時空を超えてキスをする

ましろい冬野

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3章 2021年 執拗な誘い

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 過去から元の世界へ帰ってきた日、十羽は平成の歴史を調べた。
 32年前の平成元年はバブル景気で活気に満ちた時代だったことを知り、商店街が賑わっていたことに納得した。消費税がスタートし、平成という時代が幕を開けた年だった。

 もう少し過去の世界を楽しめば良かったと、無事に帰ってこられた今だからこそ思う。
 とは言え、過去の世界での自分は誰かの助けがなければ生きていけない。タイムスリップなど二度としないほうがいいに決まっている。そもそも再び過去へタイムスリップできるのかもわからない。

 結局、図書館へは行かず、十羽はアパートへ戻った後、簡単な夕食を作って一人で食べた。
 その後、商店街にあるドラッグストアが安売りの日だったことを思い出し、帽子と眼鏡、マスクをつけて外へ出た。ちょっとした外出でも顔を隠すことは忘れない。夜に素顔で外を歩けば、高確率でナンパ目的の男に声をかけられるからだ。

 洗剤を買おうかなと考えながら歩いていると、スマホにメッセージが届いた。
『用事は終わったよね? やっぱりビデオ通話じゃ物足りないから、会いに行くよ』
「へ!? まさか、今から!?」
 ギョッとしたのも束の間、メッセージが届く。
『実はもう、車で近くまで来てるんだよ』
 この男はどこまで粘着してくるのだろう。
『あれ? 部屋の灯りがついてないね。寝るのは早いし……出かけてる?』
 すでにアパートへ来ている。スマホを持つ手が震えた。

『まさかとは思うけど、俺以外の男と会ってないよね? もしそうなら許さないよ』
 本当に怖い。会いたくない。
 アパートからここまで、そう遠くない。じっとしていたらすぐに見つかってしまう。

 十羽は走って商店街へ向かった。しかし小さな商店街に身を隠せそうな店はない。午後9時の今、開いているのはコンビニとドラッグストアくらい。どちらに入っても見つかるだろう。

 だったら住宅地だと思い、商店街を駆け抜けて五丁目へ向かった。蓮也の家があった付近で足を止め、ハアハアと荒い呼吸をしながら周囲を見ると、広い歩道の真ん中にあるイチョウ並木が外灯に照らされていた。
 木の下には二人がけのベンチがある。十羽は木製のベンチに腰かけて一息ついた。
 スマホが音を鳴らす。

『てっきりコンビニへ行ったと思ったんだけどな。ドラッグストアにもいないね。どこにいるんだよ。ほんとに男と会ってないよな? なあ、返事しろよ!』
 文言から苛立ちが伝わってきて、十羽の指先が震えた。

『一人で少し、散歩してるだけです』
 急いで返信すると『ほんとに一人か? ほんとに? ほんとに? 嘘ついたら事務所でゲイだって言いふらすぞ』と返信が。

 腹立たしいけれど、できるだけ穏便に自分のことを諦めさせなければ。
『もちろん一人ですよ。ねえ牛丸さん、明日また会えるんだから、今日はもういいじゃないですか。デート、楽しみにしてます』
 心にもないことを綴って送信ボタンを押した。

『俺も楽しみだよ。明日は必ずデートしよう。まずは食事だけ。でもキスはしようね』
 絶対キスしたくない。
 胃が痛くなってきた。社会人として褒められたことではないけれど、明日は仮病で仕事を休んでしまおうか。もしくはこのままどこか遠くへ逃げたい。牛丸がいない世界で平和に暮らしたい。

 頭上でイチョウの葉がザワザワと音を立てる。図書館の隣の公園に立つ巨木に比べれば小さいが、幹の直径が五十センチはある立派な木だ。十羽を慰めるような、優しい葉擦れの音を鳴らしている。

 虚ろな目でイチョウの木を見つめていると──。

 眼前に信じがたいものを見つけた。木の幹にドアノブがついているのだ。図書館の側板についていたものと同じ、真鍮しんちゅう製の丸いドアノブが。
「こ、これって……!」
 驚きのあまり息を呑んだ。

 さっきまで普通の木だったのに、今はドアノブがついている。このドアノブを引けば木の幹がドアのように開いて、またタイムスリップできるのでは。

 周囲に歩行者はいない。立ち上がって恐る恐る、ドアノブに手を伸ばした。タイムスリップなんてしないほうがいいとわかっているけれど、時間を超えれば牛丸がいない世界に行ける可能性がある。

(きっとまたすぐ、帰ってこられる……はず)

 十羽は思いきってドアノブを掴み、回して引いた。キィッという音とともに、幹が扉となって開く。同時に、以前と同じように強風が吹き出してきた。風がくるりと背後へ回り込んで十羽の背中を押す。

「わっ!」

 真っ暗闇の空間にダイブした十羽は、滑り台を滑るように下へ下へと落ちていく。そして白い光りの輪をくぐった瞬間、また、爽やかな新緑の香りが鼻腔をくすぐった。

(この香り、どこかで……)
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