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8章 2021年 十羽が見た現実

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「うるさいな。人が来たら厄介だ」
 牛丸は破れたシャツを丸め、十羽の口に押し込んだ。

「うぅっ」
「おとなしくしてろよ?」
 十羽の両手首を掴んでベッドに押さえつける。

「うー! うー!」
 牛丸は身動きが取れない十羽を血走った目で楽しげに見下ろし、舌なめずりをした。

「最初からこうしておけば良かったよ」
 十羽の胸に顔を寄せ、小さな突起をベロリと舐め上げる。
「うぅー!」

 不快感に身の毛がよだった。
 蓮也以外の男に抱かれるなんて絶対に嫌だ。
 もう彼に抱かれることはなくても。

(蓮也君……!)

 蓮也の顔を思い浮かべた瞬間、涙が出そうになった。同時に、彼が言った言葉を思い出した。

 ──十羽さんがその気になれば、どんな男でも虜にできると思う。

 その気になれば……?
 こうなったら一か八かだ。十羽は口から懸命にシャツを吐き出し、大きな瞳に力を込めて牛丸を睨み上げた。

「いい加減にしろ! 僕を抱きたかったら、まずはひざまずいてお願いしろよ! そうしたら……」

 怪しく誘うように視線を動かす。今まで何人もの男を勘違いさせてきた流し目を、意識して牛丸に向けた。桃色の唇からチラリと舌を出し、艶然と微笑んでも見せた。淡褐色の瞳に妖艶な光りが宿る。
 それはまさに、強烈な魔性。

「抱かせてあげてもいいよ?」

 そう言った瞬間、牛丸が雷に打たれたように固まり、瞳孔を開いて「あっ、あっ」と声にならない声を発した。まるでメドゥーサに魅入られて石になってしまったかのようだ。手首を押さえつけている力が抜けていく。

 十羽は牛丸を睨んだまま、ゆっくりと体を起こした。片足の膝を立て、小首をかしげて強気な流し目を向ける。

「ねえ、僕を抱きたい? でもね、暴力をふるう人は嫌いなんだ。謝ってくれる?」

 牛丸はガタガタと震えながら、頭から大量の汗を流し始めた。
「あ、あ、謝ったら、抱かせてくれますか」
「考えてあげる。さあ、早く謝りなよ!」
「ああ!」

 後退った牛丸がベッドから降りて床に座り、両手をついて平伏した。
「申し訳ありませんでした! どうかお許しください!」

 さっきまで威圧的だった男が、嘘みたいに土下座している。十羽の変化が驚くほど性癖に刺さったのか、牛丸は恍惚とした表情で十羽の言葉を待っていた。
 十羽の心臓が焦りでバクバクと鳴る。

(ど、どうしよう。思いつきで誘惑したらすごくうまくいった。でもこの後どうしたらいいかわからない!)

 これは演技だ。牛丸を逆上させないために、恫喝されないために、あえて誘惑した。自分の虜にできれば言いなりにできるのではと考えた。本当に一か八かの賭けだった。

 牛丸はこれ以上ないほど土下座している。
「お願いします! 抱かせてください!」
「んー、どうしようかな」
 余裕ぶった振りをして、フンと鼻を鳴らした。
「どうか、どうか……!」

 ハアハアと息を吐きながら、牛丸が目を血走らせてにじり寄ってくる。最高に気持ちが悪い。

(うう、怖い! これが演技だってバレたら……)

 殴られるかもしれない。
 牛丸がベッドに這い上がってきた。
 恐怖のあまり硬直しそうな十羽の足に、牛丸の手が触れる。手は太股を撫でるように上へ移動し、十羽のボクサーパンツに指をかけた。

(脱がされる……!)

  体が硬直しかけた、そのとき──。

 ドンドンドンッとドアを激しく叩く音が響いた。

「おい! さっきからうるさいぞ! 喧嘩なら外でやれ!」
 隣の住人だろうか。騒音が気に障ったらしい。

 すると牛丸が勢いよく振り返り、ドアに向かって大声を発した。
「こっちは今取り込み中なんだよ! 邪魔すんな、ボケ!」
「なんだと! てめえ出てこい!」
 ドカッとドアを蹴り飛ばす音が響く。

(これって、チャンスかも)

 これは助けを求めるチャンスだ。大声で助けて! と叫んでみようか。しかしドアには鍵がかかっている。ドアの向こうの人が警察を呼んでくれたとしても、到着するまでの間に暴行を受ける可能性がある。だがこんな大きなチャンスを逃すわけにはいかない。

 十羽は色っぽく体をしならせ、桃色の唇を尖らせた。
「もう、気分が台無しだよ。外で騒いでる人、なんとかしてきて」

 振り向いた牛丸が「はい! ただ今!」と軽快に答えて敬礼した。そして「少しだけご褒美をください!」と言って十羽の足の小指を舐めようとしたので、十羽は思いきり足を引いて牛丸の顔を蹴った。

「バカ! ご褒美なんかあげないよ!」
「申し訳ありません!」
 牛丸は心底嬉しそうな顔でベッドから転げ落ち、すぐさま立ち上がってドアに向かった。鍵を開けて外に出る。

 ドアが閉まり、外で二人の男が口論を始めた。どちらもケンカ腰だ。

(今なら、窓から逃げられる!)

 十羽は急いで手近にあったパーカーを着てチノパンを履き、手に靴を持った。そして窓を開けて下を見た。二階の部屋から地上まで、雨どいを伝えばなんとか降りられるはず。

 窓枠を越えようと足を上げた瞬間、背後で何かが光った。
「え?」
 振り返ると、なんと戸棚の上に飾ってある、額縁の中のイチョウの押し葉が光を放っていた。
「えぇっ!?」
 押し葉から溢れる黄色の光りが、大きく膨らんでいく。やがて光が一本の筋となり、まっすぐに押し入れを指し示した。押し入れの丸い引き手が、見る間に真鍮しんちゅう製のドアノブに変化する。映画のCGみたいだ。

「す、すごい……!」
 押し入れがタイムスリップの扉になった。十羽はドキドキしながら近づき、ドアノブを引いた。中は宇宙空間のような真っ暗な闇が広がっている。この中に飛び込めば蓮也に会えるかもしれない。

 外ではまだ口論が続いていた。
 十羽は靴を履いて深呼吸をし、思いきって闇の中に飛び込んだ。

(蓮也君に会わせてください!)

 それだけを願って闇のトンネルを落下し、光りの輪をくぐる。過去の世界に落ちると感じた瞬間、眼前で黄金色のイチョウの葉が何枚も舞い踊った。同時に、どこからともなく女性の声が聞こえた。

『一時間以内に戻りなさい。戻れなかったときは、あなたの肉体が消滅します。同じ人間が、同じ時間を生きることはできない』

 その声は、いつかイチョウの木の下で出会った高齢の女性を思い出させた。孫娘にイチョウの葉をプレゼントすると言った、あの女性。

 十羽は思わず周囲を見たが、周りはイチョウの葉が舞い踊るばかりで人の姿は見えない。

「イチョウの神様!?」
 返事はない。でも神様としか思えなかった。
「神様、ありがとうございます!」

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