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トビ
迷い子
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カラスは行ってしまった。
巴は彼が消えて行った方を見つめて立ち竦む。
――もう、戻ってこないのかもしれない。
ふとそんな考えが頭の中をよぎって、彼女の視界がにじんだ。慌てて、何度か強く瞬きをする。
確かに、カラスの言う通りなのかもしれない。平和な屋敷の中で祖父に守られていた巴など想像すらできないような道を、彼は歩んできたのだろうから。カラスが見てきたものの方が、『現実』なのかもしれない。
けれど、彼の行動を是とすることなど、彼女にはできなかったのだ。
「どうしよう、かな……」
口の中だけでそう呟いた。自然と目は地面を見つめてしまう。言葉は思案深げでも、頭の中は空っぽで、まともに考えることなどできていない。
カラスの行動が、巴には全然解からない。彼とは、これまで歩んできた何もかもが違う。根本的な何かが、違う。
「どうしたらいいのか、な」
繰り返してみても、答えは出てこない。巴は、何となく、手にしていた祖母の形見の薙刀を抱き締めた。そして頭を一振りして顔を上げる。
――取り敢えず、動こう。
そう決めて、巴は路地に転がる男たちに目を走らせた。彼らの怪我は気がかりだけれども、目を覚ましたら、きっと困ったことになるに違いない。いくら世間知らずの彼女でも、そのくらいは予想できる。カコ、カコ、と響くぽっくりの足音を気にしながら男たちを避け、路地から大通りへと踏み出した。
途端に戻ってきた喧騒に、巴は当惑する。行き交う人々は、道の隅に立ちすくむ彼女になど、眼もくれない。
多分、迷子というのはこういう気分になのだろう。
こんなにたくさん人がいるのに、まるで独りきりしかいないような心持ちに陥ってしまう。
巴は唇を噛んだ。カラスに依存している自分が、情けない。
「どこに行こう」
行くあては、なかった。カラスの行き先に心当たりなど、全くない。
迷った末に、巴は先ほどまでいた茶屋へと戻る。まだ手付かずで置いておいた為か、カラスが注文していったココアという飲み物は、テーブルの上にぽつんと残されていた。
巴は椅子に座ってカップを両手で握り、ぼんやりと通りを眺める。もしかしたら、カラスの姿がこちらに向かって来ないかと思って。
まだ残っていたカップの温もりが、冷えた巴の手にジンワリと沁み込んでくる。いつもなら、冷たくなった彼女の手を包んでくれるのはカラスだった。代わりの温かさを求めて、巴はカップを握り締める手に力を込める。
と、不意に、その視界が陰る。そしてカップから立ち上る甘い匂いに混じって鼻先にふわりと漂う香の匂い。
目を上げた巴の前には、一人の男性が立っていた。
「そこ、座っていいですか?」
後ろで一つにくくった赤味がかった茶色の長い髪に、穏やかに晴れた春の空のような藤色の目。カラスと同じか、あるいはいくつか下かもしれないくらいの年頃の、書生姿の青年だ。竹刀か何かだろうか、布に包まれた長い筒状のものを手にしている。
穏やかな顔立ちは整っているのだが、あまりこれといった特徴がなく、目を逸らしたらすぐに忘れてしまいそうだった。
他にも空いている席はあるのに、何故、ここなのだろう。
そうは思っても、断る理由も見つからない。巴が迷っているうちに、青年は勝手に椅子を引いて腰を下ろしてしまった。
「一人?」
青年は、通りに目を向けたまま、巴をチラリとも見ずにそう言った。呟くようなその言葉が自分に向けての問いだと気付くのに、少しかかってしまう。
「え? あ、いえ、一緒に旅をしている者がおります」
「その人は、どこ?」
「今は、ちょっと……」
そう答えながら、『今』だけならいいのだけれど、と思ってしまう。彼女が小さく洩らしたため息を、青年は耳ざとく聞き止めた。
「どうかした?」
「いえ、何でもありません」
そして、沈黙。
青年をこっそり窺ってみても、やはりその横顔に見覚えはない。
まったく面識のない者と相席しているのは気詰りで、さりとて、この場を離れるわけにもいかず、巴はどうしたらいいものかと困惑するばかりだ。
しばらく沈黙が続く。
再び口を開いたのは、やはり青年だった。
「その連れは、どんな人?」
「はい?」
「君の連れ。どんな男?」
「え……えっと……」
見知らぬ男相手に、答える義務はない。口ごもる巴に、彼は初めてその視線を真っ直ぐに向けた。その藤色の目は、妙に彼女を居心地悪くさせる。
その眼差しに背中を押されるようにして、巴はその問いに対する答えを口にする――それを答えと呼べるかどうかは疑問だが。
「解かりま、せん」
「解からない?」
青年が怪訝な声で彼女の台詞をおうむ返しにする。
「本当に、解からないんです」
何故カラスが自分を連れ出してくれたのか。
何故カラスが自分と一緒にいてくれるのか。
そして、カラスが何を考えているのか。
もしかしたら親戚の誰よりも多くの時間を共にし、彼らのうちの誰よりも多くの言葉を交わしているかもしれないのに、全然理解できないのだ。
「何も」
巴は小さく呟いて俯いた。
と、不意に青年が立ち上がる。現れた時と同様、唐突に。
「あの?」
「……」
思わず声をかけてしまった巴を、青年は無言で見下ろしてくる。と思うとクルリと背を向け、歩き出した。呆気に取られた彼女が見つめる中で、その背中は見る間に人混みに埋もれて見えなくなってしまう。
「何だったの……?」
思わずそう呟いてしまった巴だったが、ふと首をかしげた。
自分は、カラスの事を『男性だ』と言っただろうか、と。
巴は彼が消えて行った方を見つめて立ち竦む。
――もう、戻ってこないのかもしれない。
ふとそんな考えが頭の中をよぎって、彼女の視界がにじんだ。慌てて、何度か強く瞬きをする。
確かに、カラスの言う通りなのかもしれない。平和な屋敷の中で祖父に守られていた巴など想像すらできないような道を、彼は歩んできたのだろうから。カラスが見てきたものの方が、『現実』なのかもしれない。
けれど、彼の行動を是とすることなど、彼女にはできなかったのだ。
「どうしよう、かな……」
口の中だけでそう呟いた。自然と目は地面を見つめてしまう。言葉は思案深げでも、頭の中は空っぽで、まともに考えることなどできていない。
カラスの行動が、巴には全然解からない。彼とは、これまで歩んできた何もかもが違う。根本的な何かが、違う。
「どうしたらいいのか、な」
繰り返してみても、答えは出てこない。巴は、何となく、手にしていた祖母の形見の薙刀を抱き締めた。そして頭を一振りして顔を上げる。
――取り敢えず、動こう。
そう決めて、巴は路地に転がる男たちに目を走らせた。彼らの怪我は気がかりだけれども、目を覚ましたら、きっと困ったことになるに違いない。いくら世間知らずの彼女でも、そのくらいは予想できる。カコ、カコ、と響くぽっくりの足音を気にしながら男たちを避け、路地から大通りへと踏み出した。
途端に戻ってきた喧騒に、巴は当惑する。行き交う人々は、道の隅に立ちすくむ彼女になど、眼もくれない。
多分、迷子というのはこういう気分になのだろう。
こんなにたくさん人がいるのに、まるで独りきりしかいないような心持ちに陥ってしまう。
巴は唇を噛んだ。カラスに依存している自分が、情けない。
「どこに行こう」
行くあては、なかった。カラスの行き先に心当たりなど、全くない。
迷った末に、巴は先ほどまでいた茶屋へと戻る。まだ手付かずで置いておいた為か、カラスが注文していったココアという飲み物は、テーブルの上にぽつんと残されていた。
巴は椅子に座ってカップを両手で握り、ぼんやりと通りを眺める。もしかしたら、カラスの姿がこちらに向かって来ないかと思って。
まだ残っていたカップの温もりが、冷えた巴の手にジンワリと沁み込んでくる。いつもなら、冷たくなった彼女の手を包んでくれるのはカラスだった。代わりの温かさを求めて、巴はカップを握り締める手に力を込める。
と、不意に、その視界が陰る。そしてカップから立ち上る甘い匂いに混じって鼻先にふわりと漂う香の匂い。
目を上げた巴の前には、一人の男性が立っていた。
「そこ、座っていいですか?」
後ろで一つにくくった赤味がかった茶色の長い髪に、穏やかに晴れた春の空のような藤色の目。カラスと同じか、あるいはいくつか下かもしれないくらいの年頃の、書生姿の青年だ。竹刀か何かだろうか、布に包まれた長い筒状のものを手にしている。
穏やかな顔立ちは整っているのだが、あまりこれといった特徴がなく、目を逸らしたらすぐに忘れてしまいそうだった。
他にも空いている席はあるのに、何故、ここなのだろう。
そうは思っても、断る理由も見つからない。巴が迷っているうちに、青年は勝手に椅子を引いて腰を下ろしてしまった。
「一人?」
青年は、通りに目を向けたまま、巴をチラリとも見ずにそう言った。呟くようなその言葉が自分に向けての問いだと気付くのに、少しかかってしまう。
「え? あ、いえ、一緒に旅をしている者がおります」
「その人は、どこ?」
「今は、ちょっと……」
そう答えながら、『今』だけならいいのだけれど、と思ってしまう。彼女が小さく洩らしたため息を、青年は耳ざとく聞き止めた。
「どうかした?」
「いえ、何でもありません」
そして、沈黙。
青年をこっそり窺ってみても、やはりその横顔に見覚えはない。
まったく面識のない者と相席しているのは気詰りで、さりとて、この場を離れるわけにもいかず、巴はどうしたらいいものかと困惑するばかりだ。
しばらく沈黙が続く。
再び口を開いたのは、やはり青年だった。
「その連れは、どんな人?」
「はい?」
「君の連れ。どんな男?」
「え……えっと……」
見知らぬ男相手に、答える義務はない。口ごもる巴に、彼は初めてその視線を真っ直ぐに向けた。その藤色の目は、妙に彼女を居心地悪くさせる。
その眼差しに背中を押されるようにして、巴はその問いに対する答えを口にする――それを答えと呼べるかどうかは疑問だが。
「解かりま、せん」
「解からない?」
青年が怪訝な声で彼女の台詞をおうむ返しにする。
「本当に、解からないんです」
何故カラスが自分を連れ出してくれたのか。
何故カラスが自分と一緒にいてくれるのか。
そして、カラスが何を考えているのか。
もしかしたら親戚の誰よりも多くの時間を共にし、彼らのうちの誰よりも多くの言葉を交わしているかもしれないのに、全然理解できないのだ。
「何も」
巴は小さく呟いて俯いた。
と、不意に青年が立ち上がる。現れた時と同様、唐突に。
「あの?」
「……」
思わず声をかけてしまった巴を、青年は無言で見下ろしてくる。と思うとクルリと背を向け、歩き出した。呆気に取られた彼女が見つめる中で、その背中は見る間に人混みに埋もれて見えなくなってしまう。
「何だったの……?」
思わずそう呟いてしまった巴だったが、ふと首をかしげた。
自分は、カラスの事を『男性だ』と言っただろうか、と。
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