に命を繋いでくれてるんだなぁって。こいつが頑張って心臓動かしてるのは、誰でもない、僕や康子の為なんだって」
 今度は、ハンカチを出して目に押し当てた。
「あいつがこれから生きる筈だった何十年に比べれば、短いですよ? 本当なら、何十年も、まだ一緒にいられる筈だった。全然、足りない。でも、この二ヶ月をもらえて、良かったです。ありがとうございました」
 太一は深々と頭を下げて再び病室に戻っていく。

「何度経験しても、いたたまれませんね」
 そう言いながら、肇が溜息をついた。

 助かる為の場所に来たのに、助けられない。
 そんなジレンマは、医者には付き物だ。経験が浅い者ほど、それに対する焦りは大きい。一美にも肇の思うことは理解できるが、そこに囚われるわけにもいかないのだ。

 一美は肩をすくめて肇に返す。
「仕方がないさ。助けられないものは、助けられない」
「そうなんですけどねぇ……」
「ほら、それよりも行くぞ。小宮山さんも呼んでこい」
「はい……」
 活気の無い声で返事をすると、肇は看護記録を付けているもえに声をかけに行く。

 二人が戻ってくると、留守番をする他の看護師に一声かけて、連れ立ってお見送りの際に使われる出入り口へと向かった。

 基本的に、病院内は静かだ。
 だが、その出入り口へと続く廊下は、他とは違う静寂に満ちている。

 チラリと一美が視線を横に流すと、萌は少し唇を引き結んで真っ直ぐ前を向いて歩いている。
 三人の足音だけが響く中、黙々と進んだ。

 出口に着いて十分ほどすると、康子たちが現れた。
 小さな子どもの場合、棺などに入れず、そのまま抱いて自宅の車で連れ帰ることが多い。彼女の腕の中にも、大事にくるまれた康太が抱き締められていた。
 一美たちに気付くと、康子はその場で一度立ち止まり、深々と頭を下げ、そして、また歩き出す。
 時刻は三時を過ぎており、とっぷりと更けた月の無い夜空には月が輝いている。

「お世話になりました」
 待っている車の前まで着くと細い声で康子が言い、太一と共に頭を下げる。一美たちも深々と腰を折った。
 康子は微かに笑みを浮かべると、萌に向き直る。
「小宮山さん、ありがとうね」
 その言葉に、萌は大きく瞬きし、次いで首を振った。
「いいえ……いいえ、わたし……」
 それきり口ごもる萌に、康子は更に笑みを深くする。
「あなた、とってもいい看護婦さんになると思うわ。頑張ってね」
「はい……」
 康子の言葉に萌は深く頷く。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「ええ、そうね」
 そう言うと、もう一度、互いに礼をし合う。

 康子たちは車に乗り込み、去っていく。その車影が見えなくなるまで、一美たちは頭を深く下げて送り出した。
 車の姿もエンジン音も消え去って、後は一美たちだけが残される。
「さあ、俺たちも引き上げるぞ」
 車が走り去った方を見つめたままの萌に声をかけ、一美は歩き出そうとする。が、ポツリと、呟くようにこぼされた彼女の声に足を止めた。

「え?」
 うまく聞き取れなくて、一美は振り返る。
「わたし……ちゃんとうまくできたんでしょうか」
「小宮山さん」
「もっと、何かしてあげられたんじゃないでしょうか」
 彼女の目は、一美を見ていない。まだ、康太が乗った車の影を見つめているように、遠くへと向けられていた。

 一美は肇に向けて先に行くようにと手を振ってから、萌の両肩を掴んで自分に向き直らせた。彼が手を放しても、萌の顔は俯いたままだ。
「もっと……もっともっと、何かできたんじゃないかと思うんです」
 か細い声に、一美は、殆ど衝動的に彼女を抱き締めたくなった。

 女を『抱き』たいと思ったことはいくらでもある。だが、今彼の中にあるものは、それとは違った。ただ『抱き締め』たいと、自分の腕の中に包み込んでしまいたいと、思ったのだ。
 それは一美にとって初めての感情だった。『抱く』と『抱き締める』は明らかに違う。だが、何がどう違うのか、彼自身にも説明はできなかった。

 動いてしまいそうになる両手を握り締めて、一美は口を開く。極力、普段と同じ口調になるように心がけて。
「君は、あの子のケアで手を抜いたのか?」
「え?」
 萌がようやく顔を上げる。
「別に、手を抜いたわけではないのだろう?」
「はい……」
「だったら、それが全てだ。現時点で君ができ得る限りのことをしたのなら、それ以上でもそれ以下でも無いんだ」

 実際のところ、同じ職種ではない一美の目から見ても、経験の浅い看護師とは思えないほど、良くやれていたのではないかと思う。

 それを伝えて褒めてやるのは簡単だ。
 だが、きっと、萌は褒め言葉を欲しているわけではない。
 こんな結果に終わった以上、他人がどんなに彼女のしたことを称賛しようが、それはたいした力を持たない。自分自身が自分のしたことを認めてやらなければ、結局はどんな言葉もただの気休めになってしまうのだ。

「君は今回、今の君ができる範囲のことをやった。後できることと言えば、この経験を次に生かすことくらいだ」
 彼の突き放したようにも聞こえる台詞に、萌の顔がクシャリと歪む。

 泣くのか。

 そう、一美は身構えたが、彼女の目から雫が零れ落ちることは無かった。その代わりに、深く頷く。
「はい……はい、そうですね。ありがとうございます」
 そう言って、ニコリと笑った。

『看護師』である萌を甘やかすことはしない。
 そう心に決めたのは、一美自身だ。

 だが、今この時、彼女を労わってやることができたなら、どんなに自分の心が安らぐだろうと、彼は思った。
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