闇に飛ぶ鳥

トウリン

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すれ違う想い

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「絢嗣兄さま」
 目に馴染んだ洋装の背中に呼びかけ、絢嗣が振り返り、目が合った、と思った次の瞬間には、彼の腕の中にいた。
 異国で過ごす時間の方が長いためか、絢嗣は触れ合うことにためらいがない。けれど、いつもはもっとふわりと包み込むような、優しい抱擁だった。それが今は、息が止まりそうなほど、強く抱きしめられている。
 巴は、その力の強さが絢嗣の思いの強さなのだと唇を噛む。
 これほどまでに、心配させてしまったのだ。

「絢嗣兄さま、ごめんなさい」
 目の前にある彼の胸に向けてそう告げると、巴を閉じ込めている腕の力が緩んだ。顔を上げた彼女に返ってきたのは、絢嗣の温かな微笑み。磨き上げた黒曜石を思わせる艶やかな瞳と髪に変わりはないが、薄っすらと目の下が陰っているのを見つけてしまい、巴の胸はしくしくと痛んだ。
「君が無事で良かった。今この瞬間まで、生きた心地がしなかった」
 胸の奥から絞り出すようにこぼされた言葉は、深々としたため息を伴っていた。
「本当にごめんなさい」
「君が謝ることではないよ」
「でも、黙っていなくなって、連絡もせずに……」
「仕方がないことだろう」
 絢嗣はそう言って顔を上げ、巴の後ろに立つカラスに眼を向けた。
「あなたが彼女を助けてくれた方か。礼を言う」
 言葉遣いは丁寧なものだというのに、カラスに向ける眼差しはまるで刃のように冷ややかで鋭い。こんな絢嗣は、初めて見る。カラスを振り返ると、彼も同じような眼をしていた。
(どうして二人ともそんな怖い顔……)
 まるで、お互い仇敵と睨み合っているようではないか。

 とにもかくにも双方大事な存在である彼らを取り成そうと、巴は絢嗣を見上げる。
「あ、あの、この方はカラスと言って――」
「君を殺しに来たけれども寝返り、今まで共に逃げていたのだろう?」
 絢嗣の理解は端的で正確だった。
「ええ、はい、その通りです」
 巴はこくりと頷く。
 すんなり受け入れてもらえて助かった、と思ったけれど、見れば相変わらず絢嗣の顔もカラスの顔も張り詰めたままだ。
 カラスには天都に戻るまでの道すがら、絢嗣には実の兄のように慈しんでもらっていることを伝えてあったし、絢嗣も今の言葉からはカラスが悪い人ではないことが判っているはずだ。
 それなのに、どうして二人の間にある空気はこんなにもピリピリと張り詰めているのだろう。
 困惑する巴をよそに、彼女の頭の上で言葉が行き交う。
「巴が大変お世話になったようだが、もうお引き取りいただいて結構だ。ああ、彼女を守ってもらった礼はしよう」
「要らねぇよ」
「あなたの言い値を出すが?」
「要らねぇっつてんだろ。それよりさっさとそいつ放せよ」
 愛想の欠片もなくカラスが言い、刹那、巴には、ピシッと、家鳴りのようなものが聞こえたような気がした。
 二人とも、どうしてこんなにギスギスしているのだろう。
 巴には困惑しかない。

 殺伐とした空気に一石を投じたのは、打って変わってのんびりとしたトビの声だ。
「ねえ、ちょっと? お姫様の取り合いしている場合じゃないと思うけどね」
 その台詞と共に廊下の陰りから姿を現したトビとカワセミは、巴を挟んで睨み合う男二人に呆れたような――いや、明らかに呆れ返った眼差しを注いでいる。
「そうよぅ。巴が帰ってきたってこと、天都に入った時点で『伏せ籠』には知られてると思うわよ? その人がべらぼうなお金出してくれたから、巴のこと探すのは目下の一大任務になってるし」
「知られたなら、今夜にでも誰か送り込まれてくるんじゃないかな」
「まあ、こっちにはカラスがいるんだし、誰が来たってどうってことないけど」
 そう言って、カワセミは肩を竦めた。
「巴をあんたに返すってのは終わらしたわけだから、あたしのもう一つの仕事もやっちゃっていいんだけど。あ、でも、『伏せ籠』から報酬はもらえないんだけど……代わりにあんた出してくれる?」
 無邪気な様子でカワセミが訊ねた相手は絢嗣だ。
 一拍遅れてカワセミの言葉の意味するところに気が付いて、巴は色を失う。
「駄目です!」
「病気っぽく見せるから大丈夫よ?」
 婀娜っぽく首をかしげて言ったカワセミに、巴は大きくかぶりを振る。
「駄目です。わたくしが帰ってきた一番の理由は、それをやめさせるためです」
 きっぱりとカワセミに告げ、巴は再び絢嗣に向き直った。そうして、彼の目を真っ直ぐに見つめる。

「絢嗣兄さま。兄さまが、わたくしを狙った方の命を奪うよう依頼したということを彼女からお聞きしました。それは、本当ですか?」
 巴の問いかけに、絢嗣は微かな舌打ちと共にカワセミにサッと目を走らせた。そしてすぐに、苛立ちを拭い去った顔で巴を見下ろしてくる。
「そのことは、君は気にしなくていい。もう忘れなさい。私が全て負うから。これは、私が果たすべき責務だよ」
「いいえ! いいえ、絢嗣兄さまがそんなことをする必要なんてありません。絢嗣兄さまがおじいさまにご恩を感じていることはよく存じております。けれど、おじいさまへの義理立てで、人の道を踏み外すようなことはなさらないでください。おじいさまだって、そんなことは望んでいらっしゃらないはずです」
 必死に説く巴に、絢嗣は静かにかぶりを振った。
「いや、その必要はあるんだよ。おじい様が私にしてくださったことは、関係ない。彼らを誅するのは、むしろ、私の義務だと言ってもいいくらいなんだ」
「義務だなんて……絢嗣兄さまには関係ありません。お願いですから、もうやめて――」

「私の実の両親なんだ」

「……――え?」

 降ってきた言葉にポカンと目を見開いた巴に、絢嗣が苦笑する。
「君の命を狙ったのは、血を分けた私の父と母なのだよ。だから、関係はあるんだ」
 彼はそう言い、巴の頬を手のひらで包み込んだ。
「すまない。だが、君は私が守るから。彼らにはこれ以上何もさせない」
 絢嗣の眼に閃いた剣呑な光に、巴は息を呑む。
 「何もさせない」ために彼が選んだ手段を、彼女は知っている。だからこそ、それを実行させるわけにはいかない。そんなことは、絶対にあってはならない。
「絢嗣兄――」
「巴」
 どうにかして絢嗣の考えを改めさせようとする巴の口を、静かな声が遮った。
「彼らのことは私に任せなさい。君が望むなら、片が着くまで異国に行ってくるのもいいのではないかな。国外にもいくつか家を持っているから、何なら船旅で世界中を回るのもいいね。おじい様亡き今、もうこんなところに縛られている必要はない。君がどうしても小早川家のことが気になると言うのなら、私が継ぐよ。どうせ一族の財布は皆私が握っているんだ。否とは言わせない」
 絢嗣の口調は朗らかなのに、どれだけ叩こうがびくともしないだろうと思わせる頑なな響きがあった。
 どう言ったら、この人の考えを変えられるのだろう。
 絢嗣は、いつだって、どんなことだって、巴の気持ちを優先させてくれた。
 けれど、この件ばかりは決して譲歩してくれないに違いない。巴に注がれる絢嗣の声にも眼差しにも、ほぐす糸口になりそうな緩みは、ほんの少しも見いだせなかった。

 二進も三進もいかずに唇を噛んだ巴の二の腕が、ふいに掴まれた。と思ったら、グイと後ろに引っ張られる。
「あ……」
 よろけた彼女は、しかし、倒れ込むことなく力強い腕に支えられた。
「カラス」
 肩越しに見上げれば、彼は巴には一瞥もくれずに絢嗣を睨んだままだ。もしかしたら、ここに来てからずっとそうだったのかもしれないと思うほどに、その視線は微動だにしなかった。それを受け、絢嗣がスッと目をすがめる。
「まだいたのか。この子のことは私が引き継ぐ。今までご苦労だった。どこへなりとも好きなところへ行ってくれ」
「ああ? それは俺の台詞だよ。こいつはお前のことなんざ要らねぇっつってんだ」
 巴を腕の中に囲い込み、傲然とカラスは言ったが、その内容に巴はギョッとする。
「そんなこと言ってません! 絢嗣兄さまはわたくしの大事な方です! 要らないなんて、そんなことありません!」
 慌てて反論した巴に、カラスが不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「お前は俺と行くと言っただろ」
「それは、そうですが……でも、絢嗣兄さまが大切だと思う気持ちがなくなるわけではないです。仮に遠く離れたとしても、大事なものは大事です」
 巴が言い募るほどにカラスの不機嫌さが増していく。

「カラス、あの……?」
 口ごもった巴を、カラスはポイと放り出した。前につんのめった彼女を受け止めた絢嗣をギロリとねめつけて、そのまま一言も残さず部屋を出て行ってしまう。
「カラス!」
 追いかけようとしたけれど、彼を怒らせてしまった理由が解らない。それが解からなければ謝ることはできないし、更に怒らせてしまうかもしれない。そう思うと、踏み出そうとする足が固まった。
「カラス……」
 小さな声で名を呼んだけれども、彼には届かない。あるいは、届いていたのかもしれないけれど、振り返ってはくれなかった。
 立ちすくみ、遠ざかるカラスの背を目で追うしかできなかったから、絢嗣が自分を思案深げに見つめていることに、巴は気づいていなかった。
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