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カワセミ
峠の町
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この国の東西を分けている峠の町は、山の上にあるというのに城下町も顔負けの賑わいを見せていた。都の大通りのように広い道の両側にずらりと店が並んでいるが、売られているものは野菜や魚ではなく小洒落た小物などだ。それに、ずいぶんと宿屋が多い。
都の、生活臭溢れるものとは違う空気に、巴はキョロキョロと辺りを見回してしまう。と、鼻をくすぐる臭いにふと眉をひそめた。
「何か、変な臭いがします」
くさい、と言えば、くさい。
けれど、不快ではない。
スンスンと辺りを嗅いで小首をかしげる巴に答えてくれたのは、トビだ。
「温泉の臭いだね。ここは湯治場でもあるから」
「温泉?」
「そう。卵が腐ったみたいな臭いだろう?」
トビはそう表現したが、巴は腐った卵の臭いなど嗅いだことがない。いぶかし気な顔をしている巴に、トビが眉を上げた。
「温泉に来たことがないのかい?」
「あまり、家から出たことがなくて……」
「金持ちなんだろう? それが理由で殺されそうになったくらいなんだし、旅行なんて行き放題じゃないのかい?」
トビの台詞に巴はかぶりを振る。
「小早川家の資産は小早川家のものです。わたくしやおじい様個人が自由にできるものではありません」
「そういうものかい? あるなら使ってしまえばいいのに。ねえ、カラス」
トビに話を振られたカラスは、しかし、ジロリと彼を睨んだだけだった。だが、トビは何故か嬉しそうな顔になる。こんな場面はここまでの道中で何度もあった。そこに含まれているものが何であれ、カラスの眼を引くことができさえすれば、トビは満足らしい。
このトビという人が巴たちと行動を共にするようになってから十日ほどが過ぎているが、カラスが自ら彼に言葉をかけるところはまだ一度も目にしたことがない。というより、今のように視線を向けることすらほとんどなかった。
カラスとトビは、いったい、どういう間柄なのか。
(トビさんがカラスのことをすごく好きだということは、見ていて伝わってくるけれど)
二人が子どもの頃から一緒だったということは、ここまでの道中、トビが教えてくれた。
巴に話しかけるトビにカラスは嫌そうにしていたけれども、遮ることはしなかった――トビが手の届く範囲に近づかない限りは。
たいていは、カラスを挟んだ反対側から滔々と過去の話を流してくれる。そんなトビの声には、カラスに対する称賛の念が満ち溢れていた。
集められた同じ年頃の子どもたちの中で、どれだけ彼が優秀だったか。
誰よりも力も頭も秀でていて、誰よりも早く技を習得し、誰よりも多く手柄を立てた。
巴に語る、というよりも、トビの中で反芻されている過去が口からこぼれ出しているだけのようでもあったけれど、無口なカラスは己のことを何も教えてはくれないから、巴は彼の過去語りに聴き入った。
そうやって、カラスについて知れることは、嬉しいと思う。けれど、彼がどんな世界に身を置いていたかを知っているから、巴は称賛に共感することはできなかった。
カラスが本当は優しい人なのだとは、口が裂けても言えない。
路銀がないからと、通りすがりの人から平然と金品を奪おうとした。
道中、ちょっとでも巴に絡むような輩がいれば、容赦なく叩きのめした。
襲ってきたトビに対してだって、小さな頃から一緒にいた仲間だというのに、何のためらいもなく力を振るった。彼の指は、まだ添え木で固定されたままだ。
カラスは優しい人ではない。人を傷付けることを、なんとも思わない。
けれど、決して、暴力を好んでいるわけではないのだということも、巴は知っている。
小早川の屋敷を発った日に襲ってきた、もう一人の刺客。彼は、明らかに巴を害することを楽しんでいた――カラスとは違って。
カラスが助けに来てくれなければ、命を奪われる前に散々嬲られていたことだろう。あの男は、巴を傷付けることを、力を誇示することを、楽しんでいた。
(カラスは、あの人とは違う)
巴はそっとカラスをうかがった。
この人が、もっと違う道を生きることができていたら、どんなふうになっていたのだろう。
もっと明るい道を、堂々と歩くことができていたら。
そんなことに思いを巡らせながらカラスを見つめていると、ふいに彼が手を伸ばして巴を引き寄せた。予期せぬ動きにふらついて、カラスの胸に額をぶつけてしまう。
何事かと顔を上げると、巴が立っていたところを、胴間声でがなり合う男の一団が通り過ぎていった。夕暮れ時で、酔客も増えてきたようだ。
「ありがとうございます」
にこりと笑った巴の言葉に応えがないのはいつものことだ。
と、カラスがヒョイと片腕に巴を抱き上げた。不意に高くなった視野に、巴はとっさに彼の首にしがみついてしまう。
「カラス――!」
小さな子どものように抱えられ、巴は声を上げた。が、カラスは一向に意に介さず歩き出してしまう。巴という荷物もものともせず、人混みの中を彼はスイスイと進み、少し奥まったところにある宿屋の前で足を止めた。カラスは窺うような眼差しで店の構えを一瞥してから、ようやく巴を下ろしてくれた。
「ここにするの?」
影のようについてきていたトビの言葉を無視して、カラスは宿屋の暖簾をくぐる。と、そこに下げられていた鈴が涼やかな音を立て、女将と思しき中年の女性が姿を現した。
「お三人さんですか?」
女将は巴たちにサッと目を走らせ、愛想よく尋ねてきた。
「二人だ」
カラスの返事を間髪入れずにトビが修正する。
「三人で」
再び険のある眼差しを向けたカラスに、トビはヘラリと緩い笑みを返した。触れたら切れそうな視線にも、全く怯んでいない。
多分、何を言おうが暖簾に腕押しだということが判っているのだろう。カラスはそれ以上は何も言わず、また女将に眼を戻した。そうして、巴を眼で示しながら言う。
「俺とこいつは同じ部屋だ」
「え、僕は除け者かい?」
トビが再び抗議の声を上げたけれども、今度は、カラスは振り返ることもしなかった。
都の、生活臭溢れるものとは違う空気に、巴はキョロキョロと辺りを見回してしまう。と、鼻をくすぐる臭いにふと眉をひそめた。
「何か、変な臭いがします」
くさい、と言えば、くさい。
けれど、不快ではない。
スンスンと辺りを嗅いで小首をかしげる巴に答えてくれたのは、トビだ。
「温泉の臭いだね。ここは湯治場でもあるから」
「温泉?」
「そう。卵が腐ったみたいな臭いだろう?」
トビはそう表現したが、巴は腐った卵の臭いなど嗅いだことがない。いぶかし気な顔をしている巴に、トビが眉を上げた。
「温泉に来たことがないのかい?」
「あまり、家から出たことがなくて……」
「金持ちなんだろう? それが理由で殺されそうになったくらいなんだし、旅行なんて行き放題じゃないのかい?」
トビの台詞に巴はかぶりを振る。
「小早川家の資産は小早川家のものです。わたくしやおじい様個人が自由にできるものではありません」
「そういうものかい? あるなら使ってしまえばいいのに。ねえ、カラス」
トビに話を振られたカラスは、しかし、ジロリと彼を睨んだだけだった。だが、トビは何故か嬉しそうな顔になる。こんな場面はここまでの道中で何度もあった。そこに含まれているものが何であれ、カラスの眼を引くことができさえすれば、トビは満足らしい。
このトビという人が巴たちと行動を共にするようになってから十日ほどが過ぎているが、カラスが自ら彼に言葉をかけるところはまだ一度も目にしたことがない。というより、今のように視線を向けることすらほとんどなかった。
カラスとトビは、いったい、どういう間柄なのか。
(トビさんがカラスのことをすごく好きだということは、見ていて伝わってくるけれど)
二人が子どもの頃から一緒だったということは、ここまでの道中、トビが教えてくれた。
巴に話しかけるトビにカラスは嫌そうにしていたけれども、遮ることはしなかった――トビが手の届く範囲に近づかない限りは。
たいていは、カラスを挟んだ反対側から滔々と過去の話を流してくれる。そんなトビの声には、カラスに対する称賛の念が満ち溢れていた。
集められた同じ年頃の子どもたちの中で、どれだけ彼が優秀だったか。
誰よりも力も頭も秀でていて、誰よりも早く技を習得し、誰よりも多く手柄を立てた。
巴に語る、というよりも、トビの中で反芻されている過去が口からこぼれ出しているだけのようでもあったけれど、無口なカラスは己のことを何も教えてはくれないから、巴は彼の過去語りに聴き入った。
そうやって、カラスについて知れることは、嬉しいと思う。けれど、彼がどんな世界に身を置いていたかを知っているから、巴は称賛に共感することはできなかった。
カラスが本当は優しい人なのだとは、口が裂けても言えない。
路銀がないからと、通りすがりの人から平然と金品を奪おうとした。
道中、ちょっとでも巴に絡むような輩がいれば、容赦なく叩きのめした。
襲ってきたトビに対してだって、小さな頃から一緒にいた仲間だというのに、何のためらいもなく力を振るった。彼の指は、まだ添え木で固定されたままだ。
カラスは優しい人ではない。人を傷付けることを、なんとも思わない。
けれど、決して、暴力を好んでいるわけではないのだということも、巴は知っている。
小早川の屋敷を発った日に襲ってきた、もう一人の刺客。彼は、明らかに巴を害することを楽しんでいた――カラスとは違って。
カラスが助けに来てくれなければ、命を奪われる前に散々嬲られていたことだろう。あの男は、巴を傷付けることを、力を誇示することを、楽しんでいた。
(カラスは、あの人とは違う)
巴はそっとカラスをうかがった。
この人が、もっと違う道を生きることができていたら、どんなふうになっていたのだろう。
もっと明るい道を、堂々と歩くことができていたら。
そんなことに思いを巡らせながらカラスを見つめていると、ふいに彼が手を伸ばして巴を引き寄せた。予期せぬ動きにふらついて、カラスの胸に額をぶつけてしまう。
何事かと顔を上げると、巴が立っていたところを、胴間声でがなり合う男の一団が通り過ぎていった。夕暮れ時で、酔客も増えてきたようだ。
「ありがとうございます」
にこりと笑った巴の言葉に応えがないのはいつものことだ。
と、カラスがヒョイと片腕に巴を抱き上げた。不意に高くなった視野に、巴はとっさに彼の首にしがみついてしまう。
「カラス――!」
小さな子どものように抱えられ、巴は声を上げた。が、カラスは一向に意に介さず歩き出してしまう。巴という荷物もものともせず、人混みの中を彼はスイスイと進み、少し奥まったところにある宿屋の前で足を止めた。カラスは窺うような眼差しで店の構えを一瞥してから、ようやく巴を下ろしてくれた。
「ここにするの?」
影のようについてきていたトビの言葉を無視して、カラスは宿屋の暖簾をくぐる。と、そこに下げられていた鈴が涼やかな音を立て、女将と思しき中年の女性が姿を現した。
「お三人さんですか?」
女将は巴たちにサッと目を走らせ、愛想よく尋ねてきた。
「二人だ」
カラスの返事を間髪入れずにトビが修正する。
「三人で」
再び険のある眼差しを向けたカラスに、トビはヘラリと緩い笑みを返した。触れたら切れそうな視線にも、全く怯んでいない。
多分、何を言おうが暖簾に腕押しだということが判っているのだろう。カラスはそれ以上は何も言わず、また女将に眼を戻した。そうして、巴を眼で示しながら言う。
「俺とこいつは同じ部屋だ」
「え、僕は除け者かい?」
トビが再び抗議の声を上げたけれども、今度は、カラスは振り返ることもしなかった。
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