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6章 見習いの青年

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 そうして平穏な日々が数日過ぎた。
 家事を終わらせた後はスケッチブックに絵を描き、水彩絵の具で着色する。庭に咲く花やリビングの風景などを写実的に描き、十羽は絵の修練をした。

 未来のことはやはり気になる。
 すでに何日も無断欠勤して事務所に迷惑をかけているのだ。今度こそ椎名は怒っているだろう。仕事のことを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 牛丸も今頃何を言いふらしているのやら。

 だけど、どんなに気を揉んでもここにいる限り何もできない。もがいても焦っても、どうにもならない。

 だったら、過去の世界にいる間だけは未来を忘れよう。
 あえて考えないようにする。
 十羽は思いきって開き直り、この世界でしばらく癒やされることにした。

 この時代で暮らすために世の中のことを知りたい。新聞やテレビを見て情報を得るよう心がけた。

 1999年では、同世代の人々の間で茶髪や金髪が流行中。男性のファッションは派手めでチャラい感じ、女性は厚底のブーツを履いたギャル風が一世を風靡ふうびしていた。

 しかし蓮也の服装は至って地味だ。世間の流行には無頓着、好きな木工の仕事に没頭している。そんな実直で素朴なところも十羽の恋心をくすぐる。

 そして1999年は、十羽が生まれた年だった。誕生日は12月24日なので、あと半年ほどでこの世界に誕生する予定である。
 十羽が生まれたら、十羽という人間が二人、同じ時代に存在するわけで……。

 普通なら絶対にあり得ないことだ。
 はたして十羽が生まれたとき、22歳の十羽はどうなってしまうのだろう。誕生日までには未来へ帰るかもしれないので予測はできないが、少し不安を感じた。

 今は6月1日。母のおなかにはもう、小さな十羽がいる。



 週末が近づいた頃、蓮也から「今度の土日に旅行しよう」と誘われた。友達が海辺のホテルで働いており、かなりの割安で宿泊させてもらえると言う。

 そして迎えた週末、朝から車で海辺の町へ向かった。車は中古の軽四自動車だ。黒いTシャツ姿の蓮也が慣れた手つきでハンドルを握る。

「いつかもっとでかい車がほしいよ。新車でさ」
「そう? 僕は、車は動けばなんでもいいけどね」

 助手席の十羽がそう言うと、蓮也は「価値観の相違だな」と言って苦笑いした。とはいえ彼とは好きな食べ物やアートの趣味、生活感が合う。二人の生活は心地がいい。

 車は爽快に走り、やがて堤防の向こうに海と砂浜が見えてきた。
 晴天の下、どこまでも続く青い海がキラキラと輝いている。車の窓を開けた十羽は「わあっ」と感嘆の声を上げた。頬に当たる潮風が気持ちいい。

 蓮也と二人きりのときはマスクなどの仮面を外しているため、久しぶりに素肌に風を受けて気分が高揚した。

 道沿いの大きなレストランでランチを食べようという話になり、車は店の駐車場へ。広い駐車場には多くの車が止まっていた。

 ギアをバックに入れた蓮也が、後方を確認するべく助手席のシートに左手を添える。十羽は肩を抱かれたような錯覚を覚え、密かにドキドキした。

 蓮也の体躯は全体的にスマートだけれど、力仕事が多いせいか、筋肉が引き締まっている。首筋や肩周りも逞しい。特に上腕二頭筋は見惚れるほどだ。
 男の色気を大いに感じ、十羽の頬がほんのり赤くなる。

 車を停車させた彼が、十羽の顔をひょいと覗き込んだ。
「顔が赤いな。車に酔ったのか?」
「だ、大丈夫」

 赤い頬を見られるのが恥ずかしい。しかし蓮也は真顔で十羽の顔を覗き込んでくる。狭い車内でかなりの至近距離。エンジン音が消えた静かな車内は妙に緊張する。

(ち、近い、近いって!)

 いたたまれずに目をギュッと閉じると、蓮也が大きな手を十羽の額に当てた。
「熱があるのも」

(ひえっ!)
 心臓が壊れそうなほど脈打つ。

 優しくそっと撫でながら、手が頬に移動した。
 頬を包み込む手つきが甘く感じる。顔中が赤くなる。

「ちょっと、いいか?」
 蓮也の端正な顔がさらに近づき、額に額をコツンと合わせた。
 キスができる距離だ。
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