42 / 72
6章 見習いの青年
6-5
しおりを挟む
そうして平穏な日々が数日過ぎた。
家事を終わらせた後はスケッチブックに絵を描き、水彩絵の具で着色する。庭に咲く花やリビングの風景などを写実的に描き、十羽は絵の修練をした。
未来のことはやはり気になる。
すでに何日も無断欠勤して事務所に迷惑をかけているのだ。今度こそ椎名は怒っているだろう。仕事のことを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
牛丸も今頃何を言いふらしているのやら。
だけど、どんなに気を揉んでもここにいる限り何もできない。もがいても焦っても、どうにもならない。
だったら、過去の世界にいる間だけは未来を忘れよう。
あえて考えないようにする。
十羽は思いきって開き直り、この世界でしばらく癒やされることにした。
この時代で暮らすために世の中のことを知りたい。新聞やテレビを見て情報を得るよう心がけた。
1999年では、同世代の人々の間で茶髪や金髪が流行中。男性のファッションは派手めでチャラい感じ、女性は厚底のブーツを履いたギャル風が一世を風靡していた。
しかし蓮也の服装は至って地味だ。世間の流行には無頓着、好きな木工の仕事に没頭している。そんな実直で素朴なところも十羽の恋心をくすぐる。
そして1999年は、十羽が生まれた年だった。誕生日は12月24日なので、あと半年ほどでこの世界に誕生する予定である。
十羽が生まれたら、十羽という人間が二人、同じ時代に存在するわけで……。
普通なら絶対にあり得ないことだ。
はたして十羽が生まれたとき、22歳の十羽はどうなってしまうのだろう。誕生日までには未来へ帰るかもしれないので予測はできないが、少し不安を感じた。
今は6月1日。母のおなかにはもう、小さな十羽がいる。
週末が近づいた頃、蓮也から「今度の土日に旅行しよう」と誘われた。友達が海辺のホテルで働いており、かなりの割安で宿泊させてもらえると言う。
そして迎えた週末、朝から車で海辺の町へ向かった。車は中古の軽四自動車だ。黒いTシャツ姿の蓮也が慣れた手つきでハンドルを握る。
「いつかもっとでかい車がほしいよ。新車でさ」
「そう? 僕は、車は動けばなんでもいいけどね」
助手席の十羽がそう言うと、蓮也は「価値観の相違だな」と言って苦笑いした。とはいえ彼とは好きな食べ物やアートの趣味、生活感が合う。二人の生活は心地がいい。
車は爽快に走り、やがて堤防の向こうに海と砂浜が見えてきた。
晴天の下、どこまでも続く青い海がキラキラと輝いている。車の窓を開けた十羽は「わあっ」と感嘆の声を上げた。頬に当たる潮風が気持ちいい。
蓮也と二人きりのときはマスクなどの仮面を外しているため、久しぶりに素肌に風を受けて気分が高揚した。
道沿いの大きなレストランでランチを食べようという話になり、車は店の駐車場へ。広い駐車場には多くの車が止まっていた。
ギアをバックに入れた蓮也が、後方を確認するべく助手席のシートに左手を添える。十羽は肩を抱かれたような錯覚を覚え、密かにドキドキした。
蓮也の体躯は全体的にスマートだけれど、力仕事が多いせいか、筋肉が引き締まっている。首筋や肩周りも逞しい。特に上腕二頭筋は見惚れるほどだ。
男の色気を大いに感じ、十羽の頬がほんのり赤くなる。
車を停車させた彼が、十羽の顔をひょいと覗き込んだ。
「顔が赤いな。車に酔ったのか?」
「だ、大丈夫」
赤い頬を見られるのが恥ずかしい。しかし蓮也は真顔で十羽の顔を覗き込んでくる。狭い車内でかなりの至近距離。エンジン音が消えた静かな車内は妙に緊張する。
(ち、近い、近いって!)
いたたまれずに目をギュッと閉じると、蓮也が大きな手を十羽の額に当てた。
「熱があるのも」
(ひえっ!)
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
優しくそっと撫でながら、手が頬に移動した。
頬を包み込む手つきが甘く感じる。顔中が赤くなる。
「ちょっと、いいか?」
蓮也の端正な顔がさらに近づき、額に額をコツンと合わせた。
キスができる距離だ。
家事を終わらせた後はスケッチブックに絵を描き、水彩絵の具で着色する。庭に咲く花やリビングの風景などを写実的に描き、十羽は絵の修練をした。
未来のことはやはり気になる。
すでに何日も無断欠勤して事務所に迷惑をかけているのだ。今度こそ椎名は怒っているだろう。仕事のことを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
牛丸も今頃何を言いふらしているのやら。
だけど、どんなに気を揉んでもここにいる限り何もできない。もがいても焦っても、どうにもならない。
だったら、過去の世界にいる間だけは未来を忘れよう。
あえて考えないようにする。
十羽は思いきって開き直り、この世界でしばらく癒やされることにした。
この時代で暮らすために世の中のことを知りたい。新聞やテレビを見て情報を得るよう心がけた。
1999年では、同世代の人々の間で茶髪や金髪が流行中。男性のファッションは派手めでチャラい感じ、女性は厚底のブーツを履いたギャル風が一世を風靡していた。
しかし蓮也の服装は至って地味だ。世間の流行には無頓着、好きな木工の仕事に没頭している。そんな実直で素朴なところも十羽の恋心をくすぐる。
そして1999年は、十羽が生まれた年だった。誕生日は12月24日なので、あと半年ほどでこの世界に誕生する予定である。
十羽が生まれたら、十羽という人間が二人、同じ時代に存在するわけで……。
普通なら絶対にあり得ないことだ。
はたして十羽が生まれたとき、22歳の十羽はどうなってしまうのだろう。誕生日までには未来へ帰るかもしれないので予測はできないが、少し不安を感じた。
今は6月1日。母のおなかにはもう、小さな十羽がいる。
週末が近づいた頃、蓮也から「今度の土日に旅行しよう」と誘われた。友達が海辺のホテルで働いており、かなりの割安で宿泊させてもらえると言う。
そして迎えた週末、朝から車で海辺の町へ向かった。車は中古の軽四自動車だ。黒いTシャツ姿の蓮也が慣れた手つきでハンドルを握る。
「いつかもっとでかい車がほしいよ。新車でさ」
「そう? 僕は、車は動けばなんでもいいけどね」
助手席の十羽がそう言うと、蓮也は「価値観の相違だな」と言って苦笑いした。とはいえ彼とは好きな食べ物やアートの趣味、生活感が合う。二人の生活は心地がいい。
車は爽快に走り、やがて堤防の向こうに海と砂浜が見えてきた。
晴天の下、どこまでも続く青い海がキラキラと輝いている。車の窓を開けた十羽は「わあっ」と感嘆の声を上げた。頬に当たる潮風が気持ちいい。
蓮也と二人きりのときはマスクなどの仮面を外しているため、久しぶりに素肌に風を受けて気分が高揚した。
道沿いの大きなレストランでランチを食べようという話になり、車は店の駐車場へ。広い駐車場には多くの車が止まっていた。
ギアをバックに入れた蓮也が、後方を確認するべく助手席のシートに左手を添える。十羽は肩を抱かれたような錯覚を覚え、密かにドキドキした。
蓮也の体躯は全体的にスマートだけれど、力仕事が多いせいか、筋肉が引き締まっている。首筋や肩周りも逞しい。特に上腕二頭筋は見惚れるほどだ。
男の色気を大いに感じ、十羽の頬がほんのり赤くなる。
車を停車させた彼が、十羽の顔をひょいと覗き込んだ。
「顔が赤いな。車に酔ったのか?」
「だ、大丈夫」
赤い頬を見られるのが恥ずかしい。しかし蓮也は真顔で十羽の顔を覗き込んでくる。狭い車内でかなりの至近距離。エンジン音が消えた静かな車内は妙に緊張する。
(ち、近い、近いって!)
いたたまれずに目をギュッと閉じると、蓮也が大きな手を十羽の額に当てた。
「熱があるのも」
(ひえっ!)
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
優しくそっと撫でながら、手が頬に移動した。
頬を包み込む手つきが甘く感じる。顔中が赤くなる。
「ちょっと、いいか?」
蓮也の端正な顔がさらに近づき、額に額をコツンと合わせた。
キスができる距離だ。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
零れる
午後野つばな
BL
やさしく触れられて、泣きたくなったーー
あらすじ
十代の頃に両親を事故で亡くしたアオは、たったひとりで弟を育てていた。そんなある日、アオの前にひとりの男が現れてーー。
オメガに生まれたことを憎むアオと、“運命のつがい”の存在自体を否定するシオン。互いの存在を否定しながらも、惹かれ合うふたりは……。 運命とは、つがいとは何なのか。
★リバ描写があります。苦手なかたはご注意ください。
★オメガバースです。
★思わずハッと息を呑んでしまうほど美しいイラストはshivaさん(@kiringo69)に描いていただきました。
年上の恋人は優しい上司
木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。
仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。
基本は受け視点(一人称)です。
一日一花BL企画 参加作品も含まれています。
表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる