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9章 2021年 最愛の人

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「俺は牛丸が明日見君の部屋に入ってから後の音声を、このスマホに録音した。二人が言い争いをしている音声が入っている」

 低い声音は淡々として冷静沈着。対照的に、牛丸はますます声を荒げた。

「おまえ、なんなんだよ! 録音? コソコソと卑怯な真似をしやがってよ!」
「あんたに言われたくないな。俺は明日見君を守るためにやっただけだ」
「守る?」

 すると蓮也の少し後ろに立っていた椎名が前に出た。丸眼鏡の縁に手をかけ「僕が伊桜さんに頼んだ」と固い口調で言う。

 この場に椎名もいたことに十羽は驚いた。
 牛丸がフンと鼻を鳴らす。

「椎名さん、なんでここにいるんですかね。この男とどういう関係なんすか」
「伊桜さんは僕の友人だ」
「友人?」

「ああ。今日、牛丸君に明日見君が帰って来たことを話しただろ。明日見君には近づかないようにと諭して、君は承諾した。でも後になって、僕は明日見君が帰ってきたことを話して良かったんだろうかと不安になったんだ。牛丸君は承諾した振りをして、明日見君のアパートへ行くかもしれない。もし明日見君が襲われるようなことがあったら大変だ。だから友人の伊桜さんに応援を頼んでここへ来た。僕は腕力に自信がないからね。何かあったとき一人では対処できないと思った」

 椎名は蓮也に応援を求めて一緒にアパートへ向かった。アパートに到着すると、ちょうど牛丸が十羽の部屋に入ったところだった。
 椎名は狼狽えた。十羽が牛丸を招き入れたのか、牛丸が強引に押し入ったのかわからない。すると蓮也が「俺がこっそりドアに近づいて中の様子を窺う。椎名君は下で待っていてくれ。合図をしたら警察を呼べ」と言ったので、椎名は言われたとおり外階段の下で待機した。

 蓮也が冷めた目で牛丸を見る。
「俺は何かあったときの証拠にするため、スマホで音声を録音しながらドアに近づいた。すると部屋の中から二人が争う音が聞こえた。これはまずい状況かもしれないと思ったから、隣の住人を装ってドアを叩いた。うるさいと文句をつければ、怒った牛丸が部屋から出てくると踏んだのさ」

「くそー! おまえ、さては探偵だな!?」
 頭に血を上らせた牛丸が蓮也に殴りかかろうと突進した。
 警察官が牛丸の腕を掴む。
「こら、おとなしくしなさい!」
「残念、探偵ではないよ。この音声データは証拠として警察へ提出する」

 蓮也がスマホをタップすると、雑音混じりの音声が流れ始めた。
『キスより先に体を繋ぎたいって? せっかちだな。いいよ、すぐに挿れてあげる』
『ああっ……!』
 ドタバタと揉み合う音がする。
『やめろ! あんたがしてることは犯罪だぞ!』
『一度俺に抱かれたら虜になるよ。そうなればもう犯罪じゃないさ』
『誰か! 誰か助けて!』

 もう一度タップして音声を止めた。
「言い逃れはできないぞ」
「ち、ち、ちっくしょうー!」
 牛丸は顔を真っ赤に上気させ、警察官を振り切って蓮也に拳を打ち込んだ。
「おっと」
 蓮也は難なくそれを避け、空を切った牛丸の拳を掴んで捻り上げた。牛丸が堪らず「ギャッ」と唸る。

「まるで狂人だな。こんなことをしても自分が不利になるだけだろ。もっと頭の良い男だと聞いていたんだが」
「うるさい! 俺は明日見を愛してるんだ! 明日見だって俺を愛してる! 俺に抱かれてもいいと言ったんだ!」
 わめく牛丸の形相は、もうイケメンとはほど遠い。

 警察官が「二人ともやめなさい!」と叫んだが、蓮也は牛丸を思いきり背負い投げて地面に叩きつけた。ダンッと大きな音が立つ。
「うぐぅっ!」
 牛丸は背中の痛みに悶絶した。
 格闘家のようなキレのある背負い投げを目の当たりにして、十羽と椎名、警察官の口が思わずあんぐりと開く。野次馬が「おおっ」と声を上げた。

 蓮也が警察官に向かい「すみません、つい」と言って紳士的に笑んだ。そして牛丸を哀れむような目で見下ろす。
「おまえの愛は本当の愛じゃない。しばらく塀の中で自分を見つめ直すんだな」

「ぢ、ぢぐしょ、う……」

 二人の警察官は伸びている牛丸の両脇を抱え上げ「牛丸さん、詳しい話は署で伺いますよ」と言って彼をパトカーに押し込んだ。

 十羽も被害届を出すために、蓮也と椎名は音声を提出するために警察署へ向かった。
 警察署では必要な書類にサインをして、もう一度詳しい状況を説明して。と慌ただしく時間が過ぎていった。十羽は窓から逃亡した後、頃合いを見てアパートに戻ったということにした。

 警察署では他に、牛丸が大麻の使用と所持で警察からマークされていたことも聞かされた。出入りしていたクラブが大麻の取引場所だったらしい。常軌を逸した言動は大麻の影響だったのかと、驚きと同時に合点がいった。

 その後は病院の夜間外来で怪我の診察を受け、被害届を申請するための診断書を作成する手配をした。蓮也と椎名がずっとつき添ってくれた。
 椎名は牛丸を甘く見ていたと、何度も謝ってくれた。蓮也には深く感謝していた。格闘技の修練を積んだ蓮也を頼って、本当に良かったと。


 とりあえず一段落した頃には、夜明けが近くなっていた。病院を出て空を仰ぐと、東の空が明るい。
「明日見君、タクシーを呼んだからアパートまで送って行くよ」
 椎名の申し出に十羽は頷こうとしたが、蓮也が「いや、明日見君は俺がタクシーで送って行く」と言った。

「椎名君の家と明日見君のアパートは、方角が全然違うだろ。俺は同じだ」
「確かにそうですね。それじゃ、明日見君は伊桜さんにおまかせします。明日見君、それでいい?」
「は、はい」

 病院の前にタクシーが滑り込み、十羽は蓮也と二人でタクシーに乗り込んだ。
 シートに背を預けた蓮也が、ぶっきらぼうに言う。

「大変だったな。疲れただろ」
 十羽は丁寧にお辞儀をした。
「本当に、ありがとうございました」
「構わないよ。それより……」

 蓮也が十羽を見つめた。切なげな表情で。
「久しぶりだな。十羽」

 トクンと、鼓動が脈打った。今まで淡々とした口調だったのに、十羽の名前を呼んだ声音にはどこか20歳の彼を彷彿とさせる、甘やかな温もりがあった。どんな顔をして彼を見たらいいのかわからない。目が泳いでしまう。

「は、はい。お久しぶりです。伊桜さん」
「やっと会えたな。いや、やっと会えたのは俺だけで、十羽はちょっと前に20歳の俺に会ってるか。ややこしいな」

 ははっと蓮也が笑う。
「あ、あの、色々と申し訳ありませんでした。後日、改めてお礼をさせてください」
「なんでそんなに他人行儀なんだ? 俺がおっさんになってるから、緊張してる?」

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