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9章 2021年 最愛の人
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「い、いえ。とても、素敵になってらっしゃいます」
「年の差は開いたけど、昔のように下の名前を呼んでくれないかな。敬語もいらない」
「そんな! おこがましいです」
蓮也の端正な顔に、寂しさが浮かんだ。
「俺が……20も年上だから?」
「そ、それもあります、けど……」
「けど?」
すでに他人の夫となった彼を、恋人のようには呼べない。
「きのう、伊桜さんの工房へ行きました。立派な工房で感動しました。綺麗な奥様とかわいい息子さんにも会いました。どうか僕のことはもう気になさらず、お仕事とご家族を大事になさってください」
強ばった顔に無理矢理笑顔を作ると、蓮也がこれ以上ないほど目を見開いて数秒固まり、それから大声で「はあぁっ!?」と叫んだ。
タクシーの運転手が驚いてブレーキを踏み、十羽の体がガクンと揺れた。
「奥様と息子だと!? 誰だよそれは!」
「え? ……誰って」
「俺はずっと独身だぞ!?」
十羽は仰天して倒れそうになった。
「えぇっ!? そんな……そんな……! じゃあ、あの子は?」
蓮也にそっくりな子ども、りょうちゃんは息子ではない? しかし息子にしか見えなかった。りょうちゃんも蓮也をパパと呼んでいた。一体どういうことなのだろう。独身だけど子持ち? それとも歴史が変わった?
頭の中がぐらぐらと揺れ、視界が暗くなっていく。体に力が入らない。まともに座っていられない。どんどん意識が遠のいていく。
「十羽!?」
気を失う寸前、慌てて自分を抱き留める、蓮也の焦った顔が見えた。
気がつくと、十羽は夢のようにふわふわとした心地のいい布団の中にいた。
ぼんやりとした視界の中には、優しげな眼差しで自分を見つめる蓮也がいる。彼はベッドの縁に腰かけ、十羽の手を握っていた。十羽は安堵の息を漏らし、これは夢だ、と思った。一緒に暮らしていた頃の、幸せな夢だ。
「蓮也君、おはよ」
笑顔で呼びかけると、彼がにっこりと笑んだ。
「おはよう」
「今、何時? ちょっと、寝過ごしちゃったかな」
「今は、午後2時だよ」
「……え!?」
ガバッと飛び起きる。
「もうお昼過ぎてる!? どうしよう、洗濯してない!」
蓮也がくくっと笑った。
「寝ぼけてるんだな。かわいい」
「へ?」
慌てて周囲を見ると、十羽は見覚えのない寝室のベッドにいた。壁は漆喰の落ちついた乳白色、床は無垢材のフローリング、部屋の隅には『アトリエ・イザクラ』で見たような観葉植物の鉢植えが置かれている。モデルルームみたいにナチュラルで洒落た寝室だ。
キングサイズのベッドにはふわふわの上質な羽毛布団。大きな窓からはカーテン越しに陽光が差し込んでいる。静かで穏やかな空間。
「ここ、どこ?」
呆然としながら自分の体を見ると、光沢のある肌触りのいいパジャマを身につけていた。素材はシルクだろうか。
「勝手に脱がせてパジャマを着せた。悪い」
蓮也が申し訳なさそうに言った。
「ううん……て、あっ!」
十羽はハッとした。蓮也は一緒に暮らしていた頃の彼ではなく、42歳の蓮也だった。ここは夢の中ではない。そばにいるのは白いシャツとグレーのスラックスを身につけた大人の彼。
「あ、あの、すみません……!」
動揺と恥ずかしさで小さくなる。すっかり勘違いしていた。
「また他人行儀な十羽に戻ったな。俺が昔みたいに十羽さんって呼べば、下の名前を呼んでくれる?」
「そ、そんな、僕のほうがずっと年下なのに、蓮也君って呼ぶのはちょっと……。さんづけで呼ばれるのも、変な感じが……」
蓮也が、ふうと軽い溜息をついた。
「じゃあ十羽。呼び方は追々決めよう。とりあえず今の状況を説明するよ」
「は、はい」
十羽は緊張して背筋を伸ばした。42歳の蓮也の貫禄に気圧されている。
「まず、十羽は今朝、タクシーの中で意識を失ったんだ。医者に診てもらったら、心労と疲労のせいだろうと言われた。よく寝れば回復すると言ってたけど……体は大丈夫か?」
ゆっくり眠れたので体力は十分に回復した。首の怪我も幸い軽く、湿布を貼るだけで済んだ。
「はい」
生真面目な口調で返答すると、くしゃりと優しく頭を撫でられた。
「よし。それからここは、俺の家だ。隣にシャワールームがある。着替えも用意してあるから、まずはシャワーを浴びて一階に降りて来てくれ。飯を作って待ってる」
「年の差は開いたけど、昔のように下の名前を呼んでくれないかな。敬語もいらない」
「そんな! おこがましいです」
蓮也の端正な顔に、寂しさが浮かんだ。
「俺が……20も年上だから?」
「そ、それもあります、けど……」
「けど?」
すでに他人の夫となった彼を、恋人のようには呼べない。
「きのう、伊桜さんの工房へ行きました。立派な工房で感動しました。綺麗な奥様とかわいい息子さんにも会いました。どうか僕のことはもう気になさらず、お仕事とご家族を大事になさってください」
強ばった顔に無理矢理笑顔を作ると、蓮也がこれ以上ないほど目を見開いて数秒固まり、それから大声で「はあぁっ!?」と叫んだ。
タクシーの運転手が驚いてブレーキを踏み、十羽の体がガクンと揺れた。
「奥様と息子だと!? 誰だよそれは!」
「え? ……誰って」
「俺はずっと独身だぞ!?」
十羽は仰天して倒れそうになった。
「えぇっ!? そんな……そんな……! じゃあ、あの子は?」
蓮也にそっくりな子ども、りょうちゃんは息子ではない? しかし息子にしか見えなかった。りょうちゃんも蓮也をパパと呼んでいた。一体どういうことなのだろう。独身だけど子持ち? それとも歴史が変わった?
頭の中がぐらぐらと揺れ、視界が暗くなっていく。体に力が入らない。まともに座っていられない。どんどん意識が遠のいていく。
「十羽!?」
気を失う寸前、慌てて自分を抱き留める、蓮也の焦った顔が見えた。
気がつくと、十羽は夢のようにふわふわとした心地のいい布団の中にいた。
ぼんやりとした視界の中には、優しげな眼差しで自分を見つめる蓮也がいる。彼はベッドの縁に腰かけ、十羽の手を握っていた。十羽は安堵の息を漏らし、これは夢だ、と思った。一緒に暮らしていた頃の、幸せな夢だ。
「蓮也君、おはよ」
笑顔で呼びかけると、彼がにっこりと笑んだ。
「おはよう」
「今、何時? ちょっと、寝過ごしちゃったかな」
「今は、午後2時だよ」
「……え!?」
ガバッと飛び起きる。
「もうお昼過ぎてる!? どうしよう、洗濯してない!」
蓮也がくくっと笑った。
「寝ぼけてるんだな。かわいい」
「へ?」
慌てて周囲を見ると、十羽は見覚えのない寝室のベッドにいた。壁は漆喰の落ちついた乳白色、床は無垢材のフローリング、部屋の隅には『アトリエ・イザクラ』で見たような観葉植物の鉢植えが置かれている。モデルルームみたいにナチュラルで洒落た寝室だ。
キングサイズのベッドにはふわふわの上質な羽毛布団。大きな窓からはカーテン越しに陽光が差し込んでいる。静かで穏やかな空間。
「ここ、どこ?」
呆然としながら自分の体を見ると、光沢のある肌触りのいいパジャマを身につけていた。素材はシルクだろうか。
「勝手に脱がせてパジャマを着せた。悪い」
蓮也が申し訳なさそうに言った。
「ううん……て、あっ!」
十羽はハッとした。蓮也は一緒に暮らしていた頃の彼ではなく、42歳の蓮也だった。ここは夢の中ではない。そばにいるのは白いシャツとグレーのスラックスを身につけた大人の彼。
「あ、あの、すみません……!」
動揺と恥ずかしさで小さくなる。すっかり勘違いしていた。
「また他人行儀な十羽に戻ったな。俺が昔みたいに十羽さんって呼べば、下の名前を呼んでくれる?」
「そ、そんな、僕のほうがずっと年下なのに、蓮也君って呼ぶのはちょっと……。さんづけで呼ばれるのも、変な感じが……」
蓮也が、ふうと軽い溜息をついた。
「じゃあ十羽。呼び方は追々決めよう。とりあえず今の状況を説明するよ」
「は、はい」
十羽は緊張して背筋を伸ばした。42歳の蓮也の貫禄に気圧されている。
「まず、十羽は今朝、タクシーの中で意識を失ったんだ。医者に診てもらったら、心労と疲労のせいだろうと言われた。よく寝れば回復すると言ってたけど……体は大丈夫か?」
ゆっくり眠れたので体力は十分に回復した。首の怪我も幸い軽く、湿布を貼るだけで済んだ。
「はい」
生真面目な口調で返答すると、くしゃりと優しく頭を撫でられた。
「よし。それからここは、俺の家だ。隣にシャワールームがある。着替えも用意してあるから、まずはシャワーを浴びて一階に降りて来てくれ。飯を作って待ってる」
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